10:ペルセリス、予感と気配の芽吹き。
“永遠に君を愛する”
その白桔梗の花言葉に意味があったなら、ユリシスはこれを「受け取るな」とは言わなかったのではないだろうか。
「ねえ知ってる? ユリシス殿下、他国のお姫様との縁談の話がきてるんだってよ〜。さあどうするどうする〜」
昨日の夕方頃、教国に訪れたウルバヌス・メディテに、そう告げられた。
ウルバヌスの言い方が少々気持ち悪かったけれど、私にそれを気にする余裕なんて無い。
私は悟ったものだ。ユリシスがここへ来なくなったのは、きっともっと大切な事があるからだ。もしかしたらもっと大事な人ができたのかもしれない。
元々私は妹の様にしか思われていなかったけれど。
それでも、凄く悲しくなったよ。
不安で寝れない夜の後、私はいつものように一人聖地の泉に浸かって、会えない彼の事を考えていた。
彼と初めて会ったのは、ちょうど私が5歳の時。
彼は7歳程度の幼い少年だったのに、どこか背筋の延び、地に足着いた佇まいの、大人びた空気のある美しい王子だった。
出会った瞬間から、彼に恋をした。というより、幼いながら、いつかこの人を好きになるんだろうと言う予感を秘めていたと思うよ。
今思えば、それは予感と言うより確信で、自分にとって定められた感情の一部だった気もする。
デルグスタ司教の後ろに隠れて、恥ずかしがっている私に、彼は笑顔で手を差し伸べてくれた。
外に出られない私に、沢山の話をしてくれた。
子供だったくせに、何だって知っていたから。
その頃の笑顔に曇りは無く、いつも優しい白い空気に包まれていたけれど、たまにふと寂しそうな顔をしていたと思う。
誰かを待っているような、そんな瞳で遠くを見ていた。
「ユリシスの待ち人が確かにいるのなら、できるだけ早く彼の前に現れて下さい」
私はいつも大樹の前でお祈りしていた。
その人が現れれば、彼はきっと寂しくない。あんな寂しそうな顔をしたりしない。
きっともっと笑顔になってくれると思っていたから。
私が13歳になったばかりの頃だったと思う。
二人で本を見ながら、“何か”の話をしていた時、ユリシスが突然、とても驚いた顔をしたのだ。
確か、私が何か言ったのだけれど、私はそれを覚えていない。
その時のユリシスの驚いた表情はちゃんと覚えているのに。
あれからだ。
彼は少しだけ、寂しそうな顔で笑って、私を見る様になった。
でも、それでもこの頃は変わらず教国にやってきては、私と一緒に居てくれた。
彼は私を見守る様に、側に居てくれた。
どうでもいい私の話を聞いてくれたし、彼もまた色々な事を語って聞かせてくれた。
そして、あの舞踏会の日、ユリシスは待ち人に再会する事になる。
マキアとトールだ。
ユリシスにとって特別で、ユリシスを理解出来る二人。
「……よかったね、ユリシス」
二人と会えてよかったね。
まれにこの場所に来るマキアとトールは、今でこそ私の大切な友人でもあるけれど、この二人が現れた時から少し思っていた。
ああきっと、ユリシスの中で私という存在の範囲は、これからもっともっと小さくなっていくんだろうって。
しかし状況は一変する。
聖教祭の最後の日、この王都はエルメデス連邦の遊撃巨兵の襲撃を受ける。
その後、ユリシスとマキア、トール、フレジールのお姫様と将軍が、特別な者以外入る事のできないこの聖地にやってきた。
理由は、明確に彼らが特別な存在だったから。
何がどう特別だとか、神話がどうとか、私には良く分からなかったけれど、彼らがなにか普通でない運命の輪の中にいる事は理解できた。
ユリシスは泣いていたよ。
私にとっても、なにか言い様の無い感情を抱くあの少年の墓の前で。
そして、私に何度も謝った。
縋る様に抱きしめて、何度も何度も。私はこんなに弱った彼の姿を初めて見た。
私は何も知らなかったけれど、この時少し気がついていたんだ。
多分、自分も彼らの運命の輪の一部なんだろうと。
でも、何も知らないの。
ユリシスがなんで、私に向かってあんなに懺悔の言葉を並べたのか。
それから、ユリシスは私に会う度に、悲しそうに笑う。
そして、いつからかガラス細工でも扱うかの様に、私に対して慎重になっていった。あんなに気軽に触れ合っていたのに、一定の距離を保って側に寄ってくれなくなったし、頭を撫でてもくれなくなった。
それがとてもとても寂しい事だと思った。
私は彼にとって、いったい何なのか。とても面倒なものなのでは?
