35:ユリシス、エスカが怒っているのを気にしていられない。
ユリシスです。
それは黒のサロン週間、前日の事。マキちゃんもトール君も、バロンドット卿も叔父上も、明日からの一週間を前に、兄上救出作戦を緻密に確認していた時の事でした。
ヴァベル教国から僕に連絡が入ったのです。
どうやら、数年に一度緑の巫女がかかる病で、ペルセリスが床に伏せているとか。
当然慌てた僕は、明日からの事など一瞬忘れて王宮を飛び出し、ヴァベル教国へと向かったのです。
「ペルセリス!!」
彼女は緑の巫女特有の、“霊還”という病にかかっていました。これはいわゆる職業病で、緑の巫女は数年に一度、必ずかかるものでした。聖域に常に居なければならない緑の巫女は、体内に聖域の魔力や聖なるエネルギーを蓄え続け、ある時それを放出するのです。放出しなければ体が保たないからです。
その時、一時的に熱が上がり体が思う様に動かなくなるので、巫女にとってこの病は必要とは言え、そこそこキツいものと言えます。
ペルセリスにとってこの病は人生で3度目で、僕も今まで何度かお見舞いに行った事がありますが、その度に彼女がとても辛そうなので、僕は今回も居てもたっても居られなかったのです。
ペルセリスは寝台で、頬を赤くして、虚ろな瞳で僕を見つけました。
「………ユリシス……」
「ペルセリス……大丈夫かい……っ?」
「ん〜……ユリシスう〜」
彼女は布団から細い手を出し、僕の方へ伸ばすので、僕は彼女に近寄ってその手を握りました。
手は本当に熱くて、僕は少し不安になってしまいます。この病は僕がどうこう出来るものではないので、なおさら歯がゆい思いです。
「ああああペルセリス……っ、可哀想に……!!」
僕が彼女の手をひしと握って青ざめ、うろたえていた所、側に居たデルグスタ司教が困ったような顔をして言います。
「巫女様にとっては必要な事です殿下。まるで死の病にでもかかったかのような表情を……」
「それはそうだけどっ!! でもこんなにキツそうじゃないか……。熱も高いし……っ」
「一週間もすればまた元気になりますとも。それまでの辛抱です」
「………」
なぜか僕が宥められる始末。
ペルセリスはそんな僕を見て起き上がると、両手を広げ僕に抱きつこうとしました。
「こ、こらペルセリス……寝てないと駄目じゃないか……」
「ん〜、ユリシス冷たくて気持ち良い……」
「………」
まるで子供の様で、僕は何となく小さい頃の彼女を思い出しました。
ここ最近僕に頼る事も少なく、随分しっかりした様子だっただけに、何だか少し嬉しくなってしまいました。
こんな時になんて奴だ。
「ん〜……ユリシス〜……」
彼女はひしと僕にしがみついて、離れません。
確かに僕は王宮を飛び出して寒い隠し通路を走って来たので、体が冷えきっていましたが。
デルグスタ司教の視線が何だか……何とも言えない。
だけど僕はそのまま彼女の背を撫で、彼女の好きにさせようと思いました。何かが心細くて、こうやって僕に触れていたいのかもしれない。
ここ最近、忙しくてあまり彼女の所へ通う事が出来なかったので、さらにそう思ってしまうのです。
「ごめんよペルセリス。最近あまり……会いに来れなくて」
彼女は僕が忙しい事を知っていて、僕に遠慮をしていた節があります。婚約者であるが故に。
お互いの信頼があるからこそなのですが、だから彼女が寂しく無かったかと言うと、そう言う訳では無いと思ってしまうのは、自惚れでしょうか。
子供みたいに僕の背の服を握りしめる彼女が、ただただ小さくて弱々しくて、熱で乱れた息づかいに涙がこみ上げてきます。
「おいこら白賢者。何見せつけてくれてんだこのタコッ!! しかも涙目だしだっせーの」
「………エスカ義兄さん……」
「だから義兄さんって呼ぶなって言ってんだろクソが」
「若様、あまり大声を出さないで下さい。巫女様のお体に障ります」
「うっせーハゲ!! その帽子射撃してぶっ飛ばすぞ!! 晒すぞハゲを!!」
「………」
相変わらず耳障りな声のエスカ義兄さんが、ずかずかとやってきました。病人の前に出る態度ではありません。デルグスタ司教も少々頭を抱えていました。彼が頭を抱えていたのは別の理由かもしれませんが。
エスカはペルセリスの様子に、特にどうと言った反応も見せず、寝台の横のテーブルに一つのグラスを置きました。
「さあ巫女様。塩湯です。これを飲んで下さい」
「………ん〜、それまずいもん。やだなあ〜……」
「我が侭を言わないでください。ほら、さっさと飲んでさっさと汗をかいて寝なければ」
「ん〜……」
ペルセリスは唸るような返事をして、僕から離れると塩湯のある方を向きました。
エスカが彼女にそのグラスを手渡し、彼女はそれを飲む。本当にまずいのか、ペルセリスの表情はどこか歪んでいました。
どうして聖域にはまずいものしか無いのか。彼女が可哀想じゃないかっ!!
