19:ユリシス、癒しを求め疑問を得る。
僕はユリシス。
王都ミラドリードには、王宮と教国の二つの勢力があります。
南の大陸に古くからある聖域ヴァビロフォスを中心に、教会の領土ヴァベル教国が存在し、さらにその周囲には国立の魔導研究機関がいくつも連なっているのです。
王宮はヴァベル教国を保護する事を、もう遥か昔から義務づけられています。
国とは言え、敷地はそれほど大きくありません。
地球で言うヴァチカン市国の様なものです。
教国の人間は基本的に政治には関与してきませんが、王宮ですら頭の上がらない存在でもあります。
「おや殿下、また遊びにいらしたので」
「やあデルグスタ司教。今日は少し疲れそうな事があるから、先にこちらへ来たよ」
教国へ行くと、いつもデルグスタ司教が僕を迎えます。
彼は頭の上に(禿を隠す様に)小さな四角い帽を被ったこの教会の名高い司教様です。
僕はこのヴァベル教国に納められているあらゆる研究資料を読む事が好きでした。
ここには長い歴史の詳しい書物も、それを裏付ける考古学的遺物もあるのですから。でもきっと、表向きに置いてあるもの以外に、隠されている歴史の記録が、この教国の一番奥の“黒い扉”の向こう側にあるのだろうけれど。
そう。
教国の一番奥には、開かずの“黒い扉”があります。
奥が気になって覗こうとした事もあるけれど、やはりどこか恐れ多くてその先に進めずにいます。
この僕が恐れ多いと思う、それほどにこのヴァべル教国は大きな謎を抱え込んでいるのです。
「ユリシス〜ユリシスウウうう!!!」
僕が教会を訪れると、いつも会いにくる少女がいます。
僕より二つほど年下の、華奢な幼い少女です。
肩ほどで切りそろえたオリーブ色の髪と、大きな翡翠の色をした瞳を持っていて、名前をペルセリスと言います。
「ユリシスううううう!!」
「分かってる、分かってるって」
彼女は資料室で本を読む僕の目の前で一生懸命名を呼びます。
それがとても可愛らしく、かつていた妹のようにも思えます。
「ペルセリス、またお祈りをさぼっておられますな」
「だって、ユリシスが来たって聞いたから」
デルグスタ司教はこのようにお祈りをさぼってやってくるペルセリスに頭を抱えている様でしたが、彼女の活き活きとした表情を見ているとなんだかんだそれを許してしまうようです。
彼女は聖域の巫女です。
実を言えば、僕らが2000年前暴れていた頃にも、南の大陸には彼女のような“緑の巫女”が存在していました。ですから僕は、彼女にとてつもない懐かしさを感じるのでしょう。
「ペルセリス、ご機嫌いかが」
「ユリシスが来たからとってもいいよ」
彼女は僕が来ると、必ず重い扉の向こう側から会いにきます。
このヴァベル教国に、他に同じ年頃の子供がいないからでしょう。
天真爛漫な彼女は薄い布の揺れる巫女服を引きずって嬉しそうにやってくるのです。
「今日はずっとここに居れるの?」
「いや、午後のお茶の時間には王宮に戻らないと。叔父上にお呼ばれしているからね」
「ええ〜いいな〜私もユリシスとお茶したいのに〜」
「ははは……叔父上とのお茶会は、僕にとっては少し気の重い事だけどね」
無邪気にほっぺたを膨らませる彼女には、王宮にある様な醜いどす黒さがまるで感じられません。
本当に、聖域の清らかな空気の中育ってきた少女。
僕はペルセリスに会う度に、彼女も我々と同じ土俵の人間であるように感じるのです。
少なくとも、僕がこの世界に再び生を受け、生きてきた13年間の中で、もっとも気楽に話せる存在。
確かに会話の内容は大した事無いのですが、彼女の声にはどこか畏まってしまいそうな、特別な力が含まれている気がします。
「じゃあユリシス。今度は必ず私とお茶してちょうだい。ヴァベルのアイリスの砂糖菓子があるから」
「あ、うん。いいよ、約束だ」
まあ、ここの砂糖菓子は前にデルグスタ司教に頂いた事がありますが、何と言うか質素で淡白な味です。
きっと王宮のお菓子に慣れてしまっている人は、あれをおいしいとは思わないでしょうが、僕はどこか日本で食べた素朴な盆菓子に似ている気がしてなかなか気にいっています。
ペルセリスは大輪の花のような輝かしい笑顔を見せ、僕の座っている長椅子の隣にちょこんと座りました。
「今日は何を調べているの?」
「そうだねえ……。叔父上とお話しする時に必要な事だよ」
「それはいったいなあに?」
「戦争のことさ」
少し困ったように肩を竦ませ、僕は難しい微笑みを彼女に向けました。
きっとこの少女は戦争の事をほとんど分からずに居るでしょう。
まるで戦争の無い南の国で生まれ、この国が戦争を行わずに鎖国出来ている、その証のような立場で居るのだから。
「どうして? この国は戦争をしないよ? “緑の加護”があるよ」
「まあね。でも、時代は常に変わっていくから」
2000年前と変わらない聖域の役割を、僕は曖昧ながら覚えています。
ルスキア王国が戦争をしなくてすむ理由となるでしょう。
この国は、教国の“緑の加護”に守られているのです……
ペルセリスはやがてお祈りがあるからと司教に連れて行かれました。
泣きわめいていましたが、仕方ありません。
僕は彼女が居なくなった後、軽く息を吐いて、この聖域の静かな脈動を感じ取ります。
この脈動、聖域の持つ神聖な空気は、遥か昔から変わっていないようです。
あの頃はこのような立派な聖堂も研究機関もありませんでした。
教国として保護されている訳でもありませんでした。
そこにはただ、“聖域”としての意義、象徴があったにすぎないのです。
そして、それを祭る緑の巫女がいただけ。
それでも、この教国には謎が多い。
黒い扉の向こう側に、いったい何が隠されているのでしょうか。