32:トール、海とドングリと黄昏と。
夕焼けのオレンジ色が海の波を彩った。
そんな少し寂しい時間帯に、海鳥の鳴き声を聞きながら、俺はただ一人ボロ雑巾みたいになって黄昏れている。
「…………」
堤防に腰掛け、砂浜に降りる事も無く、遠くの波間を見ているような、見ていないような。
一日の終わりにホッとした後、ドッと疲労感に見舞われる。
ああ、疲れた。
眠い。
疲れた。
俺が子供たちに授業をしようと思ったのは、子供たち自身に学ぶ意欲を持ってもらいたいと思っていたからだ。
結局俺が大人相手にあれこれ言った所で、本人に“学校へ行きたい”と言う意志がなければ話にならない。
そう思ってお菓子を餌に子供たちを集め、教会の司教様に色々と援助いただき、隣の空き地でこの国の歴史や神話、簡単な文字の読み書き、計算などお試し程度に教えた。
歴史や神話は、どこぞの物語風に聞かせてやれば、皆おもしろがって聞いてくれる。
何だってよかった。彼らが知りたいと思える事を見つけて欲しかった。
丁度教会にメイデーア神話のステンドグラスがあったから、ある日はそれを見せながら話をした。
すると子供のうちの一人が素直な疑問を聞いてきたのだ。
「ねえ、9人の神様がこのメイデーアを創ったのは分かったけれど、なんで9人目の神様は前を向いているの? ていうか、何で他の神様はみんな横を向いているの?」
「それは……」
俺は少し困ってしまった。
このステンドグラスの絵は、聖地ヴァビロフォスに古くからある壁画をモチーフにしたもので、タイトルを“神々の帰還”と言う。
そう言った常識的な知識はあるのだが、歴史研究家では無いので、絵画の細かい意味までは知らない。
俺がここで子供たちの質問に答えられなければ、さぞかしがっかりさせる事だろう。
そう思って半分青ざめていると、司教様が笑いながら、代わりに答えて下さった。
「少し難しい話になるけれどね。この“神々の帰還”が描かれたずっと昔の時代は、人や神を横向きに描くのが主流だったんだ。同じ時代の壁画なんかを見ても、皆横向きに描かれているからね」
確かに。
思い出される壁画なんかの人々は、みな横向きだった気がする。
「じゃあなんで9人目の神様は真正面なのか………それはね、正面は“死”を暗示するアトリビュートだからだよ。えーと、死を意味する記号ってことかな。んー……簡単に言えば、この神様は“死の司”の神様。パラ・ハデフィスという神様だ」
「ふうーん」
子供たちと一緒になって大きく反応する俺。
これは少し勉強になった。当の子供たちはあまり理解していない様だが、興味はある様だ。
なるほど、神々にはそれぞれ戦いの神であったり、豊穣の神であったり、司る何かがある訳であるが、9人目の神はただ正面を向いているだけで“死の司”である事を示しているんだ。
さて、子供たちといえば、最初は楽しそうに勉強しているのだが、仕事で抜けて行ったり、飽きて放棄し始めたりと、なかなか落ち着きが無い。
勉強に一生懸命な子供もいるが、やはりお調子者でジャイアニズムを発揮する子供もいる。アントニオなんかがそうだ。
そういった子供が“鬼ごっこする”と言えば、勉強はたちまち打ち切られ、子供たちは皆、町に飛び出してしまう。
鬼と言うのは俺の事だ。
子供たちは俺に追いかけられるのが楽しいのか、ただ単に俺をからかっているのか、勉強が嫌なのか。
確かに勉強を強要しては、肝心の“学校に通う事”を嫌がられてしまうかもしれないと思い、仕方なくこの遊びに付き合う。これがどうにも大変疲れる。
しかし俺だって、この町で伝説の煙突掃除夫と言われた男だ。
子供たちが隠れそうな場所も知っているし、逃げ道も覚えている。
確実に全員を捕まえにかかるのだ。
そうやってまた広場に集め、お菓子をあげ一休みするのがここ最近の日課。
多分子供達にとって、このお菓子タイムが一番の目玉なんだろう。ヨーデルなんて、お菓子のお兄さんと呼ばれている。
しばらくまた勉強するが、再び鬼ごっこは始まる。
一日に二回ほど、鬼ごっこは授業の合間に挟まれる。すでに決まった時間割の一つの様に。
「……子供って元気だよな、本当」
俺は海辺にて、側にあった石ころを拾って遠くの波の方へ投げた。
そして一つ、大きくため息をつく。
本当呆れるくらい子供たちは元気元気。
無邪気で悪びれも無く、俺を振り回してくれる。
剣の稽古だってこんなに疲れる事は無い。
屋敷に帰れば、次の日の授業で何を取り上げようか考え、用意する日々。
授業を開けば、全力全開の鬼ごっこを二回ほどする日々。
マキアは相変わらず俺の前に姿を見せようとしない。
彼女に会えない日々。
「…………」
ザアアアアーーー………
波の音が心地よい。
海風が気持ちよい。
どんどん気が遠のいていく。
コツン
何かが一つ、頭にぶつかった。
それに驚いて、眠ってしまいそうにコクコクしていた顔を持ち上げる。
「……?」
ころんと膝を転がっていったのは、大粒のドングリだった。
これが頭にぶつかったのだろうか。
海とドングリとは、なんとも不釣り合いだ。いったいどこから飛んで来たのだろう。
どこからとも無く、懐かしい甘い匂いがする。そんな気がした。
「……マキア?」
俺はただその匂いの方を直感的に振り返ったものだが、当然誰もいない。
そこはいつものカルテッドの海沿い通り。
こんな所にマキアが居るはずも無い。
たとえマキアが居ても、俺に、ただのドングリを投げるはずが無い。
俺がうたた寝している隙を見つけたなら、ドングリ爆弾をお見舞いするはずだ。
「……」
変だな。
こんな場所で、お前の気配を感じたよ。
俺も相当疲れてるんだな。