「大丈夫かいペルセリス」
「大丈夫……。相変わらずまずいけど……」
ペルセリスは呟く様にそう言うと、また両手を広げぶらぶらさせ、僕を見つめます。
瞳は熱のせいか潤んでいて、頬は火照っています。
僕はまたそっと彼女の手を取りました。
「ペルセリス……そろそろ寝ていないと駄目だよ」
「ユリシス、もう帰っちゃうの?」
「………まだここに居るよ。だから安心して眠るんだ。眠ってしまえば、少しは楽だから……」
「ユリシスが居るなら………私起きていたい……よ……」
「………」
息も絶え絶え、そう言うペルセリスの頭を撫で、僕は彼女の頬に自分の頬をくっつけ、ゆっくり抱きしめました。
細い体は力無く、くてっとしています。
しばらくそのまま、背中を撫でていましたが、やがて彼女は寝息を立て始めました。
「………ふう、やっと寝たか……」
エスカとデルグスタ司教は、少し離れた場所で僕らの様子を見ていたので、ペルセリスが眠りに付くとホッと息をついていました。
「何なんですか、その言い方は」
「巫女様はずっとお前の名を言いながら、苦しさに耐えておられた。やっと安心して眠られたって事だ。それにこの霊還という病は、寝ている時が一番安定している。ただの病じゃねーからな」
「………」
「それはそうと、まずい時期に巫女様が倒れられてしまった。お前……分かっているのか?」
「……?」
エスカは意味深に瞳を細め、良く意味の分かっていない僕に「アホめ、分かんねーのかよ」と吐き捨てる様に言いました。
僕と彼は、とりあえずその部屋を出て、周りに誰もいないのを確認し、再び話題を戻しました。
「今週から貴族達のいかがわしい黒のサロンがはじまんだろーが。貴族たちがこぞってこの王都に集まるんだぜ。そんな時に巫女が聖域に居ないと言うのは、色々とまずい」
「………なぜですか。巫女はあくまで象徴でしょう? 大貴族会議に出席する訳でもないのに……。確かに王都は今、とても微妙なバランスのまま大貴族会議を迎える事になりますが。跡取り問題が再び露骨になってきましたし……」
「バッカか。てめえのあんぽんたん兄貴や甘党おじさんや、貴族どもの陰謀論はどうでもいいんだよタコ。連邦だよ連邦!! あいつらの手が既にルスキアに及んでいる事は知ってんだろ!! もし大貴族会議を狙ってあいつらが何か仕掛けて来たら、聖域は十分に力を出せない」
「………?」
僕はエスカの言葉に疑問を持って、首を傾げます。
彼は一体何を言っているのでしょうか。
「巫女様が聖域におられると言う事が、どれほど大切な事か……お前まだ分かってねえな」
「……どういう事です」
「ハッ………。神器だよ、神器」
「……?」
エスカは、まるで僕に良く聞いていろと言うように、その色の違う三白眼の両目で僕を見下ろしました。
「緑の幕を、本当の意味で操作出来るのは巫女様だ。聖域の……あの大樹の中には、大地の女神パラ・デメテリスの神器が眠っている。巫女様が弱り、あの場所に居ないだけで、緑の幕は薄くなるのだ」
「……!?」
「要するに、緑の幕は巫女様の神器を経由して作られているってことだ。絶対防御の象徴……“豊女王の殻”をな」
「………」
僕は突然告げられた内容に、驚きを隠せませんでした。
しかし、そうだ。そう言えば前に、巨兵がこの国を襲い緑の幕が破壊された時、ペルセリスはこの聖域で倒れていました。
まるで、緑の幕に共鳴している様に。
