41:ユリシス、蜜の香りに戸惑う。
2000年前、精霊とは自然界の尊ぶべき存在であり、おいそれと人間が触れられるものではありませんでした。
人々は精霊を信仰し、その恵に感謝し、天災があれば怒りを鎮めんと祈りを捧げたのです。
精霊は十の姿を持っています。
それを“精霊の十戒”と言いました。
「……なんてね。ここで十戒目の精霊の力を使ったら、それこそ王宮が崩壊してしまうよ」
僕は振り下ろした手をもう片方の手の平で止め、命令を直前でやめました。
「う、うわああああああああ」
案の定トンマーゾは、恐れおののいた表情で、足をガクガクさせながらどうにかこの場から逃げようとします。
僕は彼を放っておきました。
「……ファン、もう良いよ」
そう言うと、黒く禍々しい光を纏ったファンは、ポンと音を立ていつもの可愛いフクロウの姿に戻ったのです。
「ほうほう、久しぶりのかっこいい私でした。……あ、良いのですかなユリシス殿。あの魔術師、言いふらすかもしれませんぞ」
「いいさ。どうせ誰も信じやしない。歴代で一人しか十戒目に到達しなかったって言うのなら、誰にもそれを理解する事は出来ないんだから」
「ほう、そんなもんですかねえ」
「た、たぶん……」
頭を抑え、僕は大きく息を吐きます。
この僕ですら、十戒目の召喚は少々負担となるのです。魔法陣を10個一気に消費することは、一戒目の召喚の100倍の魔力と体力を奪われますから。
「相変わらず、怒ったら怖いな。……白賢者」
ああ。
嫌な声がする。
どこから見ていたのか、いつからいたのか分かりませんが、背後に立っていたのは僕が最も苦手とする憎らしい人物。
しかし今の僕は、先ほど久々に第十戒目の召喚をしたせいもあり、少々気が高ぶっています。
ゆらりと振り返りました。
「よくも僕の前に面を出せたものだね、勇者。今の僕は正直、容赦出来ないよ」
「……」
軍帽をかぶった軍人姿の彼は、よく見るとやはり今までの勇者の面影がある、金髪碧眼の青年です。
「おい、そこまでだ。お互い頭を冷やせ」
パシッ。と言う軽快な音と共に、僕と勇者の間にあったピリピリした空気が一気に解かれます。
いい匂いが漂ってる。これは………蜜の様な………
「全く、こんな所でお前たちが戦ってみろ。王宮どころかこの王都が無くなるぞ。いくら前世の因縁とは言え、場をわきまえねばただの戦闘狂、ただの破壊者だ」
ふわりと柔らかそうな髪を揺らし、現れたのはフレジールの王女シャトマ。
彼女は扇を手に打ち付けながら、二人の間に割って入ります。
そしてその扇を開いて口元に添え、ちらりと僕の方に視線を流しました。
と言うより、あれ。
さっき彼女、“前世”って………
「どういう事ですか、シャトマ王女。なぜ、“前世”の事を………」
「ふふ、妾は全て知っておる。そなたが元“東の白賢者”であった事も、このカノン将軍めが“伝説の勇者”であった事も」
「そいつから………聞いたのですか?」
「まあ、それもあるが、そうでなくとも妾にはきっと分かったであろう」
彼女の琥珀色の瞳は、どこか不思議な光を帯びています。
どこまでも見透かされそうな、その瞳。この光には思う所があります。
「……あなたは、名前魔女なのですか?」
「ふふ、魔女と言う名は好きではない。妾はやはり今も昔も、“姫”でありたいからな」
「……?」
彼女は口元で開いていた扇を、ぴしゃりと閉じました。
その時強く香った、甘い蜜の匂い。
「妾はお前たちと同じだ。1000年前の“藤姫”と言えば、少しは興味を持ってくれるかな?」
藤姫の物語は、東の国に伝わる歴史上有名な物語。
今から約1000年前、東の国同士の戦争が激しかった時代に小国の姫として生まれた藤姫が、西からの移民と東の民との架け橋になって国を治めたという。戦う聖なる姫君と名高く、人間離れした力を持っていたと言われています。
「どうした、我がフレジールの伝統的な蜜茶だ。毒なんか入っていない。ま、毒が入っていた所で、賢者様には効かないだろうがな」
「……」
さて、僕はいったい何をしているのだろう。
シャトマ姫の為に用意された王宮の一室とは言え、どこか異国情緒溢れる部屋に、僕は招かれました。
ガラス細工の小さな椀に注がれた蜜茶は、飴色の美しい水面に藤の花びらを乗せ、趣があります。
本当はゆっくり味わいたいけれど、今は優雅なお茶会をする前に確かめなければならない事があります。
