89:『 1 』マキア、流転のオリジナル。
ぐにゃぐにゃと気持ちの悪い色合いの視界が開けた。
だけど、気持ちの悪い色合いの空はそのままだ。
理解できたのは、そこが果てしのない荒野であり、どこまでもどこまでも、乾いた枯れ木のような匂いと、何も無い風景が広がっているだけだと言う事だけ。
なんだろう。
この、絶望にも似た感覚。
この景色をどこかで見た事がある気がするし、この絶望も、どこかで覚えている。
懐かしくて、とても寂しいのに、開放感もある。
なぜだろう。ここは、どこなんだろう。
「懐かしいかい、マギリーヴァ」
向かい側に、イスタルテがぽつんと立っていた。
イスタルテの左腕には、銀色の小さな盾がくっついていた。
イスタルテの他に、ナタンはいない。私の側にいたはずのレナもいない。
イスタルテは物悲しそうに空を仰ぐ。
「この空間はね、最初の最初、本当に、何も無かったメイデーアを反映して作った空間なんだ」
「何も無かったメイデーア?」
「そう。あったのは、天と、地と、混沌と……愛だけ。それらを全て繋いでいたのが、メイデーアを象徴する大樹だ」
イスタルテはすっと、その手を遥か遠くへと向けた。
遥か遠くには、ぼんやりと、大樹らしきものが浮かんでいる。ただ、蜃気楼のように不確定だ。
「この空間はナタンが作ったの? 銀の王、あなた、いったい何の為にこんな空間を作らせたというの?」
「ははっ。何の為だって? そんな事は決まっている。忘れられないからさ」
「……」
イスタルテは黒いブーツを音鳴らし、大地を踏み、小石を蹴った。
コロコロと小石が転がって、やがて静止した。
「お前たちが簡単に忘れてしまった、大事な事を、僕は覚えている」
「覚えていない事は罪だとでも言いたげね。まあ……そう言う事は、以前もどこかの誰かさんに言われた事があるけれど」
「……回収者かい? まあ、あいつは僕なんかよりもっと膨大な記憶を保管しているのだろう。だからこそ、厄介だ。あいつに特別な魔法は無いが、記憶が何よりも強力な魔法となっている」
「……」
「歴史の流れを読まれる。先回りされる。過去の記憶こそが、予言の力となっているのだ」
銀の王イスタルテは、淡々と語った。
案外冷静に思考し、語る彼女を、私は初めて知った気がした。
「でもそれももう関係のない話。圧倒的な力は、そんな小細工すら踏みにじる。あいつの計画には、マギリーヴァ、お前の力が不可欠だった。だが、お前はここでもう一度死ぬ。今度は僕が殺してやる」
「……あら、あなたに私が殺せると言うの?」
「殺せるさ。あれならな」
イスタルテは右手に持っている剣を、大地に刺し、左手の盾を空に掲げた。
「さあおいで、僕のお人形。僕の最高傑作」
地響きがした。
ズン、ズンと、巨大な何かが地を這うようにして、こちらへやってくる。
遠く、ぽっかりとうかぶ影が、徐々に大きくなった。
「……巨兵?」
どのくらい大きいのだろう。それは巨兵だと分かったが、今まで見てきた巨兵とは、何かが根本的に違って思えた。
無数の腕はまるで木の根のように大地に刺さり、機体を動かしている。
ギシギシと軋んだような機械音は、心地が悪い。
近づくたびに、私は言い様の無い妙な心地になった。
それがなんなのかは分からないが、鼓動が早い。
顔は人のもののようだが、表情は穏やかで、その眼は閉じられている。
無数の模様の搔き込まれた、歪んだおぞましい体と、聖者のような穏やかな表情が不釣り合いで、恐怖すら感じた。
「…………これ」
聞いた事がある。
神話の時代の巨兵。神を葬ろうとした元始巨兵。
シャトマ姫は、イスタルテがこれをどこで持ち出してくるか分からないから、警戒しろと言っていた。
こんな所でお目見えする事になるとは。
「へ、へえ。大層なお人形持っているじゃない、お嬢ちゃん」
「美しいだろう。羨ましいだろう。……瞳はもっと綺麗なんだよ」
クスッと、微笑んだイスタルテ。
瞬間、嫌な気がしたのは、オリジナルの閉じられていた瞼が、僅かながらに開いたからだ。
「!?」
足下から無数の手に体を絡めとられた様な、圧力を感じた。
体が勝手に、それを最大級の恐れであると察知し、後退する。
「神器、戦女王の盟約……」
槍を大地に付き、自らの神器の名を唱える。
こいつは生半可な武器じゃ倒せないし、破壊できない。それは分かっていたからだ。
イメージするのは、この巨兵を一発で葬る事の出来る、装甲兵器だ。
