20:ペルセリス(エイレーティア)、追憶3。
(追憶・3)
聖地・ヴァビロフォス
エイレーティア:18歳
私と白賢者は夫婦になった。
ただそれだけで、今まで不安定だった私の気持ちがびっくりするくらい落ち着いて、私は彼と共に穏やかな時を過ごしていく。
勿論彼は東の大陸に戻る事もあったけれど、私はちゃんと彼を待った。
誰もが置いていった白賢者と言う存在を、ただ一人待つ存在であろうと決めた。
神官たちは、私とユノーシスが結婚した事で身動きしづらくなった様で、ここ最近大人しい。
それだけ白賢者と言う存在がとても力を持っているのだろう。背後にあるルーベルキアと言う国すら大人しくさせてしまう程の。
「エイレーティア、久々にファンに乗るかい?」
「………も、もう子供じゃないもん……別に……」
子供の頃は、ファンの背中に乗って空に連れて行ってもらうのが大好きだった。
だからって良い歳の娘が、精霊に乗ってはしゃぐと言うのもみっともない気がして。
私は白賢者の妻私は白賢者の妻。
もうちょっと大人にならなければ。我慢だ。
でもどこかうずうずとしてしまう。
「ほうほう……巫女様はもう私の背に乗っては下さらないので?」
「……ファン、その目は……」
う……その目は卑怯だ。ファンのまんまるの瞳がこっちを見ている。
風の精霊ファン・トロームは第六戒の姿で私を待っていた。
「わあああ、久々だわ!! この浮遊感!!」
さて、いざ空へ飛び立ったらはしゃぎまくる私は、やはり幼い頃から何一つ変わらない。
高い位置からこの聖域を囲む巨大な森林を見下ろすのが好きだった。
緑の巫女は行動範囲が制限されている。聖域から離れる事を許されないから。
だから、ユノーシスが空へ連れて行ってくれる事が昔から嬉しかった。
私の世界は横へ広がる事は無くても、上へなら行けるんだと知った。彼だけがそこへ連れて行ってくれる。
「見てユノーシス。海よ!!」
「エイレーティア、お、落ち着いて」
「見て見て!! キラキラしているわ!!」
空からは中央海を見る事ができる。案外近くに海があるのに、私は海へ行った事が無く、遠くから見る青さだけしか知らない。
「…………海」
海の向こう側に、東の大陸があるのだろうか。見える事は無いけれど、静かな海を越えた場所に、ユノーシスの生まれた土地があるのだと思うと不思議な気分になる。心無しか、彼の服をぎゅっと掴んだ。
「海、行ってみる?」
「……いいの?」
「少しなら。長老たちには内緒だよ」
ユノーシスは小さく微笑むと、ファンに命令する。
森を抜け、崖を降りた所にある砂浜に、私たちは降り立った。
「……凄い」
波の音、潮の香り、美しいブルーを目前に、私は初めて全身で海を感じた。
ひらひらした巫女服をたくし上げ、夢中になって海に駆け込む。砂浜が温かく気持ちがよかった。
「巫女様、あまりはしゃぐと転んじゃうわよ」
水の精霊セリアーデがスイスイと泳ぎながら、私の周りでクスクス笑う。
案の定、私は海の波に足下をすくわれ、転んでしまった。
「ふふ」
でも、嫌な気はしない。聖域の泉とは全く違う水の感触。もっともっと奥深い海中の無音。
森の中では木の隙間からしか見る事のできなかった空。広く開けた視界は、世界の広さを教えてくれる。
「エイレーティア、大丈夫かい?」
ぷかぷかと浮かんだまま起き上がらない私を心配し、ユノーシスがやってきた。上着と帽を取った彼が波をかき分け、随分深い所まで水につかっている。いつの間にか波に攫われ、結構な深さの所まできていた。
「ねえユノーシス……この海を越えた所に、東の大陸はあるのね」
「……そうだよ。海はこのメイデーアの全てを結んでいるから」
彼は私の手を引いて、起き上がらせてくれた。いつの間にか白賢者の契約した海の精霊たちが私たちを囲んでいる。
「うふふふ、あはははは」
「エ、エイレーティア……?」
「あっははははは………痛っ!」
意味も無くこみ上げてくる笑い。高揚した気持ちを抑えきれず、ユノーシスに抱きついて飛び跳ねたりしていた。
その時足に痛みが走って、何事かと思ったら、足下に半透明の浮遊物。
「き、きゃああ!!」
「あ、クラゲ」
「くおらああ、このクラゲ野郎巫女様に何つーことを!!」
「袋じゃボケが!!」
ウミヘビの精霊ボルガとセリアーデが何やら騒がしいが、私は足に走る痛みに驚き、ユノーシスに抱えられ海を出た。
「ああ……完全に刺されたね」
「痛い……痛いよお」
「大丈夫。このくらいすぐ治せるから」
彼は私を岩場に降ろし、足を取るとクラゲに刺された部分に手をかざした。
彼のローブと帽子の上でじっと座っていた猿の精霊ククルが、ぴょんと跳ねる。
「………わあ」
ふわりと生温いお湯に包まれたような感覚だった。
赤く腫れた傷口はみるみる元の肌色に戻って、先ほどの痛みも消えていった。
「こんなに簡単に怪我を治せるのね、白賢者って」
「ふふ……このくらい、白魔術師なら誰にでもできる事だよ。それに、私たちは何だって治癒出来る訳ではない。そこに治る可能性が無ければ……」
「治る……可能性?」
「ええ。とても難しい線引きだけど、私たちの使う魔法は万能ではなく、多くの約束事とリスクによって成り立っている。1%の可能性を10%まで大きくする事はできるけど、0%の可能性を1%にする事はできないと言う事だよ」
