79:『 1 』レナ、連邦の事情。
私の名前はレナ。
連邦の姫イスタルテにより、フレジールの地下牢より攫われ、キルトレーデンの宮殿に捕われどれほど経っただろうか。
私はとある一室に閉じこめられている。
「やあ、ヘレネイア。良く眠れたかい」
朝、目が覚めると、すぐにイスタルテが部屋にやってきて、私の機嫌を伺う。
私はと言うと、曖昧な返事をいつもするのだが、彼女は僅かな会話だけをして、私の顔を見て部屋を出て行くのだった。
部屋を出て行く時、白い軍服を着たナタン・トワイライトが彼女を待っているのが見えた。
部屋の見張りをしているゴーレムも。
「殿下。総帥についてですが、ガイリア旧王家の弾圧について各方面より苦言が……」
「当然と言えば当然だろうな。父上のやり方は無茶すぎる。この国には、まだガイリア派は多い。内で争っていてどうする」
「革命家が王都に集まりつつあると言う情報も入っています。総帥は、そこを一気に叩きたいのだと」
「父上は自らを脅かす者を排除したくて仕方が無いのだ。余裕の無い狸め……わかった、僕が言おう」
「あまり無理はなさいませんよう。殿下のお立場も、現在あまり良いとは言えません」
「バカを言うなナタン。僕を誰だと思っている」
「……失礼致しました」
扉の外で、そのような会話が聞こえた。やがて、ブーツの音が遠ざかって行く。
私には、何の事だか分からない。
トールさんや、マキアは元気にしているだろうか。
今、外界はどうなっているんだろうか。
私は部屋に居る間、色々な事を考えていた。
このままではダメだと言う気持ちがある。
居ても経っても居られず、うずうずとした気持ちの中、それでも側に殺意を抱くべき魔王が居ない事に、安心もしていた。
私はずっと、この場所に閉じ込められて過ごすのだろうか。
もう、元の世界に、地球に戻る事は無いだろうか……
半ば諦めていた頃、ふと、考えた。
イスタルテに対しては、抱く事の無い殺意。これはいったい、どういう事だろうか。
イスタルテは、自らが私を作ったと言っていた。
自分を親だと言っていた。あれはどういう意味なのだろう。
何となく、察してはいる。
きっと、神話の時代に、私を創造したのが、イスタルテなのだ。
だが、私には何の記憶も無い。彼女に対して、僅かな懐かしさはあれど、それは魔王クラスの誰もに感じるもので、トールさんやマキアに対する気持ち程ではない。
何故だろう。
イスタルテはいったい、何者なのだろう。
その気持ちが大きくなればなるほど、私は彼女を知りたくなったし、同時に、何だか怖くなった。
彼女から逃げたいと言う思いも、強くあった。
「ここから逃げなくちゃ」
今まで何度も、脱出を計った事がある。
だけど、扉はしっかりと施錠されており、見張りの小型のゴーレムが居て、私を逃しはしない。
私ごときでは、扉を出た所ですぐに掴まってしまうだろう。
窓はあるが、どうやらここは高い場所にある様で、飛び出す事も出来ない。
今でこそ、この場所からの脱出は諦めていた。
しかし、生活して行く中で、気がついた事もあった。
イスタルテがこの場所へ来る時間帯だ。
彼女は朝と夕方に、一度ずつここへやってくる。
真夜中に訪れる事は無く、また、遠征などで王宮に居ない時は、必ず私の元へ、小型のゴーレムをよこす。
それは丸っとした体格の、柔らか素材のゴーレムで、見た目は愛らしく、地球のゆるキャラの様な癒し要素がある。
名前は“ピサ”。
私の身の回りの世話をして、何かと話し相手になってくれる。
暇つぶしの相手になる様にと、イスタルテに言われているのだろう。
その献身的な態度は感情を感じさせないにしても、段々と可愛げがある様に思えてくるものだ。
また、時々、イスタルテと共にやってきて、部屋の外で待っている白い軍服の男がいる。
ナタン・トワイライトだ。
