第九話
アリシャは村に戻ると、すぐにロブフに話を聞きに行った。
ロブフは事件があった家の後始末を他の村人達と一緒にしていた。
「叔父さん」
「ん……?」
近くの物陰からアリシャが顔を出し、ロブフの名前を呼んだ。
気付いたロブフを手招きする。
「……すまない、ちょっと用事があって、少し抜けさせてもらう」
「分かりました」
ロブフが村人達に断り、作業から抜け出してアリシャがいる物陰に入る。
「どうしたんだ、アリシャ?」
「……その、一つ聞きたいことがあって」
「聞きたいこと」
「はい」
「どんなことだい?」
「それは……」
アリシャが口ごもる。
「あの……私は、その、他所者だし、あんまり聞いちゃいけないことなのかもしれませんけれど……どうしても気になっちゃって……」
「いいから、余計なことはきにせず話してみなさい」
ロブフが苦笑しながら、彼女の頭に手を置く。
「今回のことに関することかな?」
「……はい。あの……叔父さんは、前にも悪魔が殺したっていう人の死体を見たことがあるんですよね?」
「む……うむ。まあね」
急にロブフの表情が暗くなる。
「す、すみません」
慌ててアリシャが謝る。
「いや、気にしないでくれ。話せと言ったのは私なのだから……ほら、続きを」
「……殺され方は、皆一緒なのでしょうか? あんな風に……」
「……そうだ。いつも、ああだよ」
「そうですか……それじゃあ、邪神っていう言葉に聞き覚えは?」
「邪神?」
ロブフが首を捻る。
「いや、聞いたことがないが……それがどうかしたのか?」
「あ、いえ。大したことじゃないんですけど……最後にもう一つ、聞いていいですか?」
「構わないよ」
「今回の事件、聖女……聖女様はなにかおっしゃっているんですか?」
「ああ。やはり、あの家の者がしっかりと窓をふさいでいなかったのが原因だとね」
「そうですか……じゃあ、私やあの男のせいではないんですね?」
アリシャが少しだけ安心した様子で胸をなでおろす。
「なんだ……あんな話を真に受けていたのか? あんなのは村人達が恐怖心を誤魔化すために言っていただけのものだよ」
「でも、やっぱり少し気になっちゃって……もし私のせいだったら、どうしようって」
「はは、心配性だな……大丈夫。お前が原因なんてことはあり得ないよ」
「……はい」
ロブフの言葉に、アリシャが小さく頷く。
「しかし、クロトさんのことまで気にかけているとは、意外とアリシャは彼のことが気に入っていたのかな?」
不意にロブフがそんなことを言い出す。
「な……!?」
アリシャが愕然とした。
「そ、そんなわけないでしょ!?」
思わず素の喋り方で否定する。
「意地になって否定するところも、怪しいな」
「違うってば! ただ私は、追い出すみたいな形になったのが気になっていただけで……あいつが原因じゃなかったなら、もう少しゆっくりさせてあげてもよかったんじゃないかな、って」
そうすればいろいろ分かったかもしれないのに、とアリシャは言葉の続きを心の中で呟く。
「確かに、彼には悪いことをした……だが、この村は他所の方には居心地が悪いだろうし、もしかしたらクロトさんも早く出立したかったのかもしれないだろう? あまり過ぎたことを気にするのは止めなさい」
「……はい」
「それでは、私はもう戻るよ」
「すみません、余計な手間をかけてしまって」
「気にすることはない」
もう一度アリシャの頭に手を置いて、ロブフは微笑む。
「もうお前は私達の娘のようなものなのだ。なにもこんなことで遠慮することや、申し訳なく思うことはないのだよ」
「……ありがとうございます」
「ああ」
ロブフが作業に戻って行くのを見送りながら、アリシャは昨夜のクロトが言っていたことを思い出していた。
邪神とは、人を苦しめ、利用し、叶わぬ希望を持たせて、それを楽しむものである。
「……もし、ほんとにそんなものが関わってるなら」
アリシャが拳を握りしめる。
優しい叔父達が暮らすこの村を、邪神が悪戯に苦しめていると言うのであればアリシャにはそんなこと許せなかった。
「絶対、なんとかしてみせる……邪神だろうと、悪魔だろうと……」
