43:トール(トルク)、追憶10。
約2000年前
北の大陸・ヨルウェ王国山岳地帯“アイズモア”
トルク:200歳〜
北の大陸の小国から贈られたその娘は、俺の前に連れてこられても、俺を恐れる風でもなく自分を哀れんでいる風でもなく、本当に何を考えているのか分からない様子だった。
ただキョロキョロと辺りを見渡して、「うーん」と唸っている。
「……おい」
俺は王座の上からその娘を見下ろし、彼女の普通で無い反応に眉を寄せていた。
「ちょっ……ちょっと待って。私、いったい今どういう状況に居るのか、考えている所なんです。あ、でも一つ聞いても良いですか?」
「………何だ」
「あなた……誰ですか?」
本当に、心からそう思っているのか、濁りの無い丸い飴色の瞳を輝かせ、彼女はそう言った。
美しい薄いブロンドの髪をした、柔らかい瞳を持った麗しい娘であったが、その態度はどこか違和感がある。
「……は?」
流石の俺もイライラしていたし、周りにいた従者たちはザワザワと騒ぎたて、「無礼だぞっ!!」と口々に言っていた。
娘は着慣れていないのか、その白いドレスを摘んでは「うーん」と唸って、
「というか、私はいったい誰なんでしょうか?」
こちらとしては、本当に目が点になって言葉も出ないと言うような事を言ってのけたのだ。
どうやらその娘が姫でない事に気がつくのに、それほどの時間はかからなかったが、俺はもうその事について小国を責める気はなかった。
別にその国の姫が欲しかった訳ではない。そもそも、特に問題なく蝶よ花よと育てられた姫なんて、好みでも無く興味も無い。
しかし、記憶を失い、自分自身の事も全く分からずにいた身代わりの娘に、興味を持つなと言われる方が難しいと言うものであり、また他とは違ったミステリアスな美しさを持っていた事もあり、俺はその娘をアイズモアに置いておく事にした。
娘は教えられた通り、俺の事を“黒魔王様”と呼んで、何かと側についてきたがった。
多分俺の事を、何だか一番面倒を見てくれそうな人、程度にしか思っていなかった風であったが、見知らぬ土地で、見知らぬ者たちに囲まれ、心細い思いをしていた彼女が、俺を頼っていつもついてくる様子は、どこか可愛いと思ったりもした。
「……黒魔王様、私、やっぱり自分の名前を思い出せません……」
「………」
「記憶喪失って事でしょうか……。私、ここに連れてこられる前の事を全然覚えていないんです」
「………ふむ」
俺は彼女と関わっていくうちに、彼女がこの世界の情勢や、アイズモアと言うこの国の事、三大魔王のことなど、巷でホットな話題を全く知らないと言う事に気がついた。
こうやって会話が通じると言う事だけが、確かな事であり、彼女は自分の事すらほとんど知らなかったと言える。
「だったら、俺がお前に名を与えてやろう……。いや、待て、もっと名をつけるのが上手な魔女も居るが、どうしようか……」
俺はふと紅魔女の事が思い浮かんだが、あいつは一度名を忘れた者の名を、もう一度思い出させる事は出来るのだろうか。
しかし名前魔女とは、命名魔女の事である。名前のまっさらな生まれたての状態に、名を与える事しか出来ないのではないだろうか。
本来他の名前をもっている者に、上書きする様に名を与える事は出来るのだろうか……。
「そんな、別に大層な事をして名を与えてもらわなくったって大丈夫ですよ。私、黒魔王様に名をつけて欲しいです」
娘はにっこりと笑って、俺を見た。
淡い色合いの瞳、淡い色合いの金の髪、その柔らかい雰囲気の中にある、どこか平凡素朴な態度。
彼女は、俺の知っている女性たちとはどこかが違っていた。
それが何だったのか、正直今でも分からないが、彼女の他と違った空気と言うものは、本当に言葉にし難い。
「では、お前はヘレーナだ。……それでどうだ」
