33:トール、ザリガニを仕掛けられる。
(◯月15日:マキア)
ほら、もういいだろ?
いいかげん帰ってきなさい。怒ってないから。
俺はトール。
マキアが急に態度を変えたものだから、そろそろ寂しくなったのかなと思っていたら何てこった。
俺の荷物にザリガニの死骸が入っていた。
「…………うわあ………」
嫌がらせですか?
嫌がらせですね。
ここまで来るとちっとも可愛くないと言うか、むしろここ最近の様々なストレスから殺意すら湧いてくる。
「あんにゃろう……」
いったいどこで見つけたのか、ザリガニの死骸の可哀想な事。
いくらマキアが非道な魔女だったとは言え、ザリガニを生きたままカバンに入れた訳ではないだろうが……
「トールせんせー。今日は何するのー」
「………えーと………えーと………」
命の大切さを学びましょう。
みんなでザリガニさんを教会の隣の空き地に埋めてあげましょうね。
(◯月16日:トール)
おい、俺の荷物にザリガニの死骸を入れたのはお前か?
恐ろしい女だなおい。
(◯月17日:マキア)
はい?
知らないけど。
(◯月18日:トール)
ん?
さて、完全にマキアが仕込んだと思い込んでいたが、どうにも反応に違和感を感じる。
あれ? 何か違うっぽい?
(◯月19日:マキア)
事件ですか? イジメですか?
流石カルテッドは治安が悪いですね。
何か憎まれる事をしたんじゃないの?
あんた愛想が無いから。
おっと、完全に別っぽい。
でもこの反応はきっと、本当に知らないのだろう。
ごめんマキア、普通にお前の仕業だと思っていたよ。
じゃあいったいなぜザリガニの死骸が入っていたんだろう。
「トール先生ー。今日ブルーノが来てないよー」
「あれ……あいついつもかなり早く来るのにな。仕事でもあるのかな」
「私知ってるよ。ブルーノ君の所のお父さんが、風邪をこじらせたんだって」
「……」
子供たちは口々に噂をしている。
ブルーノと言えば、ガキ大将アントニオにいつもくっついているお調子者だ。
時たま授業妨害をしようとするくせに、毎朝欠かさずここにやってくる、良く分からない少年。
確か母親が居なくて、父親と二人暮らし。
華やかな商店街を抜けた、少し寂れた通りにある靴屋の息子だ。
まあザリガニの事も気になるが、手のかかる生徒である分ブルーノの事も気がかりだ。
その日は少し早めに授業を切り上げ、ブルーノの家を尋ねる事にした。
「すみませーん。ブルーノ、居るかー」
以前学校への勧誘で、一度ブルーノの家にやって来た事があるが、まあ何と言うか小さくて味気ない店前だ。
靴屋とは言え、品物はほとんど無く、並べられてあるものは埃被っている。
「……」
父親が風邪をこじらせたと言っていた。
ブルーノにとって唯一の家族と言っても良い。心配だろう。
「……トール先生」
「おお、ブルーノ。……大丈夫か? 親父さんが病気なんだって?」
店の奥の部屋から静かに現れたブルーノは、どこか元気が無い。
そしてどこかよそよそしい。
突然、ブルーノは泣き出した。
「先生……先生………」
「ど、どうした。もしかして……」
もしかして親父さんの病状が、とてつもなく悪いのか!?
俺は勢い余って、店の奥の部屋に入ってしまった。もしかなりまずい危篤状態なら、俺が魔法で………
しかしそこで見たものは、予想を遥かに上回る光景であったのだが。
「………うおっ、誰だあんた」
「……ちょっと、何なの!?」
ボトルのウイスキーが散乱する嫌な匂いの籠った部屋。
埋もれるようにあるベットで、裸のまま横たわる大の男と、ケバい女。
俺がいきなり入って来た事でかなり動揺している。
一瞬の思考回路停止の後、「あーね」と。
「し、失礼しました〜」
俺は何事も無かったかのように扉を閉める。
「……」
いや、別に何とも思わないよ。
だって俺は昔、ハーレム大魔王だったんだぞ。
このくらいで別に、照れたりとか過剰反応とかしないよ。中学生男子じゃあるまいし。
「先生、大丈夫? 顔赤いよ?」
「いやいやいやいや、大丈夫だから。別に何とも思わないからあのくらい!!」
俺はとにかく、鼻に残るツンとしたウイスキーの匂いが嫌で、店先に出て行った。
そして、少し冷静になって考える。
ん? ブルーノの親父さんはあれじゃないのか?