アリシャの脳裏に、病に侵され死んでいった両親や、生まれ故郷の人々の姿がよぎった。
「もうこれ以上、誰も死なせたりしない……!」
†
すっかり日が暮れ、暗くなった森の中。
焚き火のすぐ近くにクロトは腰を下ろしていた。
炎に照らされたクロトの左足は、ズボンが途中から千切れ、その下の肌は包帯で覆われていた。
さらに足は太い木の枝でがっちり固定されている。
「こんなもんか……」
しっかりと添え木のされた左足を見て、クロトは満足げに頷くと、脇に置いてあった長い木の枝を手に、ゆっくりと立ち上がった。
「よし」
左足の具合を確認したクロトは、再び座って空を見上げた。
「とりあえず朝一番に村に戻らせてもらうとするか……」
†
夜、アリシャは自室の窓の前に立っていた。
置いてあった蝋燭の火を消すと、部屋の中が暗闇に染まる。
彼女が手さぐりで、窓を覆う金属板に触れた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせ、アリシャは金属板を……外した。
「……」
息を殺して、アリシャは金属板を脇に置く。
初めて見る夜の村は、明るかった。
アリシャは窓を開けると、ゆっくりと顔を出し、家の横にある聖女の社を見た。
社の屋根の上に、巨大な炎が灯っていた。
「……悪魔を光でしばりつけておくため、だっけ。炎の明かりにしばられた悪魔は、光の届かない家の中には入れない……か」
話にだけは聞いていた聖女の炎を目の当たりにして、アリシャは唾を飲みこんだ。
してはいけないことをしている。その罪悪感を押し殺しながら、アリシャは窓から身体を外に出して、軒の足をかけた。
窓を閉めて、アリシャは空に飛び上った。
空から、炎に照らされ、どことなく異様な雰囲気を放つ村を見下ろす。
「なんにも、いないわね」
アリシャの視界に、悪魔や邪神などと思わしき影は映っていなかった。
「……とりあえず、降りてみよう」
意を決し、アリシャは村の噴水広場へと降り立った。
聞こえるのは、噴水の音だけ。
その静けさに、アリシャの背筋を冷たいものが伝う。
「大丈夫……大丈夫よ」
小さな声でアリシャは繰り返した。
「なにが出て来たって、ぶっ飛ばせばいいのよ……もともと、そのつもりで出てきたんでしょう?」
早くなった胸の鼓動を落ちつけようと、アリシャは深呼吸をした。
「私の魔術は凄いんだから……悪魔でも邪神でもかかってこいってのよ」
必死に自分の中の弱音を殺し、アリシャは辺りに視線を巡らせた。
と、なにかが軋むような音が聞こえた。
「――っ!?」
アリシャは音のした方を見た。
「……な、なに?」
恐る恐る、路地の暗がりに目を凝らした。
「……」
一歩一歩ゆっくりと、アリシャはそちらに歩いていく。
生温かい風がアリシャの頬を撫でた。
「……なにか、いるの?」
さらにもう一度、軋むような音がする。
「ひ……!」
アリシャが慌てて後ずさる。
「っ……こ、怖くなんてないんだから!」
自分を奮い立たせ、アリシャは暗闇に向かって手をかざした。
すると光がアリシャの手の中に生まれ、暗がりを打ち払う。
照らし出された路地には……なにもいなかった。
「……」
アリシャが安堵する。
「風かなにかのせい、よね」
そう納得して、アリシャは身を翻した。
その瞬間。
悲鳴が、夜の村に響き渡った。
「今の……っ」
アリシャの頬を冷や汗が一筋流れる。
「……」
悲鳴のもとに駆けつけなければ、という思いはあった。
しかし夜中の村には得体の知れないものが徘徊しているかもしれない……その上、悲鳴まで聞こえたのだ。
恐怖心は十分すぎるほどに掻き立てられていた。
アリシャは自分の掌を見た。
「……大丈夫」
掌を握る。
「大丈夫だから……っ!」
恐怖心を必死におさえ……地面を蹴って、駆けだした。
魔術で強化した足で跳躍すると、民家の屋根から屋根へと跳び移り、一直線に悲鳴の聞こえた場所に向かう。
そこは、村の入り口に近い路地だった。
暗がりの中から、なにかの音が聞こえる。
なにかを潰すような、引き千切るような、不気味な音だ。
「……」
屋根の上からその音を聞いて、アリシャは息をのむ。
