85:『 1 』トール、湯たんぽになる。
俺はトール。
かつて、黒魔王と呼ばれた男だ。
目が覚めた時、お、と思った。
朝の寒さが尋常ではなかったからだ。
どうやら、明け方からずっと雪が降っているらしい。
「ああああ、あああああ、寒ーい……」
俺が起き上がったからか、マキアも目を覚まして唸った。
あまりの寒さにベッドから出られない様で、ベッドの中に転がったまま、ガタガタ震えている。
俺だけベッドから出た。
「あっ、湯たんぽが逃げた!」
「……お前、人の事を湯たんぽ扱いしやがって」
じとっと、ベッドで丸まるマキアを見る。
彼女は顔だけを布団から覗かせていた。
「やだやだトール、ベッドにおいでよ。一緒に温まりましょうよ」
「うるさい。一人で震えていろ」
マキアにベッドに誘われても決して甘い事は言わない俺。
マキアは俺から暖をとる為だけに、俺を誘っているのだ。
彼女の魂胆は良くわかっている。
肌を刺すような寒さを身に感じながら、暖炉の火をつける。
部屋が温まればそのうちにマキアも巣穴から出てくるだろう。
一度教会の方に出て、フレジールの間者である神父と、今日の天候について確認し合った。
どうやらここ数日は雪のようだ。
ちらほら雪の降る気配はあったものの、いよいよキルトレーデンに、厳しい冬の時期が訪れた様だった。
外を見てみると真っ白な雪がすでに積もっている。
だが、北の大陸の冬はこんなもんじゃない。これから、もっともっと降り積もる雪と共に、長い冬を過ごさなければならないのだった。
想定内ではあったが、今月末の仮面舞踏会での計画に、多少の調整が入りそうだ。
天候は計画に覆いに影響を与えるだろう。
あちこちと確認し合わなければ。
「おいマキア。外は真っ白だ。俺は後で東区に行って、今後の調整を……」
部屋に戻って、マキアにあれこれ説明しようと思ったが、彼女はまだベッドの中に籠っていた。
部屋は少し温かくなったと思うのだが、それでもマキアにはまだまだ寒いらしい。
「トール……寒い」
「お前なあ」
「こっち来てよ」
「……」
もごもごと動く布団の塊。
俺は「ほう」と目を細めた。
「お前、いいのか? 今の俺は、実のところ凄く冷たい」
「え?」
「半端じゃなく冷えきっている。ああ、さびーさびー」
言いながら、ごそごそベッドに戻る。
するとマキアが「ぎゃあああ」と悲鳴に近い声を上げた。
「冷たい冷たい冷たい冷たい!! トールが冷たい!!」
「お前が誘ったんだろうが。冷えきった俺の体を温めてくれると」
「違うわよ! あんたにまた湯たんぽになってもらうつもりだったのに!」
げしげしと人の足を蹴るマキア。
とは言え、やはりベッドの中は温かく、特にマキア付近は良く温もっている。
マキアに寄って行って、彼女が嫌がるのを無理矢理掴んで引き寄せた。
ぎゅっと抱きしめてみる。温かい。
「ぎゃああああ、死ぬうううう」
「だから俺は今冷たいって言っただろ」
「うう……なんで私があんたの湯たんぽになっているのよ」
マキアは半泣き状態だったが、俺としてはマキアの温かさと柔らかさにほっと息をついていた。
マキアもそれが分かっていたのかなんなのか、これ以上の抵抗も無く、なすがままという感じだ。
「トールの足が冷たい」
「……お前は温かいな」
「トールの足が冷たくて何か可愛そうだわ」
マキアはぎゃあぎゃあ言っていたのに、今度は自ら、俺の足に自分の足を絡めた。
俺の顔を覗き込んで、さっきまでの情けない表情とは裏腹に、小悪魔っぽい笑みを浮かべる。
「ふふ、かわいそうなあんたの足をあっためて上げましょうか?」
「……さっきまで人の足をげしげし蹴っていたくせに」
すぐにころっと態度が変わるんだもんな。
本当にマキアさんの調子は分からない。
とは言え、ネグリジェから伸びる素足の柔らかさと心地良さよ。
マキアは本当に小悪魔だ。生殺しも良い所だ。
「トールがだんだん温かくなってきた」
「ん? お前の湯たんぽだからな」
「トール〜」
マキアは徐々に温かくなってきた俺に満足しているのか、甘えを見せ始めた。
人にべたべたとくっつき、首元に顔を埋める。
俺は彼女の肩まで布団をかけながら、ああ、ずっとこんな時間が続けばいいのに……と考えたりした。
雪のせいか、余計に今朝は、静かで穏やかに思える。
「ねえトール、私、またトールとデートがしたいわ」
「……雪が溶けたらな」
「その時は、ルスキア王国でデートがしたい」
「……」
マキアはふと、故国ルスキア王国の名を出した。
今まであまり、彼女はルスキアに帰りたいとは言わなかったが……
「帰りたいのか、マキア」
尋ねてみた。マキアは難しい顔をして笑う。
「……懐かしいと思っているのよ。でも、ルスキア王国でのマキアはもう死んだわ。今の私を受け入れてもらえるか分からないけれど」
「何を言っているんだ。お前はお前だ。誰だって、お前にもう一度会えるのを待っている」
「……」
マキアは、俺の首元に埋めていた顔を上げて、俺の顔を見つめた。
不安そうな面持ちだ。彼女の気持ちも良くわかる。
だが、マキアを待っていない者など居ない。少なくとも、マキアが大好きな者たちに。
