35:『 4 』シャトマ(サティマ)、追憶4。
約1000年前
東の大陸の大河添いの国ガレム王国
サティマ11歳
ガレムでの生活にも少しずつ慣れてきた。
「あ、おばあちゃん!」
私は平たいパンをいくつか買って、西の移民族の居住区のある通りを歩いていた。
以前、大司教様が様子を見ていた老婆が、いつものように家の外に出て大豆を干していた。
「おばあちゃん、大豆を一袋ちょうだい!」
「おや、お使いかね」
「ううん! このパンと大豆はね、お土産! 大司教様の所に持って行くの」
「まあそうかい。大司教様によろしく伝えておいておくれ。大司教様にはいつも助けられて、お世話になっているからねえ」
「大司教様は優しいわね」
「勿論だとも。あんなに素晴らしい人はこの世に二人と居ないねえ……」
老婆はそう言いながら、私に大豆を一袋手渡した。
大司教様の所で、大豆を粉にしてスープを作るのだ。
それを平たいパンと一緒に食べる。ここら辺では定番の食事だった。
お父様は昼のあいだ家を出て働きに行っている事が多く、私は大司教様の所で白魔術を教わっていたのだった。
「すまないねえ……ただの大豆なのに、こんなに沢山のお金を払ってもらって」
老婆は通常の二倍かかる値段を、申し訳無さそうにしていた。
二倍の値段とはいえほとんどが税金で、商売をしている人にとって、何も稼ぎが変わる訳ではない。
むしろ商売をするだけでも税金はかかるので、西の移民族たちはこの国に長く住んでいれば住んでいる程、お金が無かったりする。
「大丈夫よ。お父様はとっても凄いの。いつも沢山のお金を稼いでくるのよ。また、おばあちゃんの大豆を買いにくるわ!」
「ありがとうねえ」
老婆は閉じがちな目を一生懸命こちらに向けて、ニコリと微笑んだ。
その時、通りの路地裏の方から怒鳴り声が聞こえて、私は思わず飛び上がる。
おばあちゃんは今までの穏やかな表情を一変させ慌てて立ち上がり、そちらへ向かって行った。
私もついて行く。
「このやろっ、西の移民族の分際で俺たちに泥水をかけやがって!」
そこでは小さな少年が胸に豆売りの籠を持ったまま、大人の男二人に蹴り玉のようにして蹴られていた。
側には大きな水たまりがあり、おそらく少年はそれを蹴ってしまい、男に泥水をかけてしまったのだろう。
豆がそこら中に散らばっている。
豆屋の老婆は「ああっ」と悲鳴を上げて、おぼつかない足でその子供に寄って行く。
「おおお、お許しください。我が孫をお許しください」
老婆は理由も無くただただ謝りながら、その子供を庇うようにして抱き包む。
だけど男たちは決して、二人を蹴る事をやめなかった。怒っていると言うよりは、にやにやとして蹴る事を楽しんでいるかのようだ。
男たちに腕輪は無く、老婆と少年には西の移民族の証である腕輪がある。
西の移民族の住宅通りであるから、周囲には同じように腕輪をつけた者たちが多いが、誰もがそれを止めようとはしない。
「……」
こんな場面は、今までも良く見てきた。
そんなときお父様は「深く関わるな」と言って、私が何も考えずに止めに入ろうとするのをやめさせていた。
ここでは東の民が最優先で、彼らの目につけられ理不尽に暴力を振るわれたり、いじめられたりするのはよくある事だと、お父様は言う。
あのような東の民は、西の移民族を見下し暴力を振るう事で、優越感に浸り日頃の鬱憤を晴らしているのだ、と。
一度止めたくらいで、根本的な事は何も変わらないのだと言って、お父様は私に被害が及ばないように注意していた。
でも、それではここでただ見ている人たちと変わらない。
それに今はお父様はいない。
私はパンの包みを持ったまま、怒りを我慢できずに叫んだ。
「やめて!! どうしてそんなことをするの!?」
甲高い声に気がつき、男たちは「あっ?」と私の方を見下ろす。
「泥水をかけることより、人を蹴る方がよっぽど悪い事よ!!」
「なんだこのガキ。西の移民族のくせに生意気な奴だな……」
大柄の男が私の首元の服を掴んで持ち上げる。
私は軽々浮いた。
だけど私は、この男たちがちっとも怖くなかった。
「あなたたちっておかしいわよ。こんな事をして一体何が楽しいのよ!」
「うるせえガキだな!! ええ、西の移民族のくせに俺たちに逆らおうってのか!!」
私をつまみ上げていた大男は、そのまま私を地面に叩き付けるようにして投げた。
誰もがあちこちで、小さな悲鳴を上げた。当然私は全身を地面に叩き付けられ、とっても痛い思いをする。
お父様には人前での魔法を禁止されていたけれど、いざという時は身を守る為に使っても良いと言われていた。
だけど今がいざという時とは思えなかったし、私は怯む事無く立ち上がる。