「……ヘレーナ……」
彼女はその名を繰り返すと、嬉しそうに何度も頷いて、「それが良いです!」と言った。
明るく、素直な娘だ。
ヘレーナは自分の事を全く分かっていないと言う事もあり、色々な意味で危なっかしい娘であった。
常に見張っていなければ、危ない様々な事に自ら巻き込まれに行くような、そんな娘。
俺が世界で恐れられる黒魔王だと言う感覚も無いようで、何かことあるごとに俺に報告し、俺をどこかに連れて行きたがる。
今までの妻たちは、俺に対し畏敬のようなものが、少なからずあったし、公務に差し障るような出過ぎる真似をする事は無かった。
しかしこのヘレーナと来たら、どうやら俺を対等の人間だと思って接している。
恐れるでも無く、特別敬うでも無く。
俺はそんな人間を、数えるほどしか知らない。
ずっと昔に死んだダッハと、白賢者や勇者と言った敵。
そして、長くお互いの力を引き出し合った紅魔女。
紅魔女とヘレーナは、同じ様に俺を恐れていなくとも、全く違う存在だと言える。
一人は名を与えるビビッドな女性で、もう一人は名さえ知らないパステルな少女。
俺は、記憶を失い身代わりに差し出されたくせに、明るく溌剌とした美しいヘレーナに、だんだんと心を乱され、惹かれていった。
200年も生き、何だって知っていた俺が、何も知らないはずの彼女に、日常の小さな事に気がつかされ、驚かされたのだ。
100年ほど前に死んだ、最初の正妻であるシーヴが俺に言った言葉を思いだす。
俺は、同格の人間しか、真に愛する事は出来ないのだと。
「ふーん……また奥さん娶ったの? 最近、歳とったのか大人しくしていたくせに」
久々に奇襲をかけてきた紅魔女と対面し、俺はヘレーナの事を伝えた。
「どんな子?」
「……変わった娘だ。自分の記憶が無く、名も知らない」
「まーたそんな、薄幸の美少女みたいな」
「そうでもない。彼女は、自分を不幸とは思ってない様だからな。それに……俺の事を恐れるでも敬うでも無い」
「………」
「とにかく、変わった空気のある、不思議な娘だよ」
「………あんた」
紅魔女は、この時とても驚いた瞳をしていた。何がそんなに驚くべき事だったのか知らないが、今まで何度も俺の妻を見てきた彼女が、いまさらそんな顔をする必要も無かっただろうに。
そして、どこか不審そうに眉を寄せ、言った。
「緩んだ表情をして、お気楽なものね。私がここずっと来れなくても、ぜんぜん退屈な事なんて無かった様だわ。こちとら勇者一行に行く手を阻まれてしまっていたのに」
「……そうだったのか。いや、お前がなかなかやってこないのは気にかかっていたぞ」
「………」
紅魔女はどこか機嫌を悪くしたのか、無言で小刀を取り出し、自分の手のひらを切った。
その様子は何度も見てきたとはいえ、少々気がかりである。
「さあ、もう良いから戦いましょうよ。お互い、いつ死ぬとも限らないのだし」
「……どういう事だ」
「勇者よ。あいつ、最近凄く強くなっているわ。……私、最初は遊びのつもりだったのに、今ではあいつらを簡単に倒せるなんて、思えないもの……。それは同時に、私たちがいつか倒されるかもしれないってことよ」
「………」
それは俺も、気にかかっていた事だ。
最初はどうせ、取るに足らない存在だと思っていたのに、ここ最近はこちらが気を緩めてしまえば、奴にあっさり寝首をかかれるのではないかと思ってしまっている。
「別に……あんたがどんな女を妻にしようが、今更なのでどうでも良い事だけど、気は引き締めてもらわないとこっちが困るわよ」
紅魔女は髪を払ったついでに、ピッと一本抜いて人差し指にぐるぐるくくり付け、それに口づけた。
あまり見ない事をしているなと思いつつ、俺も魔導要塞を構築する。
「甘いわ!! あんたは魔導要塞を構築する前に、私の魔法で破壊されるのよ!!」