なにが起きているのか、確認しなくては。
アリシャは震える手を路地に向けた。
魔術によって光が生み出される。
アリシャは照らし出された路地を屋根の上から覗きこんだ。
そこにあったのは、赤い水溜りだった。
アリシャの鼻孔が、濃密な鉄の臭いに満たされる。
「……ぁ」
血だ、と。遅れてアリシャは気付いた。
血溜まりの中に、ぐちゃぐちゃの肉片が転がっていた。
それは内臓だった。
血溜まりの中心に、二体の亡骸があった。
今朝、悪魔に殺された村人と同じように、腹を開かれた亡骸は、その死に顔を恐怖に染め上げていた。
「ひ……っ」
アリシャの咽喉の奥から、悲鳴が漏れる。
その瞬間……アリシャの足元で物音がした。
アリシャが立つ屋根の縁に、白い手がかかっていた。
「っ……!」
アリシャが後ずさる。
それがなんの手なのか、アリシャには分からない。
人間の手に、よく似ていた。
けれど絶対に普通の人間の手ではない。
何故だが、そう感じた。
まるで干からびた、ミイラのような手だ。
しかし、それだけではない。
アリシャが感じた差異は、干からびているだとか、そんな表面的なものではないのだ。
すぐには気付けなかった。
屋根のかかった手に力がこもる。
もう一つ、手が現れる。
そこから頭が持ち上がってきた。
やはり人間の頭によく似ている。
形だけは。
さらに首、胸、腹と、ゆっくりとその身体は這いあがってきた。
その全貌を、アリシャは視界に収めた。
全身が骨と皮だけで出来たような、怪物だ。
姿は、基本的には人間と同じ。
けれど、それでもやはり決定的に人間とは違う。
ここにきて、ようやくアリシャは気付いた。
目の前の怪物と人間との、決定的な違い。
正反対なのだ。
全身の関節が、本来とは逆方向に曲がっていた。
指先から頭の先まで、ありとあらゆる関節が軋んでいる。
アリシャにはそんな怪物の姿が、人間とは反対の存在なのだという薄気味悪い主張のように思えた。
怪物は、獣のように四肢で身体を持ち上げた。
「あ……ぁ……っ!」
アリシャの思考は、ただ一つの感情に塗り潰されていた。
「あく、ま……?」
それを――悪魔を前に、アリシャは半ば恐慌状態に陥る。
「ぃ……や……」
本能が叫んでいた。
目の前の存在は、対峙してはならないものだと。
怖かった。
自分の腹を目の前の怪物が破り、内臓を引き千切る光景を幻視する。
恐ろしかった。
だから、思わずになどいられない。
逃げだしたい、と。
――抗うことなど出来なかった。
自分が持ち得る全力を以てアリシャは悪魔に立ち向かうのではなく、逃げだした。
風を追い越し、音を置き去りにして、アリシャはただ悪魔から遠ざかる。
あっというまに家に戻り、飛び込むように窓から自室に入ると、すぐさま窓を金属板で塞いだ。
さらに魔術で窓を何重にも多い、厳重に塞ぐ。
「……っ!」
そこまでして、ようやくアリシャは正気を取り戻した。
アリシャは地面に崩れ落ちた。
顔にびっしりとかいた汗を拭う余裕もない。
「な、なに……?」
アリシャの身体は激しく震えていた。
なぜだか、涙まで出てくる。
「なに、あれ……」
身体を丸めて、額を地面につける。
「なんなのよ……あれ」
†
翌朝。
村の端の方で、旅人らしき二人組の亡骸が見つかった。
アリシャは死体を囲む人混みを、離れた位置から青い顔で見つめていた。
歯が噛み合わなくなり、眩暈に襲われる。
「……助け、られなかった」
誰にも聞こえないくらいに小さな声で、アリシャはこぼす。
「……私は、また……」
「どうかしたのかい、アリシャ?」
アリシャの尋常ではない様子に、隣にいたゼルが気付く。
「……なんでも、ありません……っ」
絞り出すように答えて、アリシャは身を翻した。
「すみません、気分が悪いので……帰って、休みます」
「あ、ああ……」
そうアリシャが家に戻ろうとした時だった。
人混みの一角が、騒がしくなった。
遅れて、人混みが二つに割れる。
「なんだ……?」
ゼルが怪訝そうな顔をする。
アリシャもそちらに目をやった。
「あれは……」
「――っ!」
そして、見つける。
昨日村を出た筈の、クロトの姿を。