彼にとって、懺悔に至る存在とは何だろう。
もしかして私は、ユリシスにとって重荷でしかない存在なのではないだろうか。
彼を悲しい顔にする理由は、何だろう。
そうやって考えて行くうちに、私は嫉妬して行く。
マキアやトールに。
勿論表には出さないし、彼らだって大好きだけど、ユリシスはマキアやトールと居る時は本当に楽しそうで幸せそうだ。
癒されている。彼らの存在に、沢山救われている。待ちに待っていたのだと、言われるより明らかに。
見ているだけで分かるよ。
でも、私はそれを望んで祈っていたはずなのに。
嫌な女の子だね。
泉の水に、沢山の花びらと一緒にぷかぷか浮かんで、その冷たさに身を預ける。
そうすると少しだけ、寂しい気持ちや醜い嫉妬を沈める事ができるから。
「………」
ザアアア……
薄布の着物が水を吸って重くなったそのまま、私は泉の中心で起き上がった。
すると、こんな朝早くだと言うのに、真理の墓の入口辺りにユリシスが立っていたのだ。
「………エイレーティア……」
最初彼は、そう呟いた。
その瞬間、私は言いしれぬ寒気を感じ一瞬顔を歪めた。
知っている。その名前は、どこか私の心の奥に眠っている。
でも、そこまで来ている気配の波を押し戻す様に、私は表情を引き締めた。
どのくらい会っていなかっただろう。
ここ二ヶ月程、彼とまともに会話もしていない。
「………ペルセリス」
「………」
私は高ぶる心を抑える様に、奥歯を食いしばる。
彼が会いにきてくれたのは本当に嬉しかったくせに。
私は大樹の裏側まで行って、ちょこんとしゃがみ込んだ。
なんでこんな事をしたのか、説明するのは難しいね。でも、きっと凄く単純な、子供じみた気持ち。
嬉しいくせに、それを表に出したくない、そんな可愛げの無い乙女心。
「………どうしたのペルセリス。……濡れたままそんな場所に居ると、風邪ひいちゃうよ。もうそろそろ秋なんだから。特にここは涼しいしさ。……ほら、少し震えているじゃないか」
ユリシスがローブをかけてくれた。
彼の温もりが残ったローブ。私はローブを引き寄せ、その温もりを確かめる。
「………やっぱり、僕が側に居ると恐い? 何か、“思い出しそう”になってしまうかい?」
「……え?」
彼の問いに、思わず顔を上げてしまったけれど、その時見たユリシスがまた悲しそうに笑っていたから、私は顔を背けた。
ユリシスは同じ目線までしゃがみ込んで、私の顔を覗き込むけれど、今の顔は見られたくなくて顔を伏せる。
「ごめんね。ずっとここにこれなくて……」
ほら、そうやってまた謝るでしょう。
私は彼に背中を向けた。
「………ほら、またそんな顔するでしょう、ユリシス……。私の事が嫌なのは、ユリシスの方じゃない」
「……ペルセリス……?」
「別に……良いんだよ。困った顔するくらいならわざわざ私に会いにこなくても。もうユリシスには……マキアもトールも居るでしょう? 一緒に居て楽しい人、沢山居るんでしょう?」
言いながら悲しくなってくる。涙目だ。
「なんでよ……なんで私を見ると、そんなに悲しそうに、困った顔をするの……? 私、何も分からないよ……」
「………」
あなたは私に、いったい何の罪悪感を感じているの?