「良く分からないわ」
「……だよね」
ユノーシスは濡れた自分の服を絞りながら、私の隣に座った。
私は治ったばかりの足をぶらぶらさせる。
海では精霊たちが楽しそうに騒いでいた。
「ゼロの世界と言うのは、1の世界とは大きく異なる。ゼロを1にする事が、僕は最大の魔法だと思っているんだ。それはきっと、運命を変える魔法だ」
「……運命を変える?」
ユノーシスは少し困った様に笑って言った。こんなに長く魔導を極める自分でも、まだその魔法は使えないと。
彼はゼロを1にしたい事があったのだろうか。
夕波がきらきらと、とても美しく静かだった。
私たちは子を授かった。
聖域が花で満たされる時期に、まるで祝福されるように息子シュマは生まれた。名は精霊の子と言う意味だ。
とても不思議な子供だった。
森の動物たちがこぞって愛でに来る、聖域に愛された子供。
世界にこれほど愛しいものがあったのかと、母になったばかりの私は思ったものだ。
しっかりと地に足を付け立っていられる人間にならないといけないと、強くならなければと、愛しい我が子を腕に抱きながら何度も考えた。
生まれたのが娘でなかった事に聖域の住人たちはどこかがっかりしていたようだったけれど、それでも彼らはシュマを祝福した。
男児は緑の巫女にはなれないけれど、聖域の住人としてこの地を守る重要な役割を担う事が多い。
きっとこの子も聖域を守る為の存在になるに違いない。
でもそれ以前に、元気に清らかに育って欲しいと願った。
ユノーシスは自分の息子からなかなか離れようとしなかった。
当然彼にとって初めての息子で、愛おしくて仕方が無かったのは分かるけれど、そのせいでしばしば勇者カヤに寒い視線を向けられていた。
勇者一行も私たちを祝福してくれた。なかなか東の大陸に戻ろうとしない白賢者を引きずって連れて行ってしまったけれど、私はシュマと共に笑顔でユノーシスを見送った。
父はきっと世界を救う人だよと、まだ言葉も分からないシュマに言って聞かせた。
シュマはとても聡明で、子供ながらに強い瞳を持ったしっかりとした子に育っていった。
その出で立ちはまさに聖域に愛された特別な子供だと、言って聞かせるより確かな聖なる空気があり、白賢者譲りの白魔術の才能を持っているようで精霊たちもこの子を可愛がった。緑の巫女の私ですら、たまにハッとする程聖地の空気に馴染んでいたりする。
シュマはとにかく好奇心旺盛で、父である白賢者が帰ってきた時には他大陸の冒険の話に胸を躍らせていた。
家族三人で海へ行くこともあった。シュマは子供ながら、海の広さに魅入らせ、その奥にある世界を夢見ているようだった。実は森を散歩すると言って、こっそりユノーシスと海に行く事もあったらしい。それほど海が好きな子だった。海の向こう側が好きだったのだ。
「父様、僕も東の大陸に行ってみたいなあ」
「はは……この土地程平和で美しい場所は無いと言うのに。海を越えて行けば、多くの争いに出会ってしまうよ」
「それでも父様は冒険したのでしょう?」
「………そうだねえ」
海で精霊たちと戯れるシュマを、彼は優しい期待の眼差しで見ていた。
白賢者は彼に何を見いだしていたのだろう。
「そんなのダメよ。母様を一人にする気?」
男たちがこそこそそんなロマンの話をしていたら、私は膨れっ面になってそう言う。
やっぱり白賢者の子だ。まだ子供のくせに、世界の広さを知りにいきたがる。
シュマは稀にここへやってくる勇者たちや、自分の父にとてつもない憧れを感じている様子だったから。
それは嬉しく頼もしいことでもあったけれど、いつかこの子もこの箱庭を出て世界のどこかへ行ってしまうのかと、ふと思ったりもする。
海の波の音が、押したり引いたりして、私の大切なものを全部向こう側に持っていくんじゃないかと。
夕暮れ時、シュマが遊び疲れ寝てしまった後、私は聖域でその不安をぽつりと呟いた事がある。
「ならその時は、私がここにいよう。冒険はそろそろ終わりを迎えるだろうから」
「………そろそろ?」
「何でだろうね、そんな気がするんだよ。全てが終わったら、私はきっとここへ戻ってきて、君と共に余生を静かに過ごす……きっと、私の時は流れ出す。君と共に歳を重ねて、あの子を見守っていければ……幸せだよね」
「………ユノーシス」
ユノーシスは私の不安をよそに、私と共いる平穏を望んでいるようだった。
私は彼に寄り添って、膝を枕に眠るシュマの髪を撫でながら、この瞬間を噛み締める。
こんなに幸せな時は無かった。
長く手に入れたかった大切なものが、私の手のうちにはあったのだ。
ずっと窮屈に思っていたこの聖域と言う箱庭は、大切なものが揃うだけで姿を変える。
ここは私の緑の世界。
「きっとその通りになるわ。何もかもが上手く行く……」
私は昔、彼に永遠を望んだけれど、この時は共に老いていく事が望みだった。
白賢者はやはり人だ。置いていかれる事を恐れる悲しい人。
私はあなたを置いていく事もできない。だから、二人で歳をとっていきたいと思っていた。
彼は魔王たちを倒し、その使命に終止符を打つ事で、きっとそれを許されるのだろう。
何の不安も無かった。
この聖域の導きのまま、何もかも上手く行くと信じていた。
だけど、思っていたよりずっと早く暗雲は生じた。
まさか、カヤが私たちを、白賢者を裏切るとは思わなかった。