40:トール、狭間の声の約束。
他人の精神空間に入った事が無い訳ではないが、精神空間とは形無い空間だ。
物理要素皆無の空間だが、それ故にとても抽象的で、概念的で、危うい。
アルフレード王子の精神世界という、非常にプライベートな空間に入り込んでいるはずだが、洗脳の魔術によってそれらはほとんど真っ暗になってしまっている。
ところどころ、色の無い王冠が落ちているくらいのもの。
それがむしろ、第一王子の心を象徴している様でもある。
「……いた」
アルフレード王子はすぐに見つかった。
寂れた王座に座り込んで、ぼんやりと虚空を見つめている。
「殿下……お迎えにあがりました」
「……トール・サガラームか……」
「………」
殿下は思いの外、はっきりと俺の名前を口にした。
意識はある様だ。
「はは……情けないだろう、私は」
「………殿下」
「結局、お前たちの言った通りになった。……マキア・オディリールの言った通りに……。私は無力で、母上にも宰相にも逆らう事は出来なかったのだ。私は操り人形の、誰も求めていない愚かな王になるだろう」
「……殿下。あなたをそのようにした母に、未練はおありか」
「………」
「肉親との絆と言うものは、確かにかけがえの無いものだ。……だが、母が必ずしも自分を愛してくれると言う訳では無い。愛があったとしても、あなたに洗脳魔術をかけようとしたと言う事が、既にその崩壊を物語っている。俺は……俺はあなた方親子に、何かきっかけがあればと思っていた。あなたが王宮を抜け出したあの日……だから、俺はあなたを元の場所へ返した。だが……」
「分かっている。私たちの血の絆は、すでに崩壊している……。母上は、許されざる事をしてしまったのだ。母上はただ、王になる息子が欲しかっただけだ」
「……殿下」
俺は、自分の前世を思い出した。
母に愛されなかった自分と重ね、境遇こそちがえど、その虚しさや切なさは良く分かる。
母の愛と言うものは、その他のものとは別格のもので、代わりがある訳ではない。
しかし母の愛が無かったとしても、人は乗り越えねばならないものがある。
「殿下……あなたには何も無いとおっしゃるつもりか。ルルーベット王女はどうするのです!!」
「……ルルー……?」
「そうです。あなたの妹であり、同じ境遇のルルーベット王女を。あの方は、あなたが捕われていると言う事を知って、泣いて俺やマキアに助けを乞いました。お兄様を助けてくれと……っ。あなたがこの状況を受け入れてしまえば、ルルーベット王女を本当に一人にしてしまう事になる!!」
「………」
「兄弟とは、時に親より自分の事を理解してくれる存在になります。何より大切な存在に……。ルルーベット王女は自分が母を裏切ってでも、あなたを助けたいと思ったのです。彼女が今一番求めているのは……母でも、俺でもなく……殿下だと言う事を、知って頂きたい」
「……ルルー……」
アルフレード王子は、スッと涙を流した。
ほとんど会話する事すら許されなかった兄妹だが、今この状況で、お互いが求めるものがあるとすれば、それはやはり同じ運命をわかつ存在なのだ。
彼らはきっと分かり合える。これから、この兄妹には辛い選択を迫られるだろうが、お互いが居れば乗り越えられる。
俺はそう確信している。
「アルフレード王子……御決断下さい。あなたは、その偽りの王座に居座るか……そこから立ち上がり、ルルーベット王女と向き合うのか……!!」
強くそう言うと、殿下は瞳に光を灯し、ゆっくりその場を立とうとした。
しかし、王座には無数の鎖が取り付けられていて、彼は立ち上がる事ができない。この鎖こそ、洗脳魔術の象徴だ。
「御心配なく。邪魔するものを断つ為に、俺がここに居るのです」
俺はアルフレード王子に繋がれている鎖を、自分の剣で断ち切っていった。
黒魔術には黒魔術を。
精神空間の危うい、歪みのようなものを利用し、鎖を空間の狭間に追いやっていく。
「さあ……殿下。あなたの肉体は既に安全な場所にあります。ユリシスが……あなたを待っていますから」
「………ユリシス……」
「ええ。一応、あいつもあなたの弟でしょう? 時に頼ってやって下さい。あいつ、頼られるのが趣味みたいなものですから」
「……しっかりした弟だ。ユリシスを王にという声も多くあったのも頷ける」
「そりゃあ白賢……いや、あいつはまた別ですよ。俺やマキアだって、ユリシスには敵わない部分が多くある」
ユリシスに精神的な悟り具合、懐の大きさで敵う人間が居たらびっくりだ。
俺は剣で空間に出口を作り、アルフレード王子をそこへ促した。
「帰りましょう、殿下」
「………ああ。世話をかけたな、トール・サガラーム」
「俺は……ルルー王女の願いを聞いたまでです」
何とも言い様の無い笑みを浮かべ、アルフレード王子はその暗い場所から出て行った。
俺もそれに続いて、彼の精神空間から出ようとする。
「……!?」
しかし、いきなり暗闇から無数の鎖が飛び出して来て、俺を取り囲み縛る。
「トール・サガラーム!!」
「殿下!! 俺の事は良いので、そのまままっすぐ進んで下さい!!」
俺はそう叫ぶと、空間の裂け目を閉じる。
アルフレード王子の、俺を呼ぶ声は、空間が閉じられた瞬間全く聞こえなくなった。
殿下は急いでこの空間を出なければならない。
無事に帰り着いて欲しい。あなたを、ルルーベット王女が待っているのだから。
