39:ユリシス、約束の場所。
「そうだ、トール君……君に少し聞きたい事があるんだ」
「……何だ?」
「トール君、ここら辺の残留魔導空間って、分かる?」
「残留魔導空間?」
ユリシスです。
僕はもう一つ、やらなければならない事があると分かっていました。
それは、シュマとの約束を果たす事。
僕はまだ、あの“約束の場所”に至ってはいないのです。
シュマはいったい、何を見て、そこを約束の場所だと言ったのか。
トール君は空間魔法を得意としていますから、僕には見つけられなくとも、あるいはと思いました。
彼は手の甲におなじみのキューブを作り、沈黙した空間の僅かな歪みを見つける、広範囲のマギウェーブを発生させます。
彼のキューブを中心に、ウェーブは波紋の様に広がって行きました。
「……どう、トール」
「はあ……凄いな。ここら辺、小さなものから大きなものまで、残留魔導空間が沢山残されているぞ。なんでこんな事になってるんだ?」
トール君はキューブに現れる無数の点に、目が釘付けでした。
僕らもそれを確かめます。
「そう言えば、メディテ先生……なんかここら辺の事知ってそうだったわよね」
「……ふーん……。まあねえ」
長く煙を吹いて、メディテ卿はなんだか意味深な表情。
「ここら辺は、ご存知の通りかつて聖域の森の範囲だった訳だ。神話の時代なんかは、大陸は全部繋がっていて、ここも海ではなく森だったと考えられる。かつて異世界からやってきた子供たち……まあメイデーアの創世神たちは、最初ヴァビロフォス辺りで固まって暮らしていたそうだ。だから、彼らの魔法の名残が、今でもここらに残っている訳だ。残留魔導空間はかつての神様たちが、遊びながら魔法を使っていた、その消し忘れさ。子供にしか入れないのは、彼らもまた、子供だったからだよ。まさに神隠し!!」
「確かに」
メディテ卿のオーバーリアクションに普通に切り返す辺り、僕らはそれに慣れてしまったと言う事でしょうか。
彼はふうと煙を吐いて、もう一つ付け加えました。
「……あと、ここらの空間は“時間と空間の神クロンドール”の力が大きいから、一般の残留魔導空間と違って、時間軸すらとても曖昧な空間らしい。危ういよねえ……すっごく危ういよねえ」
「………」
空間は時間がたてば消えると言うものではありません。
完全に消す作業の方が難しかったりします。確かに現実と時間の関係すら切り離す事も出来るので、その空間だけのルールが残されたり、迷ったら抜けられない歪みを生んでいたりするのです。
僕らはかつて、シュマが示した“約束の場所”あたりの残留魔導空間を探しました。
2000年前と様子が変わっていたけれど、海岸線はそれほど手が加わっていた訳ではないので、場所の特定は難しくありませんでした。
「……ここか」
岩場の多い小さな入江に、一つの残留魔導空間がありました。
かつて、シュマはここら辺で、僕と共に空間を探したのです。決して見つける事は出来なかったけれど。
僕はトール君に入口を広げてもらい、そこから空間内部に入ろうと思いました。
「おい、流石に他人の作った空間において、俺が出来るのは入口を広げるくらいだからな。この中で何が起こるかは分からない。ましてやかつての神が作った空間ならなおさら……」
「大丈夫、ありがとうトール君」
「リエラコトンの糸、こちらに繋いでおいた方が良いんじゃない」
僕はマキちゃんの提案の通り、その空間に入る前にリエラコトンの糸車をこちらで召喚し、自分の指にその糸を結びました。
帰り道を見失わない様に。
「ユリシス!! 私も行く!!」
ペルセリスが僕の袖を掴んで言い張ります。
彼女の瞳はとても強い意志を持っていました。
僕は少し眉を寄せましたが、かつてシュマが言った様に、ここが僕ら家族の“約束の場所”だと言うなら、ペルセリスには行く権利があります。僕はリエラコトンの糸をもう一本引き寄せ、彼女の手を取って指に結びました。
「僕から、離れちゃいけないよ……」
「……うん」
トール君のキューブが入口の四方に飛んで行って、それを押し広げて行きます。
「いいぞ」
彼が合図した時、僕はペルセリスの手を取って、空間の中に入り込みました。
「………」
青白い霧と、真っ白のようで沢山の色の高い木々が規則正しく、だけど不自然に並ぶ、まるで絵画のようなマーブルの抽象世界。
僕とペルセリスは一時、その不思議で静かな空間で立ち惚けていました。
確かにここは、現実の世界では無い。おとぎ話のような、絵本の一ページのような、だけどもう誰も来ない寂しい世界。
「……空が見えないね」
「……きっと、空が無いんだ。全て青白い樹で囲まれた世界なんだ。こんな場所、いったい何の為に作ったんだろう……」
それを知っているのは、かつての神々だけ。
僕らの最初だけ。
あんまりに遠くて、他人の様にしか思えないけれど。
判別出来ない、高いコロコロした音が、上から落ちてくる気がします。
「………?」
少し歩いていた時、生き物のいない世界だと思っていたのに、どこからかすすり泣く声が聞こえた気がして、ペルセリスが僕の腕に身を寄せました。
僕は彼女の前に出て、向かい側をまじまじと確認します。
人影でした。
真っ白の人影。子供の人影です。