ナタンは、私のよく知るトワイライトの一族とは、何かが違った。
私は、てっきり彼も圧力をかけられイスタルテに協力しているものだと思っていたが、そのようには見えないのだった。
イスタルテに従順で、彼女を心配する素振りを、何度か見てきた。
いや、分からない。彼は淡々としていて、感情がいまいち読めない。
本心で彼女に仕えているのではないかもしれない……
だけど、私はやっぱり、不思議で仕方が無かった。
だって、トワイライトの者たちは、連邦に酷い目に合わされているのだと聞いていた。
巨兵開発の為に、一族を皆捕えられ、奴隷の様に扱われていると。
当然、それを行っているのは、かつての銀の王であり、巨兵の生みの親でもあるイスタルテだと思っていた。
だが、イスタルテが側に従えているのは、自らが生み出したゴーレムと、ナタンだけで、私は彼女が、それ以外の誰かと一緒に居るのを見た事が無い。
私が知らないだけで、他にも部下は居るのだろうが、ここへ連れてくるのは、ゴーレムとナタンだけだ。
ナタンは淡々とした中でも、自らの意思でイスタルテについているように思えたのだった。
ただ、私がまだこの場所で出会っていなくて、気になる存在も居る。
青の将軍だ。
そうだ。まだ本体の分かっていない、青の将軍は、いったどこにいるのだろう。
そして、いったい誰なのだろう。
イスタルテと繋がっているのは確かだ。
このキルトレーデン王宮にも、何かしらの立場で居るのだろうか。
「ねえ、ピサ。私、この部屋から出たいわ」
「……それはできませんネエ」
まるっとした、少し大きなミツバチみたいな配色のゴーレムが、その顔を上げて、つぶらな瞳を向けて言った。ぬいぐるみみたいなゴーレムだ。
ピサはお茶を入れている所だった。私の無茶なお願いに、マニュアル通りの返事をした。
「イスタルテ様に、ヘレネイア様をお出ししてはいけないと言われてオリ」
「でも、ずっとこんな所に居たら、息が詰まっちゃいそうだわ。死んでしまったらどうするの?」
「それはこまりますネエ!」
ピサは私の、何のワードに反応したのか、慌てた様子を見せた。
背中の小さな羽をパタパタとさせる。
「しかし、扉にはゴーレムが二体おりますから、ピサにはどうにもできませんネエ」
「じゃあ、そいつらがどこかへ行ってしまったら、私は部屋を出ていいのね?」
「え? んー、それも困りますけれど、どうせ、あのゴーレムをどかせる事は無理でしょうネエ。イスタルテ様の命令でないと、絶対に動きませんから」
ピサはそのように言った。
今の私に出来る事は、逃げる事である、とは思わなかった。
だが、出来るだけイスタルテの事や、青の将軍の事、また連邦の事情を知る事だと思っていた。
知らなければ、私も選択が出来ない。
夕方に一度、イスタルテが訪れた時に、思いきってこの部屋を出たいと言ってみた。
「バカを言え。この王宮で、この場所だけが、唯一安全な場所だ。連邦は大きな国になり過ぎた。派閥も多い。特に、総帥はいつだって僕の命を狙っているんだ。だが、僕が死ぬ事は万が一にもあり得ない。だからこそ、総帥は、僕の弱点を探しているんだ」
しかしイスタルテは、このように言って私を叱った。
訳が分からない。
「総帥は、あなたのお父さんなんじゃないの?」
「はっ。この国の王家に、血筋だからと許される油断があると思っているのかい? 総帥が、今までに殺した自分の息子の数を知っているかい?」
「……」
皮肉めいた表情で、イスタルテはそのように言った。
総帥が殺した息子の数? 総帥は、自らの息子を殺してきたと言うのだろうか。
なぜ、そのような事を。
複雑そうな表情をしていたら、イスタルテは自らの手を見つめた。
「総帥は、身の程知らずの望みを抱いてしまった。故に、このような大帝国を治めきれていないにもかかわらず、より領土を広げようとした。侵略戦争だ。……僕があいつを、そのような男にしてしまった……」