「…………」
気がつくと、俺はどこだか分からない空間の歪みのような場所に居た。
すでにそこはアルフレード王子の精神空間ではない。
「……?」
人の精神空間に、他人が干渉した事で出来上がった歪みのような場所に、俺は引きずり込まれたのだ。
「………鏡?」
そこには、俺が先ほど追いやった洗脳魔術の術式の名残がある様で、鏡や鎖、仮面などが無数に浮いている。
さて、どうやって帰ろうか。俺は空間魔法を極めた黒魔王だ。方法はいくらでもある。
ふと、俺は鏡をのぞいた。
そこにはトール・サガラームではなく黒魔王の姿が映っている。
流石精神空間。内なるものを映し出すと言う事か。
『黒魔王様、あなたは傲慢ですわ。私たちを哀れに思ったから、妻にしたのでしょう?』
鏡には、いつのまにかシーヴが映っていた。
シーヴは、かつての黒魔王が最初に妻にした女だ。トワイライトの一族の祖先でもある。
「……シーヴ」
懐かしい言葉だ。
彼女にはいつも、確信をつくような事を言われたっけ。
観察し、研究する事が得意な女だった。客観的な物事の考え方が出来る、大変有能な正妻だった。
『だから、紅魔女様を妻になさらないので?』
鏡の中のシーヴは続けた。
『あなたは紅魔女様を対等だと思っている。だから、私たちと同じ土俵に上げたく無いのです。……ようするにあなたは、私たちを格下と思っている事になります』
「………」
『ですが、それを責めている訳ではありません。……私は、あなたより格下で良かったと、心から思いますわ。だから、あなたに見つけて頂き、救って頂き、ここへ連れて来て頂いたのだから……。紅魔女様は可哀想ですわ』
鏡の中のシーヴの姿はだんだんと老いていった。
かつて、自分よりずっと幼く、黒髪黒目で虐げられていた彼女の姿は、俺よりずっと早く歳をとっていく。
だからといっても、俺はシーヴを、一番のよりどころだと思っていたし、彼女を最後まで正妻として扱った。
『あなたが私たちに与えたものは情けです。私は……あなたが心から、ただ濁り無く愛する事の出来る存在が現れてくれる事を望みます。あなたと歩む事が出来るのは、結局“同格”のものだけだと、私は信じているのです』
シーヴは年老いて、死ぬ間際、俺にそう言った。
俺はシーヴを愛していなかった訳ではないのに、彼女はそんな事を言うのだ。
彼女は、沢山の子供や孫に囲まれ、安らかな笑みを讃えていたのだ。
その子供の中には、決して自分の子だけが居た訳ではない。
彼女は、他の妻たちの子供や孫たちにも慕われていた。素晴らしい、正妻だった。
『だけど私は、大変しあわせでした』
そう言って、静かに息を引き取った。
あの時の事は今でも良く覚えている。
とても印象深い、最初の妻の死。この時ほど、自分自身の寿命が異常なのだと感じさせられた事は無かった。
シーヴの言葉を、この時はいまいち理解していなかったが、今なら何となく分かる気がする。
自分の過去を客観的に見つめる事で、何となく気がつき始める。
なぜ俺は紅魔女を妻として迎えなかったのか。
誰より早くに出会い、誰より自分に近い存在だったのに。
『紅魔女様は可哀想ですわ。……あなたと同等の力を持っているからこそ、あの方はいつまでも孤独ですもの。力があれば、哀れでは無いと言う訳ではないでしょう?』
シーヴの言葉が何度も何度も、頭の中で繰り返される。
そして、ふっと記憶は“最後”に飛んでいった。
俺が勇者に殺された、あの夜明けの雪原の上。
空は朝日の微妙な色合いの、闇と光の境界線を描いている。それでもまだ星の見える時間帯。
勇者の剣で刺され、血だまりの中横たわる俺を、見つけて抱き上げたのは、紅魔女マキリエだった。
「嫌よ!! あんたまで死んだら、私……本当に一人になっちゃうじゃない……っ!! こんな世界で、私だけが……私だけがたった一人、こんな力を持っていたって……っ」
マキリエは泣いていた。
強いはずの彼女が、とても弱々しく感じられた。
でもこの時、俺は勇者に付いて行ってしまった最後の最愛の妻ヘレーナが、何故自分を裏切ったのか……その事ばかり考えていた気がする。
俺は心から、ヘレーナを愛していた。何故そんなに愛したのか分からないくらい。
「ヘレーナ……どうして……っ」
「……トルク……」
「マキリエ……すまない。俺は勇者に破れた……っ。ヘレーナまで……俺を裏切って……」
「………」
マキリエは、息も絶え絶えな俺を、その震える手で抱きしめ、俺の耳元で言った。
「大丈夫。あなたの愛した……ヘレーナじゃない。きっと、あなたを裏切ったんじゃないわ……。私が、勇者からあの子を、きっと取り戻してあげるから。助けてあげるから……っ」
マキリエのその言葉を聞いて、俺はどこか安心したのだ。
そして、言ってしまった。
「ああ……頼む、マキリエ」
その言葉が、彼女にとってどれほど残酷で、どれほど彼女の運命を縛ったのか、今なら良く分かる。
マキリエの事を思えば、もう勇者と戦うのをやめろと言うべきだったのだ。
俺も白賢者も居なくなったのだから、あとは安らかに、静かに、ただの女として生きろと。
だけど、俺が彼女に、死の間際の頼み事をしてしまったせいで、マキリエは勇者と戦い続けた。
そして、自分の身を滅ぼしてでも、奴を殺した。
西の大陸まで、焼き払って。