風邪をこじらせたんじゃないのか?
「おいブルーノ。俺、親父さんが風邪をこじらせたって聞いたんだけど」
「こじらせたよ。でもすぐに酒場に行って、あの女の人連れて来ちゃった」
「……」
俺は何とも言えない脱力感に襲われ、店先の薄汚れた窓に手をあて項垂れる。
えーと、俺はいったい何を心配してここへ来たんだっけ?
そんな風に一人自問していたら、ブルーノは再び涙をにじませ泣き出した。
ああ、そうだ。そう言えばさっきこいつ、泣いたんだっけ。
まあ、親父さんがあんなだと泣きたくもなるか。
流石にこの状況で、彼に何と声をかけていいのか全く分からない、俺。
「先生、ごめん。先生のカバンにザリガニ入ってたの、俺のせいなんだ」
「……は?」
ひっくひっくと泣くブルーノの言葉は、かなり予想外なものだった。
ザリガニの事は気になっていたが、あの生々しい現場を見てしまった事で、今やすっかり忘れてしまっていたのに。
「俺、俺、あの日、市場で食用のザリガニ、盗んじゃったんだ……。と、父ちゃんが風邪ひいて、苦しそうだったから。父ちゃんザリガニ好きだから……」
「……お前」
いきなりの暴露話に、俺は少々慌てる。
い、いったい何を言い出すんだこの子は。
え? 盗んだの?
ていうかあのザリガニ、食用だったの??
「本当は怖くなって、市場に返しに行こうと思ったんだ。でも、途中でアントニオに会って。あいつ、俺のザリガニ見て、「トール先生を驚かそうぜ。いじめようぜ」とか言い出して……。俺、アントニオには逆らえないし。トール先生、あの日の朝、広場に荷物置いて教会に入った時があったでしょう? あの瞬間にアントニオが先生のカバンに入れたんだ」
「……」
色々と言いたい事があるが、まず一つ。
確かにあの日の朝、俺は生徒たちが来る前に、司教に本を借りようと思って教会に入った。
しかし、カバンを置いたまま行ったのは、広場にヨーデルがいたからだ。だからあの瞬間に隙があったと思わなかったし、生徒を犯人だと考えなかった。
くそう!! あいつうたた寝でもしてやがったな!!
まるでザルじゃないか!!
そして二つ目。
アントニオ君、なんて事無さそうな顔して、一緒にザリガニ埋めてましたが。
アントニオ……恐ろしい子!!
「俺……盗んだ事がバレたらどうしようって思って、なかなか言い出せずにいたんだ。先生も、特に調べようとしなかったし……ごめん先生」
「……」
確かに、あの日俺が生徒たちに「誰が仕込みやがった」と苦笑いで聞いていれば、すぐに犯人が分かったかもしれない。
でも、あの時の俺は、犯人は完全にマキアだと思い込んでいたから。
生徒の可愛い悪戯だと思うに至らなかった。
きっとアントニオもつまらなかっただろうな。俺の反応が淡白で。
「……食用のザリガニかあ。意外と美味いもんな、あれ」
なるほどね。
やけに綺麗な死骸だと思ったんだ。
いやいや、一応かなり驚いたんですけどね。
「しかしまあ、やっちまった事は仕方ない。親父さんはもうすっかり元気そうだし。色々な意味で? いや、まあ何だ……じゃあ一緒に市場へ行って、謝りに行こう。それで全部終わりだ」
既に夕方は過ぎ去り、紫色の空から星がいくつか見える。
夜の市場は朝や昼間ほどの活気はないが、店は総菜を売る屋台に姿を変え、今でも客が絶えない。
カルテッドの人間は基本的に総菜を買って食卓に並べる。
そのため、八百屋なら炒め物やサラダを。肉屋なら串焼きを。魚屋なら焼き魚や焼き貝を売ったりしているのだ。
その賑やかな通りの一角にある、海鮮を取り揃えた魚屋。