「……あなたが、侵略戦争を始めたのでは無いの?」
「あはは。まさか……そりゃあ、魔王クラスとの戦いに、連邦の侵略戦争を形としてかりたけれど、もうそろそろ、それも必要ではなくなるよ。ギガント・マギリーヴァは間もなく始まってしまうのだから。これが始まってしまえば、人間たちのちっぽけな争いは、何もかも無意味なものとなる」
「……」
イスタルテは笑いながらも、いつもの凛とした様子では無く、どこか、寂し気な子供の顔をしていた。
たまにこんな顔をするから、私は妙な焦燥に駆られるのだった。
だけど、イスタルテがはっきりと何かを教えてくれる事は無い。
ぽつりぽつりと、どうしても言葉を零してしまう事はあるけれど。
尋ねても、お前が知る必要は無いよと、凛々しい表情をした。
真夜中の事だ。
扉の向こう側で、ガタガタと音がした後、扉が開いた。
私は寝ていたのだが、すぐに音に気がつき、目を覚ます。
「……誰?」
イスタルテだろうか。
しかし、彼女が真夜中に部屋に訪れた事は無い。
しばらくベッドの上で固まっていたが、すぐに起き上がる。
ベッドの側のランプに灯をともして、扉の方を見てみるが、人は一人も居ない。
扉へ近寄ると、細かく壊されたゴーレムの破片が散らばっていた。
どうやら、何者かによって扉を守っていたゴーレムが破壊されたらしい。
ゾッとした。
このように破壊されたにしては、破壊音はそれほど聞こえなかったからだ。
「……誰か居るの?」
尋ねてみたが、答えてくれる者は居ない。
ただ、ふと思い至った。
これは、逃げ出すチャンスなのでは無いだろうか。
今は、扉を守るゴーレムも、私を見張るピサも居ない。
ゴクリを息を呑んで、私はそのまま、廊下に出た。
たった一枚のネグリジェでは、廊下はとても寒い。いかに、部屋が温かくされていたのかが良く分かる。
長く人の気配の無い廊下を進むと、突き当たりに、大きな扉があった。
そこは、長い渡り廊下に繋がる扉で、施錠はされておらず、少しだけ空いていた。
ゴーレムを壊した者は、これを壊してここを通ったのかしら。
「……」
凍える程冷たい風が、その隙間から入って来る。
だけど、せっかく外に出られるチャンスなのに、こんな場所で戸惑っていてはいけない。
扉を開けて、私は渡り廊下に出た。
渡り廊下は、夜中でも明るい王宮の本殿を見上げる位置にある。
それを走り渡って、私は吸い込まれる様に、巨大な城へと向かったのだった。
「ふう……寒かった」
渡り廊下を渡ってしまい、渡り廊下の終わりにあった扉を開けると、今度は点々と灯のある広い空間に出た。いかにも王宮の廊下と言う感じで、天井が固く、大理石の柱が並んでいる。
人の気配は無く、私はこそこそと進む。
「わあ、長い絵」
廊下の壁には複数の、横に長い人物の絵画が掛けられていた。
どれも、裕福な大家族が描かれているように思う。
父親らしき人物は真ん中に堂々とした姿で座り、周囲に多くの子供が描かれている。
母親らしき人物は多い。
「あ……」
皆銀髪の一家であったが、その中でも、一人、とても目立った美少女が居た。
その少女は、まだ三歳ほどの年齢だけど、眉間にしわを寄せ、一人だけ家族の輪から離れた場所に居る様に思う。他の兄弟たちは、皆微笑ましい表情をしているのに。
「銀の王……イスタルテだわ」
彼女は、イスタルテだ。それは良く分かる。
可愛らしい、女の子のドレスを着ていて、少し新鮮だ。
だが、幼い姿をしていても、今と変わらない瞳の色と、意志の強さを、絵画から感じ取る事が出来た。
そんな時、どこからか、声が聞こえた。
「総帥。トワイライトのガドを差し向けましたが、どうやら赤毛の怪人を捕え損なった様です……奴は魔術師である可能性が高いかと」
