45:トール(トルク)、追憶・終。
なぜ、と言う気持ちは、死への恐怖以上に気分の悪いものだったのを覚えている。
これ以上無いほどの虚しさと、絶望感。
こんな惨めな死に方をするのか、俺は……。
辺りにちりちりと、魔導要塞を構築しようとした跡があり、その空間の歪みの塵のようなものが残っている。
「………ヘレーナ……」
俺はいったい、何を見落としていたと言うのだろう。
彼女の何を……。
いや、何も知らなかった。彼女の事を、何一つ知らなかったし、彼女も自分の記憶が無いのを、気にしている風でもなかった。
だからそこに触れては来なかった。
ヘレーナは……いや、俺の愛したあの娘は……本当は何者であったと言うのか。
「……トルク……トルク……っ!!」
俺を呼ぶ、高い声が聞こえた。
遠のいていた意識が、その声によって少しの間引き戻される。
「どうしたって言うのよ!! あ……あんたがこんな事になるなんて……っ!!」
「………紅魔女……」
久々に見た、赤毛の魔女。
俺の姿を見て、これ以上無いほど青ざめ、瞳に涙を溜めている。
「はは……久々だな……。でも、もう駄目だ。俺は……死ぬ様だ」
「……どうしてよ……っ。あんたがあいつに……勇者に負けたとでも言うの!!」
「…………」
実際、勇者と戦った訳では無い。
剣を交える事すらしていない。
しかし、俺が奴に負けたのだと言う事は、確かな事実であった。ヘレーナが勇者と共に去っていったと言う事が、なによりその証になる。
「ヘレーナが……俺を刺したのだ……」
「……え……?」
紅魔女は驚いていた。そして、とても悲しそうな顔をして、傷を負って地に伏せる俺の上半身を抱え、傷の様子を見ていた。
「駄目だ……治癒魔法が働かないんだ……」
「……どうして……っ」
「…………」
分からない。
あの、ヘレーナの持っていた短剣に何か秘密はありそうだが、それを確かめる術は無い。
「嫌よ!! あんたまで死んだら、私……本当に一人になっちゃうじゃない……っ!! こんな世界で、私だけが……私だけがたった一人、こんな力を持っていたって……っ」
紅魔女は言葉に詰まらせながら、泣きながら訴えた。
俺たちは、この世界の誰より、ずっと高みの力を持って生まれてしまったがゆえに、孤独であった。
本当に自分の事を理解出来るものは、同じ力を持った者だけ。
同格の者だけ。
白賢者も死んでしまって、俺まで死んでしまったら、この世界に彼女だけが、異端の力を持つ者として残されてしまう。
どれほどの恐怖であっただろうか。
「すまない……」
俺はただ、そう謝るしか出来なかった。
俺たち三人の、決着のつかなかった長い長い戦いは、どうやらお前の勝ちのようだ、紅魔女。
ああ……俺たちの時代の終わりが近づいている。
魔法の栄えた、混沌とした時代……それでも均衡のとれた時代。
それらが、脆く崩れ去っていく。
死の間際、やはり俺はヘレーナの事が気になった。
彼女はこれから、どう生きていくのだろう。
「……ヘレーナ……どうして……」
「……トルク……」
「マキリエ……すまない。俺は勇者に破れた……っ。ヘレーナまで……俺を裏切って……」
「………」
情けない事に、俺は確かに勇者に負けたのだ。
一番大切なものを奪われ、これ以上にない絶望を与えられ。
それでもヘレーナを恨みきれない。それが一番情けない。
今でも彼女を愛し、彼女もきっと俺を愛してくれているのだと思っている。
紅魔女は、息も絶え絶えな俺を、その震える手で抱きしめた。
彼女は俺の絶望を理解し、一身に受け止めたのだ。
「大丈夫。あなたの愛した……ヘレーナじゃない。きっと、あなたを裏切ったんじゃないわ……。私が、勇者からあの子を、きっと取り戻してあげるから。助けてあげるから……っ」
「………マキリエ……」
その言葉に、俺がどれほど救われたか。
冷たい雪原の、ただただ真っ白の上の点。俺と紅魔女だけの、静かな夜明け。
暗い空に、朝日のうっすらとした明るみが、徐々に見え始めた時間。
澄んだ空気が、実に清々しかった。
「ああ……頼む、マキリエ」
そして俺は、一筋涙を流し、彼女に頼んだ。
頼んでしまったのだ。
その瞬間の、本当に僅かな表情の変化に気づく事無く。彼女の、涙の意味も知らずに。
なんて残酷な願いを押し付けてしまったのだろう。
そして俺は、自分の作った国の、真っ白な雪原の上で、息絶えた。
「…………」
真っ暗な精神世界の、鏡の中の記憶。
俺はそれを覗いていた。
自分の記憶だと言うのに、まるで一つの映画でも見ていたかのような、他人の視点で居る。
俺は泣いていた。
何で?