私はいったい何なの?
ああ嫌だ嫌だ。
私が何一つ分かっていない事が、きっと彼を一番苦しめているのに。
それなのに、本当の事を知るのを恐れている自分も居るの。
「不安なんだよ。ずっとずっと……あの日、ユリシスが“あの子”のお墓の前で泣いた日から……私、ずっと怖いの。予感がするの……気配があるの。何か分からない、恐ろしい気配が、私の中にずっとあるの」
ジワジワと、静かに機会をうかがっている何かの気配。
それはふとした事がきっかけで、きっと私を飲み込んでしまう。
予感はすでに、恐ろしいものだと分かっている。
体中がそれを拒否するから。
脳裏にちらつく残像を、明確にするのが恐ろしい。
「……その気配は、そんなに恐ろしいものなのかい?」
「恐いよ……だから……」
側にいてよ。
何もかもが不安で仕方が無いのに、あなたはいつも側にいてくれない。
そう言ってしまいたかったのに、その本音は彼の言葉に遮られた。
「そうか」
嫌な響きに聞こえた。
いけない方向に決着のついた、そんな気がした。
「でも、大丈夫だよ……君がその恐れを目覚めさせる事は……ないよ」
「…………?」
ユリシスはふと瞳を細めると、向かい側に咲く花を探りながら、一つの白桔梗を積んできた。
「昔居た、愚かな男の話をしよう。その男は賢者なんて呼ばれておきながら、自分の許嫁に気持ち一つ満足に伝えられない……そんな一回りしてバカな奴だったんだ。しかもその男は、他の大陸でやらなければならない事があったから、許嫁の側にずっと居てやる事もできなかった」
彼はいったい何の話をしているのか、古い物語でも言って聞かせる様だった。
一輪の白桔梗を寂しそうに見つめ、そして少し離れた場所で私の方に差し出す。
「その男は、白桔梗の花を許嫁に送った。そしてまもなくして、二人は夫婦になったんだ……」
「………」
私は一瞬、とてもドキッとした。
“彼が白桔梗を差し出す”というその光景を、私は知っている気がした。
連続的に、でも断片的に、パチンパチンと脳裏に展開されては消えていくセピア色のヴィジョン。
古くさいテクスチャーがフィルターの様にかかって見える、懐かしいヴィジョン。
知っている。
白桔梗の花言葉は、“永遠に君を愛する”。
高揚していく心と、紅潮していく頬。体が芯から熱くなっていく。
驚きと、期待と、喜びの、言い様の無い感情がこみ上げてくる。
「………でも君は、これを受けとってはいけないよ」
しかし、私の心は一瞬で冷たくなった。ずどんと、心に重い杭でも打ち付けられたかの様に、そこまで来ていた曖昧な感情が暗い水底に落とされる。
ユリシスはその花を私に渡す事無く、その場にそっと置いた。
「………え?」
それはいったい、どういう事なの?