「……トワイライトか。使えない奴らめ」
長い廊下の曲がり角からだ。
私は慌てて、柱の裏側に隠れた。
カツカツと靴の音を鳴らして、こちらへ向かってやってきたのは、三人。
長いマントを引きずった、飾りの派手な軍服の老人と、連邦の白い軍服の眼鏡の女性。
そして、よれよれのローブを纏った男だ。
老人は足を引きずって、でもそれにも慣れた様子で、杖をつきながら歩んでいる。
すぐに分かったのは、その老人が、先ほどの絵画で見た、中央に座る父親だと言う事だ。
あの人が、連邦の総帥……
「さっさと捕まえろ。そいつがガイリア旧王家と繋がっている可能性は極めて高いのだろう。奴らは革命家たちの中核だ。捕えて、民衆の前で殺してやる」
「しかし、フレジールの動向も気がかりです。先日のエルマール海峡戦においても、我が国の巨兵が打ち倒されたばかりでして。西の大陸にも、魔族による国家が出来上がっており、フレジール、ルスキア同様に最新技術である魔導回路の魔導波塔が出来上がっており、形勢はややあちらが優位な形です」
眼鏡を上げながら、白い軍服の女が、総帥に淡々と答えた。
「ええい。待機させているタイプ・ロード型巨兵を使えば、あのような弱小国どもはすぐに征服する事ができるであろうに……っ、イスタルテめ。旧型ばかりで、力を出し惜しみしおって」
総帥は低くくぐもった声ではあったが、イライラした様を隠す事は無かった。
そこで、少し愉快そうな声を上げたのは、ボロボロのローブを着た顔の長い魔術師風の男だ。
「イスタルテ様は巨兵を温存していらっしゃるのでしょう。相手は各国に散る魔王クラス。我が国のイスタルテ様以外の魔王クラスは、皆フレジール、ルスキアに散っております。西の大陸に出来上がった国は、かつての黒魔王が建国したとの情報が入っております。……ふふ、やはり世界は、魔王クラスによって動かされている」
「……魔王クラス、魔王クラス、か」
老人は鬱陶しそうな口調でぼやいた。だが、眼光は鋭い。
まるで魔王クラスに憎しみでも抱いているかの様だ。
気になる話で、私は思わず身を乗り出し、柱に足をぶつけてしまった。
「誰だ」
軍服の女が、すぐに私の存在に気がついた。
素早く柱の裏までやってきて、私を捕える。
まるで転移魔法でも使ったかの様な身の小梨で、逃げる暇など無かった。
「おやおや。これはこれは、イスタルテ様が奥の塔で隔離されているはずの、レナ様じゃあありませんか」
魔術師風の男は、ニヤリと笑った。
「……そいつが、異世界の少女か」
総帥もまた、私を横目に見た。
瞬間の、肌を刺す様な緊張感に、体が強ばる。
自らを守る為の白魔術をいくつか知っていたはずなのに、私は声が出ず、魔法を使う事が出来なかった。
「殺してしまおう」
総帥はそう言い捨て、自らの杖から細い剣を抜く。
白い軍服の女は、私の腕を拘束したまま、立ち上がらせた。
「イスタルテには、おもちゃを与え過ぎた。お気に入りを取り上げれば、あいつも少しは反省するだろう」
何が面白いのか、総帥は狂気じみた笑みを浮かべていた。
そこで慌てたのは、ローブの魔術師だ。
「いやいやいや。しかしですね総帥。異世界の少女は、魔王クラスに匹敵する程、特別な存在と言えます。魔王を討ち滅ぼす存在ですよ。我が国の為に、イスタルテ殿下がフレジールから奪った、宝です」
「何が宝だばかばかしい。何の力も無い、ただの小娘では無いか。ラスジーン、お前は私が、この娘より下の存在だと言いたいのか? 魔王に匹敵するものでは無いと言いたいのか! 魔王なんぞ、私が全員滅ぼしてやる」
総帥は、魔術師をラスジーンと呼び、何度かキツく問いかけた。
ラスジーンは少しだけ考え、ふうと諦めのため息をついた後、「では仰せのままに」とニマニマした笑みを浮かべた。
総帥はゆらりと剣を上げた。
殺される……!
