*トール、まどろむ早春のサイレンと共に。
デリアフィールドに帰郷してから、俺はほぼ毎日母親の居る病院に通った。
母は痩せ細り、別人の様で、でも俺が帰ってくるととても優しい笑みを浮かべて迎えてくれた。
「母さん……もうすぐ春だ。デリアフィールドの春は美しいよ。アーモンドの花が満開に咲いて」
「そうねえ。トール……春になったら、また王宮へ戻ってしまうの?」
「………」
母は寂しそうにしていた。
いつ亡くなってもおかしくないと、医者に言われていた。
「……大丈夫。母さん、俺、決めたんだ。何もかも終わったら、またデリアフィールドに帰って来ようって……。そしたら、俺はずっと母さんの側に居るから……」
「トール……」
母さんは少しだけ悲しそうに笑うと、安心した様子で頷く。
そして、再び俺を見た。
「あなた……何だかまっすぐな瞳をする様になったわね」
「………え?」
「ふふ……子供の時は……そう、子供のくせに悟った様な虚ろな瞳をしていたのに、今は何だか生まれ変わった様……」
「……」
「何をしたいのか、決まったの?」
母は何もかもお見通しである。
俺はどれほど長い記憶を持とうとも、俺を産んでくれた母には敵わないのだろう。
「……うん。決めたんだ、母さん。俺……ずっとマキアを守って、マキアの騎士で居るんだ。今までと何も変わらないと思うだろう? でも、全然違うんだよ……言葉で説明するのは、とても難しいんだけど……」
「ふふ、良いのよ。ちゃんと分かっているから」
「……」
「嬉しいわ。あなたがこれからも、一人じゃないのなら……。母さんはずっと信じていますからね、あなたの、選んだ道を……」
「………母さん」
ずっと信じている。
俺にそう言ってくれた“母”は、目の前の“母さん”だけだった。
俺は母さんに、この一年、王宮で起こった事を沢山話した。動けない母さんは俺と会話する事だけが楽しみな様で、毎日毎日、朝から俺を待っていた。時には病院の看護師にお菓子を用意してもらって、俺を待っていた時もある。
もう子供じゃないのに……。
でも、母さんにとって俺は、東の大陸に居た時の幼い子供と変わらないのかもしれない。
いつまでもいつまでも、子供。
「トール……私の可愛いトール」
もう18になる大の男の頭を撫で、儚気な笑みを浮かべる人。彼女の人生は幸薄かった。
「………母さん?」
ある日の朝、母の病室で、穏やかな顔で永遠の眠りについている母を見つけた。
ああ、死んでしまったのだ。そう意識した時は驚く程落ち着いていた。
ただただ、小さく衰えてしまった、もう目を覚まさぬ母の髪を撫で、布団から出ていた手を取って、握った。
か弱い人であったが、最後まで俺を可愛い息子だと言ってくれた。
俺が訪れるのを待ってくれていた。
俺がオディリール家や王宮に勤めている時は、決して会いに来いなんて言わない人だったのに。
死を予感していたからか、俺に会いたがっていた。俺もそれに気がついていたから、毎日病院に通った。
良かった。
最後に母と共に過ごせて、良かった。
母を穏やかに見送る事ができて良かった。
その気持ちしか無かった。
「……うっ……うう……」
マキアは泣いていた。俺が泣いていないのに、マキアが号泣してしまった。毎日、俺と共に病院にやってくるのに、少し顔を出すだけで後はそこらをぶらぶらして、俺と母に、二人きりの時間を作ってくれていた。
「本当に……眠る様に死んでしまったのね」
「ああ。もうほとんど治療もしていなかったから、この一ヶ月は苦しむ事も無く、きっと楽に、眠っているうちに……死んでしまったんだろうって話だ。良かったよ……」
「あんた……」
マキアと俺は、静かな病室で、母の死を悼んだ。
俺が落ち着いていた分、マキアが泣いていたけれど。
この日はいつもより少し温かい、春を感じさせる日和であった。
その後、御館様が葬式の手配してくれ、デリアフィールドの教会の墓地に、母の亡骸は埋葬された。
母の短い一生は終わってしまったが、こんな弱々しい人が最後に行き着いた場所が、生まれた東の大陸から随分遠い、南の大陸の穏やかな土地であった事は、少しだけ救いである。
父が俺と母をこの大陸へ渡らせてくれた。
今度は母が、父の元へ旅立ったのだ。
「ねえ、あんた大丈夫? 一人で寝れる?」
「寝れるわ。子供か俺は」
「だってあんた……。あ、そうだ。何か美味しいものでも食べましょうよ」
「こんな夜中に何か食うのか? お前凄いな……」
「だ、だって……」
マキアは心配性だ。教会から帰って来て、何やら慌ただしくして一日を終えた俺を気遣って、構ってくる。
もう寝ようかと思っていたこんな夜に、桃色のネグリジェ姿で、わざわざ部屋まで様子を見に来るんだから相当だ。昔からこう言うヤツだけど。
