17:レナ、黄金のロバは世界を愛する。
5話連続で更新しております。ご注意ください。(5話目)
最新話は「13:神話大系16〜暗黒の天啓〜《sideクロンドール》」からになります。
『できたよ。ごらん、これが君の体だ……へレネイア』
『……』
『口を動かしてごらん。喋る事が出来るはずだから』
初めて、自分が自分の体を手に入れた時の事を、私はちゃんと思い出していた。
目の前で、私の手を優しく取る、アクロメイアと言う名の、男の神の事も。
『君は僕が生み出した。ずっと、僕の側で、僕の庇護のもと暮らすのが良い』
『……』
『それが一番安全で、安心だよ。もう、あんな暗い場所に居なくていい……寂しく無いよ』
その人は私を愛し、慈しみ、欲しいものは全部くれた。
私は人間のように振る舞う為、アクロメイアに沢山の事を教えられた。
沢山の場所に連れて行ってもらい、沢山の美味しいものを食べさせてもらい、沢山の娯楽を与えられた。
最初のうちは、いつもアクロメイアの言う事を聞いていた気がする。
だけど私は、そのうちに物足りないと思い始めた。
アクロメイアを、まるで父のように愛していた事もあるし、彼もまた、私を娘のように思っていたのだろうけれど、それだけでは足りない。
私は満足できていなかった。
徐々にその不満は、彼の元から去りたいという欲求に変わる。
宴で出会った、素敵な神に恋慕の情を抱き、その人の元へ行きたいと思い始めたのだった。
自分が元始神であることなど、すっかり忘れ、ただの一人の若い娘であるかのように……
だけど、恋をしたその神は、私をアクロメイアから引き離してくれたのに、決して私を見ようとはしてくれなかった。
むしろ、私を恐れ、私を警戒していた。
日に日に醜くなる私を。
どうして、私の体は腐っていくのだろう。
その疑問を持った時、私はやっと、普通の人間ではないのだと言う事を思い出した。
私はお父様であるアクロメイアに、作られた存在だった。
奈落の底から、連れていかれて。
私という存在に人としての器は、釣り合わないのだ。
入りきれないのだ。愛と言う概念が、器を破って、今にも溢れてしまいそう。
たった一人、誰も自分を見れくれない、暗い部屋の中。
鏡の前で、ドレスから覗く干涸びた手足を見て、腐り肉の落ちた頬に触れた。
その頃、もう、体のほとんどは死んでいた。
私はなんて勝手なのかしら。
わがままのせいで奈落から飛び出して、地上の神々の関係をこじらせて、戦争を引き起こして……
ぼんやりとそんな事を考えていた。
最初は感情の無かった私にも、体が腐る一方で、一つの人格が目覚めていたから。
「助けて…………お父様」
戦争が終わる日。
最後の最後に、縋ったのは、自分を生み出した人。
無償で自分を愛してくれる人は、その人だけだったから。
***
「ヘレネイア。……レナ……っ、レナ!!」
ああ、そうだ。私の名前は、レナだ。
だけど、私、剣で貫かれて、それで、死にそうになっている。
私がここへ来たのは、当然、イスタルテに会う為だった。
キルトレーデンの王宮で、レピスさんとガドさんに助けてもらった後、すぐに混乱の中を逃れた。
イスタルテの元へ行きたいと言うと、ガドさんが、彼女の行く場所を教えてくれた。イスタルテが使った、トワイライトが発明した転移装置は、まだこの島への転移を展開していた。
私たちはそれを使って、ここへやってきたのだった。
「レナ、ダメだ。死んじゃダメだ。なんで僕なんか、追ってきたんだよ……っ」
イスタルテが、私の名を呼んでいる。
ちゃんとレナと呼んでくれている。
意識がどこかへ行ってしまいそう。
だけどそれをつなぎ止めてくれるのは、やっぱり名前なんだ……
私の手を取るイスタルテの手は、小さく、震えている。
この人が、こんなに怖がる事があるなんて、何だかおかしい。
いや、違う。
この人は、この子は、ずっと怖がっていた。
この世界に使い捨てられる日を。
「レナ、ダメだ。死んじゃダメだ! そうだ、僕の腕をあげよう。僕の腕で、君の体の損傷を……っ」
イスタルテは自らの右腕をもぎ取った。いとも簡単に、自分で自分の体を傷つけた。
まるで、それはすぐに再生できる消耗品であるとでも、言うように。
痛く無いはずは無いのに、この人はもう、感覚がおかしくなっているのだ。
たった一つしか無いはずの肉体への扱いが、分からない。
仕方が無い。そうやって、世界を作ってきた神様なんだから。
「ダメよ……イスタルテ……」
朦朧とする中、私はなんとか彼女に手を伸ばした。
どくどくと血が溢れ出る腹部。その痛みは、既にない。
「何がダメなんだよ、君が死んでしまったら、僕はどうしたらいい」
「……」
「君だけなんだよ。僕には、レナだけが希望なのに……っ」
「……イスタルテ」
「生きて、異世界へ戻ってくれよ。君がどこかで生きていれば、僕はそれで良いんだ。ここで死んで欲しいなんて、思っていない。君に不幸になって欲しいなんて思ってない!」
「……」
「もう一度会いたかった。ただ、それだけなんだ。だけど、もういいよ。もう……逃げてくれ、このメイデーアから」