「二度寝する」
ごそごそと頭まで布団に潜るマキア。
「ああ、二度寝でもなんでもしろ。どうせ今日は雪だ。お前の仕事は無い」
「……暇って素敵だわ」
マキアはぼやきながら、布団の中で俺にしがみついて長く息を吐いた。
彼女の体の力が抜けて行くのが分かる。
ぽんぽんと背を撫でてさすった。
まだ早朝であったから、寝足りなかったのだろう。
そのまま、マキアはまた寝てしまったのだった。
ちょうどお昼の、雪の小降りになった時間帯。
変化の術で、俺は女の姿になって、一度外に出た。
雪かきをしていた神父に目配せして、街へ出て行く。
流石は雪国の住人たちだ。
歩道の雪はかき分けられ、人の通れる道は出来ていた。
積み上がった雪が脇にこんもり残っているが、これは今後どんどん高くなるんだろうな。
東区の、旧王家の隠れ家にやってきた。
出迎えてくれたのは、イヴァンとアレクセイ、二人の騎士だった。
「トール、雪の中ご苦労だったな」
イヴァンは俺の脱いだ長いマントの雪を払いながら言った。
「……流石に表にも人が少ないな。雪かきしている店の男たちばかりだ」
表の寒さとは打って変わって、地下の隠れ家は温かい。
タチアナ様はと尋ねると、部屋で編み物をしていると答えられた。
「タチアナ様は編み物が大層お得意なのです!」
アレクセイも、エプロンをつけてお玉を持った料理スタイルで、ほくほくした顔をしてそのように付け加えた。
「この時期になると、毎年我々に、お手製の編み物を下さる」
イヴァンもどこか得意げ。俺は無言。
ああ……なんて暢気な奴らだろう。
この男共、やっぱりタチアナ様の事を何も分かっていない。タチアナ様が今別の男に恋をして、そいつと会う為に編み物をしていると偽っていると知ったら、どうなる事やら。
「タチアナ様にお目通りしたいのだが」
「ドアをノックして、タチアナ様付きのメイドのカーリーに尋ねると良いでしょう。女性は皆、お部屋に入れてもらえると思います」
「……分かった」
頷いて、奥の廊下を進んだ所にあるタチアナ様の部屋の前までやってきた。
アレクセイに言われた通り、タチアナ様の部屋の前で、ノックして尋ねる。
「タチアナ様。トールです。お部屋に入ってもよろしいですか?」
しばらくして、扉が僅かに開いた。
メイドのカーリーがそのたれ目をこちらに向けた。いかにも、気の弱そうな少女だ。
初めて会った訳ではないが、彼女はおどおどとしている。
「タチアナ様にお目通りしたいのだが、良いだろうか」
「ど、どうぞ」
カーリーは困り顔であったが、俺を中に入れてくれた。
俺がタチアナ様の事情を知っている事を、彼女は承知している様子だった。
「トール、こんにちは!」
部屋に入るや否や、タチアナ様の元気な声が聞こえた。
タチアナ様は暖炉の側で、本当に編み物をしていた。どうやら深い青色のセーターだ。
俺がやってきたのを知ると、その手を止めて、立ち上がる。
「今日は女の子なのね」
寄って行った俺に、彼女は小声で尋ねる。
俺は小さく頷き、微笑んだ。
「タチアナ様。今朝はとても寒いですね」
「そうね。……まさか雪が降ってしまうなんて、思わなかったわ」
「今日は編み物をしているのですね。てっきり、編み物はあの二人についている嘘かと思っていました」
「嘘じゃないわよ。ここに居る間はとても暇なんだもの。編み物くらいしかやる事が無いわ」
「……」
タチアナ様の部屋は美しい小物で溢れている。本も沢山ある。
本棚は壁を埋め尽くす程で、あの裏のどこかに、隠し扉があるのだろう。
タチアナ様の座っていた、暖炉前の椅子の脇には、大きな編み物籠がある。
色とりどりの毛糸と、編みかけのあれこれが。
「イヴァンと、アレクセイにですか?」
「え? えあ、その……そりゃあ、二人にもあるけれど……」
「……」
言葉を濁したあたり、イヴァンとアレクセイ用のものはおまけで、今一生懸命に編んでいるあのセーターは例の劇場の君への贈り物らしい。
何も知らないイヴァンとアレクセイが、少々哀れだ。
「ねえねえトール、少し困っているの」
「どうしたのですか?」
「私、昨日“あの人”に、明日も会いに行くって言ってしまったの。でもこんな雪でしょう? あの人来るかしら」
タチアナ様は、あくまで今日の夕方も外に出る予定の様だった。
本気で悩んでいたので、俺は慌てた。
「タチアナ様。タチアナ様も、雪の間の外出は控えていただきたい。色々と危険ですから」
「でも、あの人が来てしまっていたら? この雪の中、私の事を待っていたらどうするの?」
「それは……流石に、この雪ですから。夕方から、また雪が降るようです。あの者も来ないでしょう」
「……でも……でもこのまま雪が降り続けたら、しばらく会えないかもしれないわ。その前に、一度、あの人に会いたかったな。沢山の約束を、そのままにしているの」
「タチアナ様」
思い悩んでいるタチアナ様に、俺は困った顔をして首を振った。
メイドのカーリーも困り顔だった。
最終的にタチアナ様は納得してくれた様だったが、説得には結構骨が折れた。
できるならこのまま、月末まで雪が降り続いて、二人が会わないでいてくれたら良いと思った。