紅魔女は髪をくくり付けていた人差し指を俺の方に向け、ビシッと突きつけた。
するとその指からは一雫の真っ赤な雫が落とされ、それは雲の糸の様に伸び広がっていく。
魔導要塞には構築するのに僅かなタイムラグのようなものが発生するが、その隙間をぬって、紅魔女は限りなく小さく細い血のウイルスのようなものを空間の術式に埋め込んでいったのだ。
「!?」
そう言えば、彼女は髪をくくり付けた指に口付けをしていた。
あれは、自分の唾液を媒体要素に加えたと言う事だ。情報量を威力とする彼女の魔法である。紅魔女という情報の宝庫のような肉体の、その髪と唾液を媒体と使った魔法が、大した事無いと言えるはずも無く、魔導要塞は構築された所からボロボロ腐敗し崩れていった。
今までは一部を壊し、彼女が脱出すると言う事が多くあったが、このように構築途中で手に負えなくなる事は初めてであった。
「……凄いな」
「ふふん。だてに、200年も生きてないわよ」
その新しい魔法を披露出来ただけで、彼女はどこか満足そうだった。
しかし、紅魔女のウイルスは魔導要塞だけでなく現実世界にも影響を与え、森の木々を枯らし始める。
「……あ」
「おいおい、どうしてくれるんだ。俺の国の森まで……」
紅魔女は慌てていたが、こうなってしまっては後の祭り。
俺や彼女は、破壊する事しか出来ない。きっとこの場に白賢者がいれば、どうにかしてくれたのだろうが。
「きゃーっ、黒魔王様!!」
その時、どこからか悲鳴が聞こえた。
聞き覚えがあり、俺は気にせずにいられない声であった事から、体が反応して急いでそちらの方へ向かう。
すると、やはりヘレーナが森の腐敗の侵蝕に巻き込まれそうになっていて、森の道の端で俺の名を呼んでいた。
「黒魔王様、黒魔王様ー!!」
「ヘレーナ!!」
ヘレーナはバスケットを抱えて、身動き取れずにいた所を、俺に抱えられ助けられる。
赤黒い腐敗の侵蝕は、結局森一つを飲み込んでしまった。
「何でこんな所まで来たと言うんだ。民は紅魔女と俺が戦闘中であるなら、誰も近寄らないぞ!!」
「だって……だって黒魔王様、私を置いて行ってしまったんですもの。……それに、もしかしてお腹が空いているかもしれないと思ったんです」
「………お前な」
ヘレーナはバスケットに、いっぱいの焼き菓子を入れて持って来てた。
俺がピクニックでもしていると思ったのか。
「あら、そちらが紅魔女様ですか? 噂通り、すっごく綺麗な人……」
「…………」
「ババアだけどな」
長い付き合いなんだからこのくらい言ったって許されると、思わず口が滑ってしまったが、紅魔女はそれに突っ込む事も無く「まあね」と言っただけだった。この反応は予想外で、少々驚く。
「まあ……。あら、手を怪我されていますよ?」
ヘレーナが紅魔女に近寄って、その手に触れようとした時、俺と紅魔女は口を揃え叫んだ。
「駄目よっ!!」
「駄目だ!!」
流石に、俺たち二人に大声を上げられ、ヘレーナも肩を上げ何事かと思ってしまっていたが、俺は彼女の手を取って自分の方へ引き寄せ、肩を抱く。
「駄目だ、ヘレーナ。俺や紅魔女は、お前とは違うんだ……。紅魔女の血は、森をあのように変えてしまうほどの力を持っている。脆いお前なんて……あっという間に……」
「黒魔王様? し、しかし……黒魔王様。あの方は怪我を……」
「平気よ、こんなの」
紅魔女はしらっとした口ぶりで、そう言った。
そして、自分の血まみれの手を見つめている。
いつもの事なのに、いつもの状況なのに、どこか紅魔女の瞳は沈んだ色をしていた。
「私……もう帰るわ」
「……?」
紅魔女は三角帽子をグッと深くかぶって、俺たちに顔を背け、そう言った。
「もう帰るのか? 久々に来たんだ……城へ寄って行けば良い」
「良いわよ別に。お邪魔そうだし……私、あなたの大切な人を傷つけてはいけないもの」