以前、ルスキア王国の聖教祭の際出現した、魔王クラスをモチーフとした巨兵タイプ・ロード型の一体、タイプ・エリス型を葬った兵器だ。
イスタルテは私の神器に警戒しつつも、オリジナルに触れ、呪文を唱えた。
「シェム・ハ・メフォ・ローグ」
巨兵もまた、イスタルテの呪文によって、その額に細められた眼を徐々に見開いた。
聖者のような顔に埋め込まれた血の色の双眼が、私を捕らえる。
巨兵はその口を大きく開いて、天高々に、悲鳴にも近いような高音を発した。
何も無い世界が揺らぐ。
私はそれでも神器の展開を止めない。歯を食いしばる。
ここで、こいつを破壊しなければならない。
私が破壊しなければならない。
それは直感だった。
切り傷程度の血では足りない。
兵士から奪って持っていた短剣を、私は自らの太ももに突き刺した。
髪の毛も一房切って、足下に落とす。情報量を上乗せするためだ。
「紅魔女マキアの名の下に命ずる。あの巨兵を、破壊し尽くしなさい!!」
血はみるみる赤い泉を形成し、それは神器に大きな魔力を与えた。
無数の魔法陣が私の周囲に形成され、またロックオンされた巨兵の双眼の前にも、並ぶ。
敵の攻撃より私の方が早い。
巨兵は自らの目を守る体勢を取ろうとしたが、装甲兵器の足下に形成された真っ赤な魔法陣はそれよりも早く一直線のレーザー光を巨兵の頭部へと発射した。
天の濁った空をどこまでもつっきって散る破壊砲撃だった。空間が僅かに割れたのか、光が刺し込んでくる。
巨兵の頭部は一瞬で塵となり、その炎は体を覆う。
シャトマ姫は言っていた。
あの巨兵の弱点はおそらくその瞳であると。
巨兵には弱点が少なからずあるが、双眼を破壊すれば、この巨体も破壊される。
そう思っていた。
「シェム・ハ・ルータス」
燃え上がる巨兵に、イスタルテは優しく呪文を唱えた。
すると、一度は燃えあがり、塵となって小さくなっていた巨兵を包む炎が再び大きくなると、時間を巻き戻すように肉体が再構築される。
巨兵の体は、衣服を纏うように、銀色の何かによって包まれていた。
「…………は?」
最後に両目の双眼が鈍く光り、顔面に収まった。
傷一つない。私が渾身の魔力を込めても、こいつは絶対に破壊されない。
それを、悟った。
おそらく、破壊する事でこいつをこの世から消せる訳ではない。
何かしら別の理によって、この巨兵は再生を許され、守られている。
「ふふ……」
イスタルテの不気味な笑い声が耳に届いた。
「素晴らしい……流石は僕のお人形だ」
うっとりしているかのような声だ。
イスタルテは自らの巨兵に触れ、私に言った。
「しかし流石と言っておこうマギリーヴァ。このオリジナル、一度の破壊すら、この世界の何を利用してでも難しいだろう。お前はそれが出来る唯一の人間と言って良い」
「……あんた、どうして……」
「これだよ」
イスタルテは自らの腕についている銀色の盾を前にかざした。
「創造王の神器である銀盾。別名、“流転の慈愛”。盾って、何かを守るものだろう? 僕の能力は創造だ。そこに、どんな繋がりがあると思う?」
「……分からないわよ、そんな事」
「あはははははははっ。お粗末だな。お前は、戦いと破壊を掛けた能力を持っているのに、そんな事も分からないのかい」
腹立つ笑い方をするイスタルテ。
「この盾は最大の防御。絶対に、対象を守る。豊女王の殻も最大の防御の神器ではあるが、僕のこれがどれほど特殊かと言うと、守りの範囲が死してなお、と言う事だ」
「……死してなお?」
「そうだ。……この世界に、死の概念が出来て、どれくらい経つだろう。僕はね、今でも死が嫌いだ。大事なものを全部奪っていくからね。死んでしまったら、守りたくても守れない。だから、絶対に死なない事を、最大の防御とした。すなわち、再生。……転生だ」
「……」
私は一瞬、奴が何を言いたいのかが分からなくなったが、転生と言う言葉で、ハッとする。
それは、私たち魔王クラスには無視できない言葉だ。
「世界の法則を、お前はいくつ知っている?」
「……は?」
「あれは全部、僕が定めたものなんだよ。ギガント・マギリーヴァ終結の暁にね……魔王クラスの転生の仕組みだって、このメイデーアを維持するのに必要な、世界の理だった。その理の中に、このオリジナルの再生も含まれている。要するに、このオリジナルは、僕が存在する限り、絶対に破壊できないんだ」
「……」
それは、私たちに取ってどれほどの事だったのだろう。
