39:マキア(マキリエ)、追憶10。
3話連続で更新しております。ご注意ください。
約2000年前
北の大陸・アイズモア
マキリエ:200歳〜
「ふーん……また奥さん娶ったの? 最近、歳とったのか大人しくしていたくせに」
ポカンとして、片口を上げ感情のこもっていない笑みを浮かべていました。
私が内心、勇者に対し恐れを抱く中、黒魔王はこの歳になってまた新しい奥さんを娶ったんだとか、そんな惚気話を私にしてきやがるのです。
そう言えばさっき、勇者一行も言っていたっけ。白賢者も若い奥さんと息子の所に帰っているとか何とか。
何よみんなして、一人身の私を馬鹿にしているの?
いいえ、私が勝手に惨めだと思っているだけです。
黒魔王の新しい奥さん、ヘレーナって言うんですって。
「……変わった娘だ。自分の記憶が無く、名も知らない」
「まーたそんな、薄幸の美少女みたいな」
「そうでもない。彼女は、自分を不幸とは思ってない様だからな。それに……俺の事を恐れるでも敬うでも無い」
「………」
今までも、黒魔王には妻が居ました。それも何人も。
だから、こんな事慣れっこなはずなのに、私は黒魔王の表情や口ぶりから、ふっと気がついてしまいました。
何だか、今までとは違うんじゃ無いの?
「とにかく、変わった空気のある、不思議な娘だよ」
「………あんた」
瞬間、私はぐわっと込み上げる感情に、一時驚きを隠せず、また後からやってくる少しばかりの焦りの感情に眉を動かしました。
だけど堪えます。
「緩んだ表情をして、お気楽なものね。私がここずっと来れなくても、ぜんぜん退屈な事なんて無かった様だわ。こちとら勇者一行に行く手を阻まれてしまっていたのに」
「……そうだったのか。いや、お前がなかなかやってこないのは気にかかっていたぞ」
「………」
私は、とても拗ねた表情をしていたでしょうね。
だって、私は黒魔王に会いたくって、恐ろしい勇者を振り払ってここまでやってきたのに、当の黒魔王は新しい奥さんに夢中で、私の事なんてきっと……
私は懐から小刀を取り出し、手のひらを斬りつけました。
この時の痛みは、何か別の痛みにかき消されてしまって、特に感じられませんでした。じわじわ溢れてくる血を、ぐっと握りしめます。
「さあ、もう良いから戦いましょうよ。お互い、いつ死ぬとも限らないのだし」
「……どういう事だ」
「勇者よ。あいつ、最近凄く強くなっているわ。……私、最初は遊びのつもりだったのに、今ではあいつらを簡単に倒せるなんて、思えないもの……。それは同時に、私たちがいつか倒されるかもしれないってことよ」
黒魔王にも、私の焦りを、恐れを知って欲しかったのだけど、彼はまだ少し余裕ぶっている。
勇者の本当の恐ろしさに、気がついていないわ。
「別に……あんたがどんな女を妻にしようが、今更なのでどうでも良い事だけど、気は引き締めてもらわないとこっちが困るわよ」
私は髪の毛を一本引き抜いて、それを指に巻き付け軽く口付けました。
これは私が最近編み出した魔法。
黒魔王も私の魔法に警戒して、すぐに魔導要塞に構築に移りましたが、その時にはすでに遅いのです。
「甘いわ!! あんたは魔導要塞を構築する前に、私の魔法で破壊されるのよ!!」
自分の髪と唾液を情報として、血を魔導要塞に垂らす事で、細かい術式がウイルスの様に魔導要塞内を浸食し腐敗させて行くのです。
正確な術式が全ての魔導要塞にとって、このウイルスは厄介でしょうから。
黒魔王はこの魔法を「凄い」と言って、驚いてくれました。
頑張って編み出したかいがあり、私は少し嬉しくなりました。
しかしあまりにその力が強すぎて、魔導要塞を破壊してしまっても、紅魔女の血は現実世界の森まで腐らせ始めたようです。
黒魔王は呆れた様子で「おいおい」と。
私は慌てましたが、破壊の魔法以外をしらない魔女ですから、どうする事も出来ず。
「きゃーっ、黒魔王様!!」
どこかからか、悲鳴が聞こえました。
その悲鳴を聞いた瞬間、黒魔王はすぐに顔をあげ、血相を変えました。
「……?」
今まで見た事も無い反応の早さで、声の人物を捜すのです。
「黒魔王様、黒魔王様ー!!」