私はとても頑丈な子供だった。
「痛くなんて無いわよっ。あなたたちは私みたいな小さな女の子一人、満足にいじめる事の出来ない木偶の棒よ。体が大きいだけの、ただのいじめっ子よ! 大人のくせに恥ずかしい人たち!!」
「な、なんだとこのくそガキ!!」
今まで私みたいな小さな女の子が、自分たちに対してこのように抵抗した事も、立ち上がって嫌みを言った事も無かったのだろう。
男たちは怯み、言葉につまり、しまいには拳を振り上げる。
私はその場から動かなかったから、大男に思い切り殴られ、吹っ飛ばされる。
持っていたパンが包みごと土壁にぶつかって、地面に落ちるのが見えた。
「お前たち!! 一体何をしている!!」
騒ぎを聞きつけて国の兵士たちがやってきた。
しかし、東の者が西の子供をいじめているだけだというのを知ると、特にたいした事でも無さそうにして、大男たちに「まあそこらへんにしとけ」とだけ言う。
むしろにやにやと嫌な笑みを浮かべて、土まみれの老婆とその孫の少年を見下ろしていた。
「おい、3−14……そう言えば、先月の税金を滞納しているのを分かっているだろうな」
「せ、先月はもう……支払いました……が」
老婆は座り込んだまま震える声で答える。
しかし一人の兵士は憤慨した様子で、手に持つ槍の棒の部分で老婆を叩く。
「うるさい! 俺たちの言う事に逆らうのか!! 今すぐに支払わなければ、“鉄の塔”送りだからな!!」
3−14とは、通りと家の番号だ。
そして兵士が口に出した“鉄の塔”とは、王宮の北側にある高い塔の事だ。
税金を滞納し続けた西の移民族の者、罪を犯した西の移民族の者はそこへ連れて行かれ、永遠に働かされるのだと聞いた。そこへ行き、帰ってきた者などいないらしい。
「とはいえ、こんな死に損ない、あの場所に行っても役に立つとは思えない」
「ばあさんの代わりに孫が行く事になるだろうな……ははは」
兵士たちの言葉に、豆屋の老婆は「それだけはおやめくださいまし」と懇願する。
一人の兵士が「ならば税金を支払え!」と叫び、老婆と子供を蹴り飛ばそうとした。私は殴られた後で立ち上がる事が出来ずに、ただ「やめて」と口を動かす。
そんな私の声を代弁するように「やめなさい」と通る声がして、兵士は振り下ろした足を何か硬いものにぶつけたようにして、ひっくり返った。
私には見える。老婆と少年は亀の甲らのようなものに守られていた。
私に覆い被さるようにしてできた影。
倒れたまま見上げた姿は、聖灰の大司教様のものだった。
彼は威厳と深見のある落ち着いた声で兵士たちに言いつける。
「いい加減にしろ。お前たちが税を余分に取り立て、自らの取り分にしているのは知っているぞ」
「誰だてめえ! どこぞの坊主がでしゃばってんじゃ……」
若い兵士が若いなりの勢いで大司教様につっかかっていきそうになったのを、壮年の兵士が慌てて止めて前に出て、引きつった笑みを見せて手をこねる。
「せ……聖灰の……大司教様……これはこれは、お見苦しい所をお見せ致しました」
「言い訳は結構。……知っているかい、お前たちの弱きを虐げる所業、ヴァビロフォスは全てご存知だ。決して見逃さないだろう」
「そ、そのような……めっそうも……」
「……」
「はは」
大司教様の無言の圧力に気圧され、兵士も、もともと居たチンピラたちも、皆青ざめて散るようにして去って行った。
周囲は大司教様がやってきてやっとホッとしたような声を上げて、老婆や少年を助け起こしたり、ざわざわと東の者や国の兵士への不満を口にしたりする。
「大丈夫ですか」
大司教様が倒れた私を抱き起こした。
「こんなのへっちゃらよ。少し、のびていただけよ」
「それはへっちゃらとは言いませんけどね、普通は」
「私よりも、おばあちゃんと、あの子を見てあげて大司教様。……きっととても辛い思いをしているはずよ」
私は一度へらっと笑って、教様に無事な様子を見せようとした。
だけど強ばった笑みは長続きせず、私は彼の司教服の、肩から斜めにかかる帯を掴んで、悔しさに顔を歪める。
「……」
「……姫?」
ボロボロと零れ落ちた涙に、大司教様はハッとして、複雑な表情で私を見つめる。
私は、悔しかったらしい。
自分の体の痛みなんてどうでも良い。理由を言葉にして並べ立てるのも難しい。
ただ、どうしようもなく悔しかった。
今までに感じた事の無い悔しさだった。
私の周囲を舞う虫の精霊たちが、僅かに紫色の鱗粉を巻きながら、私を慰めるようにして囁いた。
その小さな思いを、決して忘れてはいけないよ、と。
大司教様は私の望み通り、老婆とその孫の少年の怪我を魔法で治してから、私を連れて自宅へと戻った。
「ああ、これは酷い」
「……いひゃい」
「表面の傷は治りつつありますが……」