しばらくあっけにとられていたが、きゅっと唇を結ぶと、装甲兵器をイスタルテに向ける。
「なら、あなたを殺せば、そいつも死ぬってことなの?」
「はは。お前は僕の話を聞いていなかったのかい? 僕の神器は絶対防御の盾。絶対破壊のお前とは、矛盾の関係にある。お前は僕を殺せない」
「でも、あなたも私の攻撃を防ぐ事が出来ないと言う事でもあるのでしょう? なら、やってみる価値はあるわよね」
装甲兵器に魔力を溜めた。兵器の持ち手の飾り刃を握りしめ、血を補充する。
簡単にイスタルテが死ぬはず無い。
それが分かっていながら、なお、全力で破壊の砲を撃った。
「戦女神の盟約。放て」
「創造王の盾、僕を守れ」
イスタルテもまた盾をこちらに向け、低く唱えた。
私の砲撃は盾に弾かれ、無数の火玉となりオリジナルを襲った。オリジナルは体のあちこちに穴を開けたが、すぐに銀色の加護に包まれ、再生する。
二つの矛盾の力は、お互いを相殺し合い、やがて巨大なエネルギーを生んだ。
目映い光は大地をかけ、やがて不協和音となり、私もイスタルテもその魔力波に包み込まれた。
何もかも真っ白な世界に。
「ねえ、マギリーヴァ。お前は、今でもクロンドールを愛しているのかい?」
脳内に、イスタルテの声が響く。
神器と神器のぶつかり合い。正しき不協和音。その奥の奥で、私たちは会話した。
「それがどうしたと言うの」
「マギリーヴァ。お前は愚かな女だね。いつまでもいつまでも、クロンドールを追い求め続ける。神話の時代から変わらない。お前はあの男に、殺されたようなものなのに……」
「……え?」
イスタルテの言葉は、騒音を越えた静寂の中、良く心に届いた。
言葉を胸に突きつけられている気がした。
「そう。かつてのマギリーヴァは……黄金の林檎に魅入られたクロンドールと、巨人族との戦いを止めようとして、その命を対価に、0を1にする魔法を使った。そして、死んだのだ」
「……0を……1にする魔法?」
故に、戦いの象徴はマギリーヴァ。
戦争を始めたからではなく、終わらせた女神だからだ。
イスタルテの言葉が、大樹の木々のざわめきとともに遠ざかっていく。
別の声がする。
子供たちの笑い声。
絶望から逃れ、ただ幸せになりたいと願って、何も無いこの世界にやってきたはずだった。
ただの子供たちは、欲しかった何もかもを、手に入れる力を授けられたはずだった。
なのに、争いは起こった。
なぜ?
自分にとって一番大事なものを、守りたかったからだ。
多くの言葉と、感情と、とぎれとぎれのヴィジョンが、私の中に、一方的に流れ込んでくる。
黄金の林檎は投げ入れられた。
巨兵は生み出された。
多くのものが死に、国が滅び、大地は焼かれた。
死者の国がいっぱいになった。
世界は歪んだ。
それでも戦いは終わらない。
愛した者は、もう自分を忘れてしまっている……
止めなければならない。止めなければならない。
私が止めなければ、もう誰にもあの二人の争いは止められない。
力が欲しい。
創造と空間、巨兵を構築する二人に匹敵する力が。
その力を得る為だったら、私は全てを捧げてもかまわない。
もう思いは通じ合わなくとも、対等の力があれば、戦いに割って入っていける。
あの人の視界に、もう一度映る事が出来る。
力が欲しい。力が欲しい。
力が……
肉体を真っ赤に染め、荒廃した古代都市の、崩れた巨兵の屑鉄や、瓦礫の隙間に横たわり、空からは光りの帯がいくつも注がれているのに、振り続ける雨に打たれながら……
今まさに死の床につこうとしている女のヴィジョンを見た。
それが、かつてのパラ・マギリーヴァだったことは、すぐに分かった。
鈍い色のボロボロのローブを纏った男が、身を屈めて、声を上げて泣いてる。
ローブの隙間から、僅かに金髪が見える。
そんな私たちを、少し離れた場所から見つめ、立ちすくんでいる黒髪の男が居た。
ただぼんやりと、死んだ女の亡骸を瞳に映し、手に持つ剣を、するりと落とした。
落とした。
それが、戦争の終わりだった。
二つの神器が共鳴し合い、刹那的に見せたヴィジョンは、再び、遠く光の中に消えた。
私は戸惑いを隠せないまま、自らの身を守る事すら忘れ、大爆発に巻き込まれ天高く吹き飛ばされる。
その隙を見逃すまいと、オリジナルは一つの腕を素早く動かし、私を捕らえた。
「あっははははははは。捕まえたぞ、マギリーヴァ! それでもやはり、お前は天敵だ。お前だけは、生かしてはおけない!!」