「ヘレーナ!!」
森の腐敗に巻き込まれそうになっていた、薄い金髪の美しい少女が、手にバスケットを持って黒魔王の名を叫んでいました。黒魔王はその少女を救い、安堵の表情を浮かべます。
彼女が、黒魔王の最後の妻、ヘレーナでした。
「何でこんな所まで来たと言うんだ。民は紅魔女と俺が戦闘中であるなら、誰も近寄らないぞ!!」
「だって……だって黒魔王様、私を置いて行ってしまったんですもの。……それに、もしかしてお腹が空いているかもしれないと思ったんです」
「………お前な」
腐敗してしまった森から逃れ、黒魔王はヘレーナを叱っていました。
しかし、見てすぐ分かる溺愛っぷりで、私は会話に加わる事も出来ず、側に居ながらポツンとしていました。
とりあえず足下の小石を、靴で踏んだり小さく転がしたりして。
「あら、そちらが紅魔女様ですか? 噂通り、すっごく綺麗な人……」
不意に、ヘレーナが私に声をかけてきました。
俯きがちだったけれど、顔を上げ、彼女と顔を合わせます。
ヘレーナは私を綺麗な人と言ったけれど、私にはヘレーナの真っ白な光を纏った様な美しさが、とても眩しかったのです。清楚で清純なその空気を、きっと黒魔王は好んだのでしょう。
「ババアだけどな」
黒魔王が冗談と言う名の嫌味をふっかけてきました。
普段の私なら「あんただってじじいでしょう!! 良い歳して若い奥さん娶って、この変態じじい!!」と言う所ですが、そんな風に言い返せる気力は既に無く「まあね」と大敗北宣言。
流石に私の態度を不信に思ったのか、黒魔王は妙な表情をしていました。
「まあ……。あら、手を怪我されていますよ?」
何も知らない無垢なヘレーナは、私の手からだらだらと流れる血を見て、心配した様子でその手に触れようとしました。
その瞬間、私はとっさに叫びました。
「駄目よっ!!」
「駄目だ!!」
同じ様に黒魔王も叫んでいました。彼は焦った様子で私からヘレーナを引き離し、彼女を自分の方へ寄せました。
何となく、何となくこの時、胸がチクリと痛くなって、乾いた唇を一度強く結びました。
「駄目だ、ヘレーナ。俺や紅魔女は、お前とは違うんだ……。紅魔女の血は、森をあのように変えてしまうほどの力を持っている。脆いお前なんて……あっという間に……」
「黒魔王様? し、しかし……黒魔王様。あの方は怪我を……」
黒魔王の言葉に対し、ヘレーナは少し戸惑った様子でいました。
彼女はとても優しい娘です。
「平気よ、こんなの」
私は抑揚の無い口調で一言そう言って、血に濡れた自分の手を見つめました。
私の血は、ヘレーナを前にして、やはりとても凶悪で醜いものだと思わされます。
「私……もう帰るわ」
とてもここに居られないと思って、三角帽子のつばを持ってグッと深く頭にかぶせ、彼らに背中を向けました。
「もう帰るのか? 久々に来たんだ……城へ寄って行けば良い」
「良いわよ別に。お邪魔そうだし……私、あなたの大切な人を傷つけてはいけないもの」
「……マキリエ」
黒魔王は久々にマキリエと呼んだので、私は自分自身の名に驚き、少しだけ彼を振り返りました。その時、私はどんな表情をしていたのでしょう。
黒魔王が少しだけ、驚いた瞳をしていました。
「おい、マキリエ。………また遊びたくなったら……アイズモアへ来るといい………。いつでも相手になろう」
だからか、彼は私を気遣う様、そう言ってくれました。
今までなら、そう言ってもらえるだけでとても嬉しくて、なら次はいつ来ようかしらと考えてしまうのに、この時は何故か次があるように思えず、私は黒魔王とヘレーナを見比べました。
そして、視線を落とします。
ここに私の居場所は、既にここには無いと思って。
黒魔王はもう、対等な戦いを求めては居ない。今一番大事なのは、きっとこのヘレーナなのだろう、と。
「もう……来ないわ」
「……?」
彼はとても不可解だと言う表情でした。
「……マキリエ?」
「……ふふ、だって……ここまで来るのって、結構大変なんだもの。今は勇者が私たちを狙っているでしょう? あいつ……そろそろ本気で、私たちを殺そうとするわよ」
クスクス笑う私に、黒魔王はいっそう眉を寄せていました。