それが分かっていても、私は何の言葉も発する事が出来ず、目を瞑った。
「おやめください!」
しかし、私に剣が振り下ろされる瞬間、私の前に立ち代わりに剣を受けた者が居た。
目を開けると、それはイスタルテだった。
「おやめください、総帥」
「……イスタルテ、か」
総帥は、目の前に立った者がイスタルテであると分かってなお、より口角を上げ剣を振り落とした。
思わず、「えっ」と声が漏れた。
イスタルテは顔や肩を斜めに斬りつけられ、血まみれだ。
普通なら、死んでもおかしくない程の傷だ。
だが、その血で白い軍服を染めながらも、イスタルテは立っている。
様々な事に対して、なぜ、と思う以外、私には何も考えられなかった。
衝撃があまりに大きすぎて。
イスタルテは落ち着いた口調で言った。
「総帥。彼女を傷つける事はなりません。彼女は戦争の要です」
「……戦争など、巨兵の力があれば、いとも簡単に決着が着くはずだ。我が国家にはタイプ・ロードも、オリジナルもあるではないか、イスタルテ。お前が声をかければ良いだけの話」
総帥は瞳を細める。
だがイスタルテは首を振った。
「巨兵はあくまで戦争の道具。最終的に世界の采配をするのは巨兵では無い」
「そうだ。それは私だ」
「……」
総帥は断言した。
「世界を統べるのは魔王どもではない。奴らはかつての栄光に縋る亡霊共だ。私が、奴らから世界を取り戻さなければならない。……イスタルテ、お前は私の“息子”だ。魔王クラスであろうが化け物だろうが女だろうがな」
「……」
ピリッとした、魔力を肌で感じる。イスタルテの魔力だ。
私は状況が理解できなかった。
イスタルテならば、ここで総帥を殺しても、なんらおかしくないと思っていた。
だが、イスタルテは何も言わずに「その通りです、父上」と言っただけ。
歯を食いしばり、何かをひたすらに悔しく思っている。
そう感じた。
「その娘を部屋に閉じ込めておけと言っただろう。また抜け出す様な事があれば、今度こそ殺すぞ。分かっているな。私の前に出すな」
「……分かっております。申し訳ございません」
それだけ答えると、イスタルテは私の手を引いて、早々とその場から立ち去った。
私が閉じ込められていた奥の塔への渡り廊下で、イスタルテは一度ふらついた。
スッと、イスタルテの脇に現れた。彼女を支えたのはナタンだ。
「無茶をなされた」
ナタンはそれだけ言う。
「ねえ、大丈夫なの? 銀の王……イスタルテは」
私は震える声で尋ねる。今やっと、現状を恐怖した。
イスタルテは難しい顔で、ナタンに抱き上げられる。
「このくらい、どうってことないよ。僕は魔王クラス……神だからね」
強がる口調も、どこか弱々しい。
「は、早く、あの部屋へ」
私は急いで渡り廊下を渡った。奥の塔への扉を開いたのだった。
顔面は血まみれで、皮膚は抉られていた。
それでも彼女は至って平常心だった。部屋のソファに座り、傷を確かめている。
ゴーレムのピサが水を桶に入れて持って来て、ナタンがイスタルテの傷を手当てした。
私はというと、ひたすらに暖炉に薪をくべている。
イスタルテが上の衣服を脱ぐと、血まみれのサラシがだらりと解かれ、上半身が露になった。
やはり体は女の子なのだ。
ナタンとイスタルテは親子程の年齢差があるように思っているが、イスタルテは恥じる様子も無く、堂々としている。
私はというと、なぜかオロオロとする。
イスタルテを心配しているなんて、変な感じがした。彼女には今まで、散々傷つけられてきたのに。
「だ、大丈夫……? 痛いんじゃ無いの? 私、治癒魔法が使えるわよ、とても微弱な効果しか無いけれど」
オロオロしたあげくにそう言うと、イスタルテは鼻で笑った。