「あんたって凄いわねえ。……私だったら、ぜったい悲しくて仕方が無いわ。お母様がこの世から居なくなるなんて、考えられないもの……」
「俺は……心の準備はずっと出来ていたからな……」
「………そう」
淡々と答える俺を見て、マキアは小さく頷いた。
「そうよね。あんたなら……大丈夫よね。私ったら自分が眠れそうにないからって、あんたもそうなんじゃないかと思ってしまったわ。……おやすみ、トール」
「ああ、おやすみ」
俺は一度マキアの頭をぽんぽんと撫で、小さく笑った。
『来ないで!! ……来るな、悪魔の子……っ。トルクに化けて、アレクまで食べてしまうと言うのか!!』
『何でいつもいつもこんな事になるのよ……っ。全部全部全部、私が悪いみたいに…っ』
『……母さんはずっと信じていますからね、あなたの、選んだ道を……』
ふわり……
窓辺のレースのカーテンが、俺の頬をかすめた。
俺はいくつもの言葉を何度となく繰り返す、サイレンの様な夢を見ていた。
柔らかな感触と部屋に入って来た生温い風が、妙に心地よくて、俺はゆっくりと目を覚ましたのだ。
「………」
そして一時、ぼーっと天井を見つめていた。
母が死んでから、慌ただしい一日であった。この日の為に、俺はデリアフィールドに帰っていたと言うのに、忙しさは俺に何かを考えさせる暇も与えず、ただただ、疲れだけを積み上げた。
「………」
疲れたのなら、ぐっすり寝れば良いのに。寝ることが出来れば良いのに。
俺はさっきからずっと、頭の中をグルグルと巡る、“3人の母”の言葉のせいで、眉間にしわを寄せ小さく唸った。
空間魔術師の性であるが、俺は記憶を立体的な映像として脳内に保管している。
情報は正確で、時に整理を必要とする。今がその時なのか。脳内でせっせと、“母親”というカテゴリーで、記憶の整理しているのだ。
何で?
これからこの情報が必要なのか、必要じゃないのか、順位をつける為に。
この作業は相当な疲労感を伴う。でも今じゃなければならないのだろう。
俺は眉間に手を当て、目と目の間を強く摘んだ。
そうでなければ、多すぎる母の言葉を、全てまともに振り返ってしまうから。
無数にある、母親の俺に対する嫌悪感や憎悪、恐怖は、2000年前のトルク、地球の透を襲う。
だけど、多くの苦い記憶の最後には、必ず“トールの母さん”の言葉が浮かんでくる。
サイレンの様に鳴り響く訳でなく、それは子守唄の様にふわりとした声で、何よりも優先的だと言う様に浮かび上がってくるのだ。
『……母さんはずっと信じていますからね、あなたの、選んだ道を……』
もう、聞く事の無い母の声。昨日まであの人は生きていた。
あの人の、白く柔かい微笑みと、その言葉だけが、俺の中で鳴り続けるサイレンを止めてくれるのだ。
「………」
俺は強く強く、目と目の間を摘んだ。それに意味はあったのか知らない。痛みがあれば、じわじわと上ってくるその強い感情を抑えられると思っていた。
だけど、そんな事をしても耐えられなかった。
「……………」
声を上げる事も無く、ただただ静かに、俺は一筋涙を流した。
大きく息を吸って、柔らかい春風の流れに合わせて、それを吐き出すだけ。言葉にならない、初めて得た悲しみに納得するために。
初めて得た、母の死と言う大きな悲しみを、受け入れる為に。
俺の脳内の記憶が、整理を続ける。
この時代、俺はもう“母”と言う存在を特別意識する事は無くなるだろう。その存在が、もう居なくなったのだから。
だから、引きずり出していた他の時代の母の記憶も、もう特別必要になる事も無いだろうと箱に詰めて鍵をかける。ばたんばたんと順位をつけられた記憶の下位に仕舞っていく。そう、下位に。
それは正しい事だった。
俺にはこれから、もっともっと必要になる記憶があるはずだから。必要の無い“情報”は、奥底に仕舞ってしまうのが最も効率が良い。
「………ダメだ」
俺は小さく呟いた。
トルクの母の記憶も、透の母の記憶も、どちらももう奥底に追いやったって構わない。
だけど、俺の……トールの母だけはやめてくれ。
悲しみは邪魔かもしれない。効率の悪い感情かもしれない。
だけど、どんなに悲しくても、母さんの記憶だけは手前に置いておいてくれ。決して、ただの情報だと処理しないでくれ。
下位なんかじゃない。
母さんの存在は、決して下位なんかじゃなかった。
「………」
俺は、18年前、このメイデーアに再び転生を果たした。
あの時の赤ん坊の視界が、不意に思い出される。
それはとてもぼんやりとした視界。
だけど、母さんの腕だと確信のある温もりに抱かれ、ああ、何だか懐かしい匂いがするなととりとめも無く考えていた……生後間もない赤ん坊の、ぼんやりとした視界。
今もそうだ。
ぼんやりとして、何も見えない。