自分が馬鹿すぎて。
「…………マキリエ……っ」
口から出て来た名前は、ヘレーナでも勇者でも無く、紅魔女マキリエだった。
この回想の中で、誰が一番馬鹿で、誰が一番愚かで、誰が一番哀れであったのか。
長い時間を経て、ヘレーナへの愛も薄れてしまっている今の状況で、客観的にこの記憶を見た後、真っ先に思い知ったのは、自分がマキリエに対して、どれほど残酷な事をして来たかと言う事だった。
「………」
鏡の中の回想は、まだ終わっていないようであった。
しかしそれはおかしい。
俺は既に死んでいるのだから、ここから先の事は知らないはずだ。
マキリエは一時黒魔王の遺体を抱きしめていたが、惜しむ様に地に降ろし、寝かせる。
そして、黒魔王の頬を手で包むと、震える唇でそっと口づけた。
『さよなら……さよなら……っ、トルク……』
ふらつく足取りで立ち上がり、空を仰ぐ。
頬に伝う涙、吐く息の白さ、悲痛な声。それらが全て、紅魔女のものであり、ずっと強い強いと思っていた彼女の、今にも崩れてしまいそうな姿でもある。
彼女は大声を上げ泣いていた。静かな雪の上で、ただただ、一人で。
たまったものじゃない。
鏡越しにそれを見ている俺も、込み上げてくるものがあった。
マキリエは泣きながら、黒魔王の側に落ちていた黒い剣を拾い上げる。
そう、それは“時空王の権威”である。
「………マキリエ……」
彼女は、黒魔王の剣を握っていた。
本来それは不可能な事であり、俺以外の者が触れれば、たちまち肉体が削られていく。
マキリエも手を真っ赤にしていた。握った所から、皮膚を削がれ、血を流し、この剣のリスクを負っているのだ。
『いいわよ……私の血なんて、いくらでもくれてやるから………。でも、お願いよ……私に、あいつを倒せる力を…………っ、トルク……っ!!』
彼女はそう言って、一度瞳を閉じた後、再び開いた。
その瞳は、今までの自由奔放な紅魔女のものではなく、どこか色味の無い、それでも澱みの無い、強く悲しいもの。
「駄目だ……」
俺は鏡に縋った。
黒魔王の遺体を一度見て、もう振り返らず雪山を降りていく、彼女の姿に向かって叫ぶ。
「駄目だ……マキリエ……っ!!」
彼女の姿の、何と悲しい事。ただただ、俺との約束を果たすために、全ての心を凍り付かせたような表情。
俺の剣を持って、真っ赤な手をした彼女の背後には、凄まじい魔力の流れが見える。
まさに魔王。
俺が彼女を、後に世界の大罪人にしてしまった。
「…………ごめん……っ、マキリエ…………マキア……っ」
俺はその場に膝をつき、彼女の名を呟き、何もかもを後悔した。
そしてふと思い出す。
以前、ユリシスと話していた事だ。
“君を絶対に裏切らない人は誰だい?”