私は椅子に座って、向かい側から大司教様が怪我の様子を見てくれている。
殴られた頬が赤くふくれあがっていた。
もともとぐらぐらしていた乳歯も、数本折れていた。
全身を地面に叩き付けられ強打した痛みが、今になってやっと出てくる。
大司教様は私の頬に手を当て、治癒魔法を施し始めた。
「姫様だったから耐えられたのです。ただの子供がこんな仕打ちを受けたら、それこそもっと酷い怪我をしてしまいます」
「れも、らいしきょうさまがなおしてくらさるんれしょう?」
「姫、口から血が出てますので、しゃべらないでください」
やがて、痛みは引いていった。
口から、喉、背中、腕、腰、足……そんな風に、流れるように、痛みが足の指先から逃れて行く。
ものの一瞬の事だった。
体内の自己治癒力より強力で、すぐに治る。
「ふあっ。凄い。流石は大司教様ね!」
これほど簡単に治癒魔法を使える者を、私は知らない。お父様だってこうはいかないもの。
感嘆の声を上げた所、大司教様はホッとした様子で、微笑んだ。
「……姫にも、すぐに出来るようになります」
『おそらく、エストリアよりずっと凄い治癒魔法を使えるヨ』
横から割り込むようにして、タータが口を挟んだ。
飾り帽子を被った、私と変わらないくらいの年頃の女の子の姿だけど、本当は黒海亀の精霊。
大司教様はタータの持ってきた清潔な布を受け取り、私の口の端に流れている血を拭った。
「……」
そして大司教様は真面目な顔になり、いつものように私と視線を合わせる。
彼は必ず、大事な話をする時は誰とでも視線を同じ場所に合わせようとする。
どんなに弱く小さな者にも。タータにだって。
「姫……あなたは今日虐げられる西の移民族を救おうとして、現状の空しさを痛感し、悔しく思い、涙した。その思いは、今後のあなたを作る、大事なものになるでしょう……」
「大事な……もの?」
「はい。正直に申しますと、あのような光景はこの東の大陸には当たり前にあるものです。西の移民族はすでに慣れきっていて、自分が悪くなくとも謝り、ただ奪われる。誰も助けようとはしないし、助けてはくれない。例え“偽善者”に一時的に助けられたとしても、同じような事は何度も起きるし、終わる事はない……」
偽善者、と言う言葉だけを、大司教様は少し強調して言った。
まるで自らがそうなのだと言っているかのようだ。私にはそう思えた。
自分には何も変えられないのだ、と、皮肉を言っているかのようだ。
「……大司教様は、偽善者なの?」
「……」
ぽっと出てきた疑問だった。
偽善者と言う言葉の意味も、理解していたのかと言われたら良くわからないけれど。
大司教様は少しばかりどきっとした表情をしていた。とても珍しい表情だ。
色の違う双眼を見開いたまま、私を見つめる。
「大司教様は、みんなを助けているじゃない。豆屋のおばあちゃんだって、大司教様に沢山沢山助けられたって言っていたわ。あんな素晴らしい人ふたりと居ないって。お父様だって、大司教様の事を信用しているもの。みんな、大司教様が大好きなのよ? それってとても凄い事だわ」
「……姫」
大司教様は合わせていた視線を斜め下に流して、困ったように微笑んだ。
「そう言えば、“回収者”が言っていたな。姫には、心を悟られる、と」
「……?」
大司教様は呟くように続けた。
「……私は、自らの選んだ立場を、時に歯がゆく、生きづらく思う時があるのです」
「どうして?」
「“聖者”だからです。誰の模範でなければならない。……他人の為に全てを尽くし、奉仕することは決して苦しくない。だけど、それでは何も変えられないのだと、私はどこかで気づいてしまっている。何かを変えられる人間は、何も“善い事”だけを行っている訳ではないのだから」
「……」
「誰もが見て分かる“悪”のあった時代は、さぞ世界がまとまった事でしょう。逆に、今の時代は何が悪いもので、何が良いものなのか、分かりにくすぎる……」
聖灰の大司教様の言った“悪”というのが、千年前の黒魔王や紅魔女の事だと言うのは、なんとなく分かった。
その時代、魔王が存在しながら世界は今よりまだ分かりやすい形をしていたと、お父様が言っていたのを、私は少しだけ思い出したのだから。
この一件の後、私は精霊魔法の第六戒、第七戒を、難なく習得する。
しばらくガレムでの生活と白魔術の修行を続けるが、ある時大司教様が聖域の使者に呼ばれ、急ぎガレムを離れる。
寂しかったが、また戻ってきますよと大司教様に言われて、私は大司教様を見送った。
しかし、私たちがガレムで再会する事は無かった。
時代はやはり、予測の出来ない激動の中にあったのだ。
明日も更新予定です。
よろしくお願い致します。