「……どうして……?」
「君がこれを受け取ったら、君はきっと恐れに飲み込まれてしまう。全てを知ってしまうから」
ユリシスは視線を逸らしたまま、でもはっきりと言いきった。
あまりに抽象的で理解出来なかったけれど、一つ分かった事がある。
これは決着だ。
私は完全に、彼に拒否されたのだ。
それに気がついた時、私は耐える事ができず涙を流した。
だからといって、何も変わらないと知っていたけれど。
「どうしてよ……ユリシス……」
「……ごめん」
そして彼は、また一言私に謝る。
少し苦しそうに顔を歪めると、そのまま私に背を向けこの場から立ち去ろうとした。
ぽろぽろと涙を流しながら、でも打ち付けられた思いが身動き出来ないで、冷たくなった感情が重りになって、立ち上がる事もできない。
「待って……待ってよ……ユリシス……」
必死になって彼を呼び止めようとしても、その声はあまりに小さい。
もっと強く、彼を呼び止められるだけの勇気が、強さが、魅力が、私にあれば良かったのに。
木の根の隙間で小さくなって、ユリシスのかけてくれたローブを握りしめる。
少し離れた所にポツンと置かれた白桔梗を視界に捕えては、またボロボロ涙をこぼす。
ジワジワこみ上げてくるのは悲しみだけではなく、恐れている断片的な気配だ。
それは息切れしそうな程に、私を追いつめ、急かす。
「………ユリシス……」
行かないでよ。
側にいてよ。
恐いよ。
何かが追いかけてくるんだよ。
グルグル、グルグル、それは蜂蜜とヨーグルト、濃いビターチョコレートをガラスのスプーンでゆっくり混ぜているような感覚。
きらきらと美しいのに、どこか甘酸っぱく、そして苦い。
私を追いかけてくるのは、そんな濁った色のもの。
甘い、でも決して優しくない、そんなものが、私を飲み込んでいく。
ああ………どこからか懐かしい、笛の音が聞こえてくる。
「すまない……でもこれは、私の罪だから。あの男を止めるのは、私でなければならない」
「……行ってしまうのね。私と“シュマ”を置いて」
「………ごめん」
懐かしい声がする。
誰?
あなたたちは誰なの?
白い髪の男性と、緑の髪を結った女性が居る。小さな少年を……あの棺の中の少年を隣に連れている。
男はその少年の前で膝を着くと、頬に触れ言った。
「全てが終わったら、父様と一緒にあの場所へ行こう。約束だ。それまで、お前が母様の側にいるんだよ………シュマ。あの場所は、私たち家族にとって、きっと特別だからね」
「はい、父様」
少年は幼いながら、女よりよっぽど頼もしい表情で頷いた。
ああ……何もかも懐かしい。
何で懐かしいのか分からないのに、どうしようもなく涙が止まらない。
もっと知りたい。
あなたたちの事をもっと知れば、私はユリシスに近づく事ができる気がする。
知っていたなら、ユリシスを引き止める事ができたかもしれない。
もっと、もっと………。
私はキラキラ渦巻く、私の中に眠る気配を、手探りで探っていこうとした。
しかし、突然それは、真っ黒で固い大理石みたいな禍々しい壁に阻まれる。
「………」
瞬間、全身に刺さるような負の感情。
怖い。
許せない。
死んでしまいたい。
あの人たちに会いたい。
見えるのは、悲しみに打ちひしがれ、この聖地にて狂った様に泣き叫び、棺に縋る女。
駄目。
ここから先は、見るべきではない。
きっとあなたには耐えられない。
あなたは何も知らなくて良い。
誰かが私に目隠しをした。
「…………」
泣きつかれ、大樹の根元で眠っていた私は目を覚ました。
ユリシスのローブを必死に掴んで、小さく小さくなったまま。
「泣いてちゃいけないぜ、巫女様」
どこからか笛の音が聞こえ、また頭上から声がした。
私は驚いて起き上がると、大樹の幾重にも広がる枝葉を見上げた。
その幹の分かれ目に、一人の若い男が膝を立て座り、横笛を吹いていた。
その音色はどこか不安定ですっきりしないのに、知っている気がする。さっきから聞こえていた気がする。
男は白と黒の模様の刻まれた、この教国で誰もが着ている司教の服を着て、四角い帽子を被っている。
「………だ、誰?」
初めて見る司教だった。
帽子の隙間から、短く刈り込まれたアッシュの髪が見える。
司教服に似合わない不敵な笑みを浮かべ、三白眼の鋭い瞳が私を見下ろしている。
その司教がこの庭に居ると言う事が、彼もまた特別な存在である証明だった。
彼の吹く横笛の、その不協和音こそ、彼の存在に最も近い音色。