「何をうろたえているんだい、ヘレネイア。傷はもうくっつき始めていると言うのに」
「え……?」
「君だって、散々魔王クラスを見てきただろう? 僕の体質も良く分かっているはずだ」
「……それは、そうだけど」
改めて言われると、思い出すのはトールさんやマキア、シャトマ姫の事だった。
私は彼らが怪我をしても、人間としては異常な生命力と回復力で、その体の傷を完治してきた様を見てきた。
そうだ。だって、彼らを殺す事が出来るのは、私の短剣と、カノン将軍の剣だけだもの……
「僕らは不死身では無い。だが、限りなくそれに近い存在だ。この世界に死の概念が生まれて随分と経つが、僕らは生物上、そこに一番遠いというだけの事。首を切って、頭をつぶせば死ぬ。だが、普通の人間にはその状況に我々を追い込む事は難しい。魔王クラスは魔王クラスでしか追い込めないし、また、“回収者”や君の様な、異世界よりやってきた少女にしか、本当の意味での死をもたらす事は出来ない。……だから、僕は死なないよ、ヘレネイア」
「でも、痛みは感じるのでしょう? 死ななくても、顔をそんな風に傷つけられたら、辛いでしょう? ましてや、あの人はあなたのお父さんなのでしょう?」
「……」
イスタルテは沈黙した。黙ったまま、ナタンに手当をされている。
だが、イスタルテは声を上げて笑った。
「あっははははは。あんな下賎な男が、僕の父? 笑わせるなよヘレネイア。あんなやつ、僕の父親なんかじゃない。血のつながりがあるだけの、赤の他人だ」
「……でも、それならばなんで、あなたはあの総帥の言う事を聞いたの? あなた程の力があれば……っ」
私は少しだけムキになっていた。
だって、そうじゃない。イスタルテの力は、かつての主神である創造の力だ。
それは、他の魔王クラスの者たちが嫌と言う程警戒しているもので、絶大な力だ。
それが、なぜあんな男に……
「へレネイア。君はおかしな子だね。君は僕が嫌いだろう? なら、そんな事は知らなくても良いじゃないか」
「……で、でも。あなたは私を助けてくれた……だから」
「……」
イスタルテは顔面に包帯を巻き終わって、肩の治療も終え、白い軍服の上着を着た。
彼女はスッと私に視線を向けた。
「あたりまえだ。君は、僕の娘なのだから」
「……」
その言葉に迷いは無く、私は思わず、胸が苦しくなった。
奥歯を噛んで、出て来ない言葉と、複雑な感情に耐えるしか無かった。
「恥ずかしい所を見せてしまったね。だけど……仕方が無いんだよ。僕はね、様々なものを生み出す力を持っているけれど、この魔法のリスクは、無い訳ではない」
「……リスク?」
「そうだ。創造魔法だって黒魔術だ。……僕のリスクはね、“僕を生んだ存在には、絶対に逆らえない”事なんだよ……」
「…………」
皮肉を帯びた口調だった。
それでいて、悲しげで、苦しそうだった。
「僕はね、母を人質にとられ、父である総帥に服従を誓っている。どちらを裏切る事も出来ない」
「……あなた」
ぞっと、寒気が襲った。
それは、私にとっても、人ごとではない立場のような気がして、胸が痛いと思った。
母の期待に応えたくて、母の為だけに頑張ってきた自分を、照らし合わせてしまう。
イスタルテのそれは、魔法のリスクを介した、より危険なものだ。
「皮肉なものだよ。遥か昔の、最初の僕はね、実の父に殺されそうになって、このメイデーアに逃げてきたというのに。また父に、縛られる」
「……」
「メイデーアはなぜ、この僕に、創造の資格と、このリスクを課したのだろう」
イスタルテはぼんやりと、どこでもない空中を見つめていた。
分からない。
なぜ彼女が、私にその話をしたのか。
自分の中の複雑な思いは、より色濃くなる。
だって、イスタルテは私に、弱点を知らせた事になる。