イスタルテの切羽詰まった言葉に、嘘は無いと思った。
嘘なんてつけない。この人もまた、酷く純粋で、強くあろうとし過ぎただけの人だ。
メイデーアと言う世界を、子供ながらに任され、嫌われる事も、必要な悪事も、担ってきた。
世界とは決して美しいものだけで成り立つ訳じゃないと、知っていたから。
だけどやっぱり、それだけでは辛すぎる。嫌われ者は辛すぎる。
一人では辛すぎる。
死が終わりではない、永遠は辛すぎる。
一番逃げたかったのは、あなただったはず。
私もそうだった。
現実の世界から、母の束縛から、自信の無い自分から逃げたかった。
毎日が億劫で、このメイデーアに導かれるようにやってきた。
だけど、ダメね。
本当に、何の濁りも迷いも無く、自分を愛してくれる人は、確かにすぐ側に居たはずなのに、それに気がつくのは、その人から離れてからなんだもの。
私もやっと分かった。
なぜイスタルテが、気になって仕方が無かったのか。
私もまた、ずっとイスタルテに会いたかったからなんだわ。
神話の時代、自分の意志でこの人から逃れた。抱いてしまった理想と憧れを胸に。
だけど、やっぱり、最後の最後に求めてしまったのはこの人だった。
この人は家族だったから。
ずっと、言いたかった。
辛い事も、報われない事も沢山あったし、情けない思いもした。
人を羨んだり、この体を憎んだり疎んだりもしたけれど、それでもやっぱり、私は私以外の何者にもなれない。
私は私でしかない。
たいした事の無い自分かもしれないけれど、それでも自分を誇りに思える日は、いつかやってくると信じている。
だから、私を作ってくれて、ありがとう。
「……イスタルテ…………一緒に、行きましょう」
ただ一つの感謝と、願いだけを込めて、私はイスタルテの肩の傷を抱き込むように、彼女を抱きしめ、囁いた。
イスタルテは、身を一度震わせ、目を見開いて、溜めていた涙を零す。
アクロメイアを、イスタルテを、たった一人でこの世界に置いていったりしない。
長く苦しんできたこの人は、もうメイデーアに居てはいけない。
だから私が連れて行く。
私がここから連れて行く。
「……エラス・アプレイ・プシューク」
無意識に、その呪文を唱えていた。
大いなる存在が、額に口づけ、この呪文を唱えると良いよと、囁いてくれた気がするから。
それはもう一人の私だったのかもしれない。私の願いを聞き届け、力を貸してくれたのかもしれない。
直後、複数の色が混ざったような、プリズムの光が十時を切って走る。
暗黒の世界は、一気に塗り替えられた。
どこまでも続く水平線に青い空が映り込む、世界と世界を繋ぐ場所。
そこは世界の境界線だった。
「……レナ?」
少し遠くからトールさんが、瞬きも出来ずに驚いた様子で、私たちを見つめていた。
私は体を起こす。傷はすっかり治っていた。
「私、おかしいですね。ただ祈っただけなのに……」
「……これは多分、0を1にする魔法だ。……偉大な、究極の魔法だ」
「あはは。私、魔法はてんでダメだったんだけどな……」
くすくす笑って、私もまた、トールさんを見つめた。
不思議と、どこまでも澄んだ、落ち着いた心で。
「トールさん、お世話になりました」
「行ってしまうのか?」
「はい。イスタルテは、私が連れて行きます。彼女には、メイデーアは生きづらいから」
側で眠るイスタルテ。
私は彼女を抱き起こし、背負った。彼女は小柄で、細くて軽い。
話していると大人の男の人のようなのに、寝顔はあどけなく、やっぱり小さな女の子だなと思ってしまう。
「ごめんなさい。色々な事を、トールさんたちに押し付けたまま、行ってしまって」
「良い。行くと良い。俺たちの事は、何も気にするな…………地球は、良い場所だよ」
トールさんは、力強く断言してくれた。そして、少しだけ寂しそうに笑った。
寂しいと思ってくれるんだろうか。
「……トールさん、どうか、マキアと幸せになってください」
「……」
「私、ずっとずっと、あなたたちの幸せを願っています。許されるのであれば、ずっと。死ぬまでずっと」
マキアにも、そう伝えたかった。
だけど、もう時間は無い。
「レナ……そいつを、よろしく。俺は、アクロメイアを否定し、殺そうとすることしか出来なかった。辛く、寂しかったと思う。……レナと一緒に居られる世界なら、そいつも救われる。どうか……幸せに」
「……」
私はトールさんのはなむけの言葉に頷いて、そのまま、前を見据えた。
名残惜しいけれど、決して、振り向いたりしない。
重いものを背負ってでも、前へ進む。
未来を見ている。
私は今、自分の為に、自分の大事なものの為に、歩いている。
水の張った地面を、一歩一歩進みながら、やがて届く懐かしい世界の匂いに、涙を零しながら。
だけど、ぼろぼろと溢れる涙を、拭う手は無い。
強烈な悲痛と郷愁に襲われ、淡い光の中、私は今、メイデーアから切り離された実感があった。
戻ってはいけない。
メイデーアは私たちの世界じゃない。
だけど、そこで出会った人たちを、決して忘れたりしない。
「……」
さようなら。