「霊還中だけは、巫女様はあの場所を長期的に離れられる。なぜなら、霊還の時に聖域に居れば、体は再び聖域のエネルギーを吸収しようとして、体に二重の負担がかかり、万が一の事もあるからだ。………それ故に巫女様を、この時期に地下の聖域へ戻す訳にはいかない。この国の緑の幕は、色々な意味でとても不安定になるがな。ま、何事も無ければ、本当に問題の無い事だが……もし今、巨兵に攻撃されれば緑の幕であってもどうなるか分からない」
「………それは……」
僕は息を飲みました。
やはり僕にも心のどこかに、緑の幕があるから、例え巨兵が今この国に来ても何とかなると思っていた所があるのでしょう。
いざ、その力がとても不安定になると聞くと、気になる事が多くあるものだと思い知りました。
「まあ、巫女様の事だ。自分の体に負担になっても、いざとなったら聖域へ戻ると言いそうだがな」
「そ、そんな事は駄目だ!!」
「……そう言うんだったら、てめえらで何事も無い様、全力を尽くすんだな。俺様は聖域さえ無事ならそれで良いんだからな」
「………義兄さん……」
「だから……義兄さんって呼ぶな死ぬほど言ってるだろーがっ!! いいか、次言ったら、ほんと、ぶっ殺すからな!!」
エスカは何度も、僕をびしっと指差し、その頭上の司教の帽子がぐらぐらするほど怒っていました。
しかし僕は心配な事が色々と増え、彼の怒っていた様子を気にする事が出来ませんでした。
「ユリ……ペルセリスどうだった?」
王宮へ帰ると、マキちゃんが真っ先に心配そうにして、僕に駆け寄りました。
「……随分辛そうにしていたけれど、死ぬような病気じゃない。職業病なんだ……あれは」
「……そう。お見舞いに行けたら良いのだけど」
「駄目だよマキちゃん。マキちゃんには明日から、やらないといけない事があるだろう?」
「……そう、ね。こちらのことに集中しないといけないわね」
マキちゃんは小さくコクンと頷きました。
強い瞳の色は相変わらず。気を張っている様だったので、彼女の肩をポンポンと叩いて「そんなに気張らないで」と微笑みかけます。
「大丈夫よ。いざとなったら自力でどうにか出来るわよ」
マキちゃんは強気な表情と態度で、フッと笑いました。
僕も特に彼女の事を気にしていはいません。紅魔女はとても優秀だと、僕は知っています。
ただ、向こうの方で腕を組んで、どこかソワソワしているトール君は、別な様でした。
例えマキちゃんが無能でも有能でも、彼は同じ態度なのだろうと思います。
「ちょっとトール君……何あからさまにソワソワしている訳」
「は!? 別にソワソワとか……してねえよ」
「ちょっとユリも言ってやってよ。こいつってば、私がいかにも無能な女かの様に、無茶だとか出来る訳が無いとか、危険すぎるとか、文句ばっかり言うのよ」
マキちゃんは肩を竦め、はあとため息。
トール君はその言葉に瞳を細め「可愛くねえんだよお前」と。
「まあ……トール君はマキちゃんの騎士だからねえ。心配なんだよ」
トール君は、確かにいつにもまして、マキちゃんに対し過保護でした。
と言うより、やはりここ最近トール君はどこかおかしいのです。マキちゃんに対する態度が、若干変わっている気がします。
マキちゃんは相変わらずですが。
「………」
言い合っているマキちゃんとトール君を見て、僕は少し思うのです。
その光景は、今まで何度も何度も見て来たはずなのに、どこか新鮮で、どこか………懐かしい様で、知らない様でもあります。
それはきっと、予感でした。
二人の関係は、形を変えつつあるのかもしれない。
長い時間をかけ、小川の流れが大地を削る様に。
ふと、そう感じたのです。
あけましておめでとうございます。
今年もどうぞ、よろしくお願いします。