「……マキリエ」
彼女の名を呼ぶと、紅魔女はピクリと反応して、ゆっくりとこちらを向く。
まるで久々に、自分の名を聞いたかの様に。
その時、三角帽子の隙間から見えた彼女は、今まで見たどんな表情より、ずっと寂しそうだった。
帽子の影でよく見えなかったが、青緑色の瞳は、一瞬鈍く煌めいた気がする。
「おい、マキリエ。………また遊びたくなったら……アイズモアへ来るといい………。いつでも相手になろう」
だから俺はそう言ったのだ。
今までの通り、何度も戦いをしかけてこいと。
だけどマキリエは俺とヘレーナをじっと、少しの間見つめた後、グッとこみ上げてくる何を飲み込んだ様にして、こう答えた。
「もう……来ないわ」
「……?」
その言葉は、以前も聞いた事がある。
確かずっとずっと昔、彼女と初めて出会ったあの雪原で。
紅魔女は俺に会いにきたのに、俺に強く帰れと言われて、「二度と来ない」と言って帰っていったのだ。
そして確かに、彼女は俺が西の大陸を尋ねるまでずっと、アイズモアには訪れなかった。
フッと思い出された150年近く前の記憶に、俺は思わず、じわじわした焦りに襲われる。
あの時から、全く変わらない俺と紅魔女。
「……マキリエ?」
「……ふふ、だって……ここまで来るのって、結構大変なんだもの。今は勇者が私たちを狙っているでしょう? あいつ……そろそろ本気で、私たちを殺そうとするわよ」
紅魔女は三角帽子を深くかぶって、クスクスと笑った。
「次があるかなんて、もう分からないもの」
力無くそう言う彼女は、いつもの憎らしい笑みでは無く、泣きそうな笑みを浮かべていた。
彼女がここまで、勇者の存在を恐れているとは思わなかった。
この時の俺は、マキリエが単純に勇者と言う、俺たちを討伐せしめんとする存在が、じわじわと力を付けてきている事を恐れているのだと思っていた。
いつも強気な彼女にも、こう恐れる事があるのかと、心配したのは確かだ。
しかし俺も、その事について深く追究する事は無かった。
「……そうか」
何と答えて良いのか分からず、そう言うに留まったのだ。
マキリエは俺の答えが分かっていたと言う様に、瞳を伏せ、真っ赤なドレスを翻し、その場を去っていった。
この時も、俺は、彼女を追う事は無かった。
側にヘレーナが居たからだ。
ヘレーナは俺と紅魔女のやりとりを、どこか不安そうに聞いていた。
「紅魔女様と黒魔王様って……もしかして恋仲だったりするのですか?」
「……まさか。あいつは………」
あいつは…………。
何だったと言うんだろう。
紅魔女は俺にとって、何だったんだろう。
その後、確かに紅魔女はアイズモアを訪れる事無く、魔族の知らせで聞く勇者と彼女の戦いの報告以外で、その存在を確認する事は無かった。
紅魔女は恐れていた。
俺たちに、もう次は無いのかもしれないと。
あの時、何で紅魔女を帰してしまったんだろう。初めて会った時と同じ事をしてしまった気がする。
そして、それが何でか、俺は知っていた。
黒魔王の時代、俺の中で、一番大切なものの頂点に紅魔女が来る事は、一度も無かったからだ。
この時の俺は、ヘレーナを心から愛し、彼女さえ側に居てくれれば良いと思っていた。
じゃあ、紅魔女は?
いったい彼女は、どんな思いで、再び「もう来ない」と言ったのだろうか。
彼女には、俺にとってヘレーナのような、支えとなる愛すべき存在など無かったのに。
ヘレーナへの愛と、彼女との日々の充実感が、俺の危機感を鈍らせてしまっていたのだろうか。
勇者が俺たちの背後に、既に何もかもを揃え剣を振り上げ立っていた事に、俺は気がつかなかった。
そして、俺たちと同じ大きな力を持っていて、100年に渡る魔導大戦を繰り広げた白賢者は、自分の育てた勇者に裏切られて殺された。