イスタルテはオリジナルの肩に乗って、「撃て!!」と命じた。
オリジナルは頭部に無数の球体を発生させ、ビリビリと危うい魔力を発生させる。
銀色の糸のようなものが、蜘蛛の巣のように空に這い、今まさに無限の魔法を展開しようとしている様だった。
私は、まだどこか夢見心地だった気持ちを、なんとか現実に引き戻そうとした。
だけど、体に力が入らない。
まずい。
ぐっと奥歯を噛むが、先ほど見たヴィジョンのせいで、体が震えている。
これは、止めどない悲しみのせいだ。
一体何が悲しくて仕方が無いのか、私にはまだ理解できていないのに、遠い記憶の彼方に居た“マギリーヴァ”の思いが、どうしようもなく心を締め付ける。
空を仰いだ。
このまま、この悲しみに浸ったまま、私が何の抵抗もしなければ、また死んでしまうのだろうか……
ふと、そんな嫌な予感が頭をよぎった。
分からない。
混乱していて、頭が正常に働かない。
マギリーヴァは、死ぬ間際に一体何を思っていたのだろう。
まだ、目の奥に、彼女の息絶えた場面が鮮明に残っている。
体が痛い。なぜだかとても虚しくて、破壊を命じる力が湧いてこない。
『どうしたの。君らしくも無い』
そんな時、また、声がした。
今度の声は、記憶の向こう側から聞こえてくる過去のものでも、イスタルテのものでもない。
私が王宮に入ってから、時々聞こえていた、私を導いていたような懐かしい声だった。
真上の空の、光の帯が一筋伸びてくる場所を見つめた。
先ほど私が砲撃し、空間の歪みとなったはずのその場所だ。
その場所からは、チリチリと光の粒が溢れている。
やがてそれは白い魔法陣を描き、それは筒のように連なって、私の体を覆い込んだ。
「第五戒・精霊乗算」
環を描くような白い炎が、私を掴んでいたオリジナルの腕を焼き斬った。
私は空へと投げ出されたが、ふわりとした柔らかい腕に抱きとめられる。
私は、誰かに助けられ、巨大な鳥に乗り、空中を飛んでいた。
「第八戒・精霊宝壁」
すぐに、豪雨のように降り注いだオリジナルの銀色の魔導粒子法を、無数の魔法陣に寄って連ねた精霊宝壁が防ぐ。
激しい圧力に押されながらも、なんとか逃げ切った。
「チッ」
銀の王は驚きつつも、疎ましい表情だ。
「……」
しゃらしゃらと心地の良い、その錫杖の金属の音が、私の意識をその人に向かわせた。
薄い色のローブがなびいていた。
細くて柔らかな髪も、その清涼な空気も、どこまでも透き通った瞳も。
真っ白で、まっすぐで、温かい。
そんな彼の笑みを、私は何年ぶりに見ただろうか。
心の奥に芽生えた悲しみも、戸惑いも、虚しさも、彼の微笑みの前に溶かされる。
「マキちゃん、そんな顔をしてどうしたんだい? 君はこのような所で倒れる女の子じゃないだろう」
その人は私に言い聞かせる。
私を抱えたまま、巨大な鳥の精霊から降り、音も無く大地に着地する。
まっすぐに、ただまっすぐに、私は彼を見つめていた。
「…………ユリ?」
名を呼ぶだけで、呼吸が乱れそうな程。こみ上げる再会の喜びに、私は涙を押さえる事が出来なかった。
足が震える。立っていられないと思ったけれど、彼が支えてくれる。
「マキちゃん、しっかりして。大丈夫、君なら大丈夫だから」
「ユリ……でも、でもユリ……私………」
「大丈夫なんだよ。君は、今までもずっと、不可能を可能にしてきたじゃないか。だって、ここに居る。君はまた、僕の目の前に居るじゃないか。死してなお、戻ってきてくれた……さあ、しっかり立って」
優しく、でも私の不安は全て見透かすように、彼は大事な事を一つ一つ言葉に託し、私を叱咤した。
彼は私に目線を合わせて、冷たくなった私の手を取り、心強い微笑みを浮かべ、こう言った。
「一緒に、戦おう、マキちゃん」
ユリシスだ。
目の前に、ずっとずっと会いたかった、ユリシスが居る。
あと少し、あと少し出会えると、いつも考えていた。
会ったら、最初に何と言うかと、もう何十回も考えていた。
だけど、現実はその通りにはいかないのね。
それでもやっぱり、嬉しい。とてもとても嬉しい。
彼は、一度死んで、再び戻ってきた私を、こんな所まで助けにきてくれて、疑いも無く“マキちゃん”と呼んだ。
一緒に戦おうと、当たり前のように言ってくれたのだから。
明けましておめでとうございます。
この作品も、完結まで残りわずかではありますが、どうぞよろしくお願い致します。