この部屋にはシャトマ姫と僕だけ、二人だけです。カノン将軍は彼女によって外に追い出されています。
何だか変な感じだ。
「いったいどういう事です。藤姫ですって? あなたも転生したと言うのですか?」
「……まあそう言う事だ。何か可笑しい事があるか? そなたこそ転生している身でありながら、記憶を持っていると言うのに」
「い、いえ……そうですね」
正直言って、僕はこの状況を理解するのに時間がかかりそうです。
先ほどまで勇者の事で頭の中がいっぱいであったというのに、今ではその事以上の事実が目の前にある訳ですから。
確か、1000年前の藤姫も、三大魔王同様強い魔力を持っていたと言われています。
この世界のジャンヌダルク、と言ったら、分かりやすいかもしれません。
藤姫は、最終的に処刑されたと言われていますから。
「それにしても、白賢者様にお目にかかれる日が来るとは本当に光栄な事だ。かつての妾はそなたに憧れ、精霊と契約し白魔術を極めていったのだからな」
「……え」
目の前の少女は、食事会の時よりいっそう活き活きキラキラした表情で、ニコリと笑い首を傾けました。
やはりこうやってみると、とても少女らしい可愛らしい人だと思います。
「最も、妾には十戒目に到達出来るほどの力は無く、九戒目をとことん追究するしか無かった。もう少し長生き出来れば、妾も十戒目に到達する事が出来たかもしれないがな。残念だったよ」
「……」
いや、それでも驚くべき事です。
僕は自分以外で九戒目に到達した人物を見た事が無いのだから、この事実には目を見開くばかり。
「それにしても、この部屋はやけに甘い香りがしますね。何かのお香ですか? このお茶の匂いかな……」
「ああ、それは多分、妾自身の香りだ」
「へ?」
彼女は軍服の袖をまくって、こちらに手を差し出しました。
そして、にっこりと笑って言うのです。
「嗅いでみよ」
「ええっ!!」
「いいから嗅いでみよ。妾の肌は蜜の香りがするのだ。生まれつきな」
「……」
僕は少々躊躇った後、不信に思いつつも「では」と彼女の手を取り、スッと嗅いでみました。
そうすると、本当に不思議な事なのですが、彼女の肌からはとても甘い蜜の香りがしたのです。
「……これは、香水なんかではなく、自分自身から香ってくるのですか? いったいなぜでしょう」
「分からん。1000年前もそうだった。まあ、これが原因で忌み嫌われる事もあったが、妾は気に入っている。なぜなら、寄ってくるからだ」
「何がです?」
「……虫が」
シャトマ姫がそう口にすると、今まで以上にふわりと蜜の匂いが舞って、それが気配へと変わっていきます。
ジワジワ、ザワザワ、彼女の周囲で形を成していく複数の精霊たち。
その精霊たちは、勿論僕の知っている百精霊たちでしたが、全てが虫の姿を持った精霊でした。
目の前を黒い蝶がかすめていきます。
「……これは驚いた」
「ふふ、懐かしいであろう、賢者様。今では妾の精霊だがな」
複数の虫の精霊たちは口々に「賢者様ー賢者様ー」と僕に擦り寄って、懐かしさに泣いているものも居ます。
虫の精霊は基本的に素直で感情的で、可愛らしいのです。
「ま、だからといって、そなたに返すつもりは無いがな」
「それは当然です……今の契約はあなた自身のものだ。精霊と人との平等の関係、その決まりを示したのが僕なのだから。僕が破る訳にはいかない」
「……」
シャトマ姫はフッと息を吹いて、机の上の小さなてんとう虫の精霊を転がしました。
てんとう虫は「姫様ってば」と金切り声を上げ、何やら楽し気です。
「姫……一つよろしいでしょうか」
「なんだ」
「あの男……カノン将軍とは、いったいどこで出会ったのです。あいつが伝説の勇者である事を知っているのでしょう?」
「ああ……まあ、初めて出会ったのは、1000年前だがな」
「何ですって?」
僕は思わず聞き返してしまいました。
虫を弄ぶ姫の笑みは変わりません。
「だから、そなたたちと同じだと言ったであろう。1000年前の藤姫を処刑にまで追い込んだのは、紛れも無くあの男だよ」
「……」
僕の中には、とりとめも無いいくつかの疑問がありました。
なぜ勇者は藤姫を死に追いやる必要があったのか。
そもそもなぜ勇者は1000年前にも存在していたのか。
ならばなぜ、シャトマ姫はあの男と共に居るのか。
しかしそれらを理解するには、僕はあまりに沢山の事を知らずにいたのです。