ユリシスは俺とマキアの関係について、その一言で言い切った。
きっとユリシスは何となく言ってのけたのだろうが、今なら、彼のその言葉の意味が良く分かる。
その人とは、今も昔も、紅魔女であったのに。
「………ごめん……っ、マキア……」
俺は馬鹿だ。大馬鹿やろう過ぎて、悔しくなる。
今やっと、彼女の色々な言葉が、色々な態度が、一つの結論に繋がり始める。
紅魔女は、黒魔王を愛していたのだ。
でも黒魔王は自らの妙な信念から、その事に気づかない様にしていた。強いものに、救いはいらないのだと。
そのせいで、何度も何度も、何度も紅魔女を傷つけ、そのうちに彼女は黒魔王を諦めた。
それでも黒魔王の側に居たいから、分かり合った友人のような素振りを見せ、自分の心をひたむきに隠した。
当たり前だ。
紅魔女には、黒魔王を諦めるだけの、充分なきっかけと時間があったのだから。
「…………マキア………っ」
精神空間の暗い世界の中で、俺は地に伏せ、あらゆる後悔の念に捕われた。
そして紅魔女の事を思い、締め付けられるような胸の痛みを感じていた時、足下にきらきらとした、真っ赤な何かが伝って来たのに気がついた。
「これは…………血……?」
それに気がついた瞬間、真っ暗な世界は一気に色を変え、俺は反転するような感覚に襲われた。
真っ赤な、温かい光に包まれていく。
「……―ル……、トールっ!!」
どこからか、俺を呼ぶ声がする。
よく知る声だ。そして、今聞くと泣きそうになる声。
「トール、目を覚ましなさい!!」
ハッと、一気に現実世界に連れ戻された、地に足着いた感覚。どしりと、肉体の重みを感じる。
ふわふわと曖昧な精神世界とは、全く違う。
目の前にはマキアが居て、俺を見下ろしていた。
「トール君……っ、良かった、目を覚ましたんだね」
「マキア嬢の魔法は、凄いですね」
ユリシスとバロンドット卿が口々にそう言うのが聞こえる。
「あんた、アルフレード王子の洗脳を解こうとして、自分が魔法に飲み込まれたんだって? あはは、あんた最近、こんなのばっかりね」
「マキちゃんがね、血を君に注いだんだ。結構無茶な事をしたよね」
「でもほら、成功したでしょう? あんた私に、感謝しないといけないのよトール」
相変わらず憎らしい笑みを浮かべ、マキアがそんな事を言う。状況は良く分からない。
だけど俺は、彼女のそんな笑みを見て、どうしようもなく泣きそうになった。
いつもそうだ。
マキアは俺を裏切らない。絶対に、助けようとする。
救おうとする。
あんなに酷い事をして来た俺の側に、いまでもずっと居てくれる。
でも決して、ある一線から入ってこようとはしない。報われようとしない。
俺がそうさせてしまったのだ。
「…………っ」
俺は起き上がって、マキアを抱きしめた。
今まで彼女を、こうやって抱きしめた事なんて無かった。
だけど今は、そうせずにはいられなかったのだ。
「え……、は? どうしたのトール……」
「マキア……っ、ごめんマキア……っ」
「………?」
マキアは驚いていた。
俺が泣きながら、強く彼女を抱きしめたのだから当然だ。
ユリシスもバロンドット卿も、何も言えずにポカンとしている。
「…………どうしたのトール……? 何よ、そんなに怖い目にあったの? はいはい、よしよし……。全く情けないったら無いわねえ」
マキアは笑いを堪えつつ、俺の背をポンポンと撫でた。
だけど俺は何と言われようと、彼女を一時離さなかった。
マキア、お前はもう遠い昔に、“俺”の事を諦めてしまった様だけど、俺は転生を繰り返してやっと、あの時の紅魔女の思いに気がついたんだ。
記憶の何もかもを忘れる事なんて出来なくても、それを乗り越え、ここから始められる何かはあるだろうか。
そのチャンスを、お前は与えてくれるだろうか。
俺は、長く苦い記憶を、こんなに思い出したというのに、勇者やヘレーナの事を考える余地がない。
ただこの時にあったのは、マキアへの、まだ形にならない思いだけ。
言葉にならない、“これから”への願いだけだった。