知っている、ここの店長は図体のでかい元漁師だ。はげ頭に大きな傷があるが、あれはサメと戦った証だとか奥さんを怒らせた結果だとか。まあ色々な説がある。
俺とブルーノは素直に謝って、魚屋にザリガニ一匹分のお金を払った。
まあ払ったのは俺だが。
そしたら意外とあっさり許してくれた。
大きな体は大きな懐を示す所らしい。
「……先生、ごめん。お金まで払わせちゃって」
「ばーか、貸しだよ。お前がいつか大人になって、立派なカルテッドの商人になったら返しにこい」
「うん」
ブルーノはまた泣いてしまった。
きっとずっと心の奥に、どうしようもない罪悪感があったのだろう。
何となく、この子供が心の奥に秘めていた感情を考えてみる。
だらしのない父親でも、彼にとっては唯一の父だ。
そんな父が風邪をこじらせた時、思わず彼は父を元気づけたいと考えザリガニを盗んでしまったのだろう。
しかし、当の本人は風邪をひいても酒にひたり、女を連れ込み、ブルーノの気持ちには全く気がつかない。
ブルーノだけが、ザリガニを盗んでしまった、俺のカバンに仕込んでしまった、言い出せない、という罪悪感を残してしまった。
可哀想に。彼の優しさは、どこにも行き場が無かった。
「……ブルーノ。もう全部終わった事だ。二度としないと誓って、パッと忘れようぜ」
俺は沢山の灯を並べる、いい匂いのする屋台をいくつか回って、焼き魚と貝のつぼ焼き、串焼きの肉、野菜の肉巻きや、チーズやパン、炒った木の実やレモンの炭酸水を買って、海辺通りに並べられた買い食い用のテーブルに持ちこんだ。
「さあ、食おうぜ。腹が減って仕方ねえよ」
「で、でも先生」
「いいから食えって。お前ここ数日で随分やつれてるじゃねえか。先生ってのは、生徒の健康を管理するのも仕事のうちなんだよ」
多分。
でも、他の生徒には内緒だぞ。俺だってただの雇われだからな。
まだ熱い肉の串焼きが、ブルーノは気になるそうだ。
さりげなくそれを彼の前に差し出し、俺自身は貝のつぼ焼きをつまむ。
賑やかな音楽がどこか遠くから聞こえる。本当に朝も夜も騒がしい町だ、ここは。
「俺もな、お前くらいの頃この町で煙突掃除夫してたんだ。まあ知ってると思うけど。金はないし、母親は病気で……賑やかな屋台の食べ物は匂いだけしかおかずにできなくてさ。陽気な音楽が、なんだか憎らしかったよ」
「……」
ブルーノは一生懸命串焼きを頬張りながら、どうでもいいような俺の話を聞いている。
「今は憎らしくないの?」
「まあ……こっちの世界に入ってしまえば、それは自分の聴いて良い音楽なんだって分かったからさ。俺は運が良かった」
「……」
「お前も運をつかみ取って、この音楽を心地よいと思えよ。カルテッドは実力主義だ。したたかに、上手く生き残れ」
「うん」
ブルーノはレモンの炭酸水を飲みながら頷き、焼き魚に手を伸ばす。
流石カルテッドのたくましい子供だ。すでに遠慮は無い。
「先生、俺勉強楽しかったよ。カルテッドの新しい学校、行きたいと思ってるんだ。……そしてきっと、立派な商人になって、父ちゃんの店を繁盛させる。トール先生は、カルテッドの学校の先生になるの?」
「い、いや、俺に先生は向いてないよ」
「そうなの? 楽しかったよ、先生が先生で」
「……」
調子の良い奴。さっきまで青ざめてたくせにさ。
そう言って、俺を持ち上げながら、美味い飯をねだるんだろ。
まあいいよ。
商人になるなら、必要なスキルさ。
この華やかな町の音楽を、いつか気負わず聞けるようになれ、少年。