私は瞳を細め、帽子をより深くかぶって、斜め下に見える真っ白な雪だけを見つめます。
「次があるかなんて、もう分からないもの」
楽しい宴は、既に終わってしまっているのだと、気がついていない訳ではありません。
そしてそれに未練があり、捕われているのは私だけなのだと言う事も。ここ100年の魔導大戦は、私にとってあまりに楽しい生き甲斐だったけれど、すでに白賢者にとっても、黒魔王にとっても、そうでは無くなってしまっているのです。
私はそれが、とても寂しい。
「……そうか」
黒魔王は少しの間私の様子を伺っていましたが、あっさりと納得して、それだけ答えました。
まあ、そう言われるのは分かっていました。
分かっていたのに肩を落とし、私は勝手に傷ついて、目を伏せたままドレスを翻し、その場を去りました。
いつも、おめかしに時間をかけて、このドレスだって色々考えて着て来たけれど、いつもの事ながら何の意味も無かったわね。鏡の前でワクワクした様子で、ドレスや帽子を選ぶ自分を思い出して、私は滑稽に思いました。
自分に対する皮肉な笑みが浮かんで来たかと思ったら、ドッと背中から襲ってくる虚無感。
とぼとぼ雪原を降りて行くその足取りは、思いの外しっかりしたものでしたが、まだ彼が追いかけて来てくれるのではという期待感は微塵も無く、そしてその通り、黒魔王は私を追いかけては来ませんでした。
それは、とても思い出される光景です。
私は前にも、こうやって一人、寂しい思いをしながら丘を下って行った気がします。
あの時は体中、大怪我を負っていたけれど、今日は何て事ありません。手のひらをちょっと切っただけです。だけど、あの時よりずっと、酷い顔をしていたでしょう。
「……」
見覚えのある大きなモミの樹がありました。あの時も、このモミの樹の根元に座り込んで休憩したっけ。
私は特に疲れていた訳ではないけれど、何だか歩き続けられる気もしないので、思うままにその樹の根元に座り込みました。ちょこんと、小さく膝折って、胸元に寄せ抱え。
「……馬鹿ね、私って」
100年、いえ、それよりもっと……私は良い夢を見せてもらったのでしょう。
いつかきっと、黒魔王は私も側においてくれる。特別な一人でなくて良いから。
そんな風に。
だけど、黒魔王は……トルクは、特別な一人を見つけてしまったのです。
今までの妻たちとは、全然違うとすぐに分かりました。
ヘレーナは、彼にとっての最愛。きっともう、ヘレーナ以外を愛する事も、救う事も無いでしょう。
私は帽子の両つばを掴んで、出来るだけ深くかぶって、両耳を塞ぐほどそのつばを折り曲げ、体を小さく小さくしていました。
何も聞きたくない、何も見たくない、何も考えたくない。
目の前の世界は真っ白で静寂の中にあるのに、頭の中を、トルクの声や表情が、初めて私の家に来てくれた時の大事な思い出まで掘り起こして巡り巡るのです。
いつかまた、私の所まで来てくれる事があるかもしれない。それなら良いな、とても嬉しいわと、恋する乙女の様な願いを、心のどこかに仕舞っていました。
結局あれから、トルクが私の家まで来てくれた事は一度も無かったけれど。
「……っ」
じわり、じわりと、目の前が曇って、目元が熱くなっていきました。
折った膝に鼻を押し当て、溢れる涙の受け皿の様にして。
初恋を大事に大事にして、100年以上思っても、一瞬も好きになってもらえなかった自分がとてもとても情けない。
諦めなければならない。黒魔王を、やっと今、私は諦める事が出来るのだ。
だけど、そしたらまた、一人になっちゃう。
そしてきっと、私は、誰に助けられる事も悲しまれる事も無く、勇者に殺されるんだ。
それともこれから、私はまた一人で、あの場所で、何の生き甲斐も無いまま長い時を生きていくのかな……
考えるだけで込み上げてくる言い様の無い恐れと、恋を諦めなければならない痛みに胸を締め付けられ、私はただその場で惨めに震え、自分で自分を守るように、帽子を掴んで頭を垂れ、小さくなっていました。
私だけが、私を守ってあげられる。
だけどそれは、私の側に居てくれる人など一人として居ないのだと言う事と、同じ意味でした。