「………まさか、迷い子……?」
だんだんとはっきり見えてくるシルエットに、僕もペルセリスも、目を疑ったものです。
真っ白の服を着た、白い髪、緑の瞳の10歳程の少年。
その子供が泣きながら、こちらにてくてく歩いてきたのです。
「………シュマ………」
ひやりとした感覚と、押し寄せてくる胸の熱い感覚。
その対照的な両方が僕の中で交わって、一つの雫になって心の奥に落ちました。
色々な事が繋がった気がして、グッと目元が熱くなって、なかなか言葉が出てこなかったのです。ペルセリスはいっそう僕の腕の服を掴んで「どうして……」と呟いています。
「ひっく……ひっく………父様……母様……」
シュマはこの空間で迷ったのです。
きっと、帰り道が分からなくて、泣いているのでしょう。
僕は彼にそっと近づいて「どうしたんだい」と声をかけます。
シュマはやっと僕らに気がついた様で、小さな体を一度びくりと上下に震わせ、しかしやっと人に会えたと言う様に、いっそう表情を歪めました。
「うわああああ」
「……よしよし……迷ったのかい?」
僕は彼の髪を撫で、膝をついて視線を合わせました。
かつて、我が子にいつもしていた様に。
そうするとシュマは落ち着いて、僕をしっかりと見てくれました。
「迷ってしまったんだね。ここから帰れないのかい?」
「……っ……はい。探検していたら迷い……っました……っ」
ひっくひっくと、胸を上下させながら。
こんな場所から出られなくなるなんて、それはとても怖い事だったろう。
でも、探検せずにはいられなかったなんて、シュマだな……。本当にそう思うよ。
僕は彼の頬を両手で包んで涙を拭きながら、少しの間彼を見つめました。
シュマは少しきょとんとしています。
「……シュマ……っ!!」
ペルセリスが我慢出来ずに、彼に飛びつき抱きしめました。
そして、シュマに負けず劣らず大きく泣き始めたのです。彼の背に手を回し、キツくキツく抱きしめたので、シュマが少し驚いています。
「……お姉さん、お姉さんも……迷ったんですか……?」
シュマは頬擦りするペルセリスに聞き、ペルセリスはやっと彼から身を離しました。
しかし、手は彼の服を掴んで、ぶるぶる震えている。
当然だ。前世の我が子と、こんな場所で、こんな風に会話出来ているのだから。
なんて奇跡的な事だろう。
「……ううん……お、お姉ちゃんは……最近、やっと帰り道が分かったの……色々とね」
彼女は自分の涙を拭いて、ニコリと笑うと、僕の方を見ました。
僕もゆっくり頷くと、シュマに向かって一つ提案します。
「僕らが、出口を一緒に探してあげよう。お父さんと、お母さんが……きっと待ってるからね」
「………はい」
シュマはその緑の瞳を潤ませ、そしてどこかホッとした様子でまた涙を一つ零しました。
「お兄さんと、お姉さんは、いったいどこから来たんですか?」
「………はは、遠い所から……かな」
随分、遠い遠い未来から。
この残留魔導空間が可能にした、僕らの出会い。
右手を僕に、左手をペルセリスに委ね、真ん中でてくてく歩くシュマの様子が、とても愛らしく懐かしい。
遠い過去に、だけど確かに、存在した僕らの関係。
シュマは僕とペルセリスを、とても不思議そうに見上げていました。
「お兄さんもお姉さんも……なんだかとても、父様と母様に似ています」
「……はは、そうか……そうかもだね」
「ふふ、私たちの方が若いけどね」
シュマの父と母であるユノーシスとエイレーティアより、ずっと若く見えるはずなのに、僕らに面影を抱いてくれるのはとても嬉しい。本当に嬉しい。
確かにシュマは鋭い感性を持った子供だったけど。
「お父さんとお母さん……好き?」
ペルセリスがふいに尋ねました。
「はい。大好きです……ずっと一緒に居たいです」
「………」
シュマの答えに、僕とペルセリスは少しの間瞳を細め、無言になりました。
このままシュマをあの時代に返して、それで待っているのが、あの未来なら……。
そんな、一瞬脳裏をよぎった思いが、お互い手にとる様に分かったのです。
「……そっか……」
しかし、ちゃんと分かっていました。
僕らに出来るのは、あの時代に、ユノーシスとエイレーティアの元に、無事シュマを返す事だと。
それ以上の事なんて、出来ないんだと。
四角く光る出口を見つけました。
これは、僕らが入った場所と違い、まだ子供の大きさ程しかありません。
僕らはここから出る事は出来ないのです。
「ほら……シュマ、ここからやってきたんだろう? 両親の元に帰る事が出来るよ」
「………お兄さんとお姉さんは、ここから出ないのですか?」
「僕らは……“ここ”からは出られないんだよ」
指に絡んだ糸は、全く別の方向から伸びています。
出口の次元が違うのです。
「……シュマ……っ」
ペルセリスがどうしても、彼の服の端を離しませんでした。
シュマは彼女を見上げて、そして、ぎゅっと腰元を抱きしめます。
「……お姉さん……お母さんと同じ匂いだなあ……」
「………っ」
「どうして泣くのですか? どこか痛いのですか?」
シュマにはきっと、彼女の涙の意味は分からないでしょう。
それでも、ペルセリスを心配して慰めようとしています。
ペルセリスは首を振りながら、どうしてもシュマから離れられないのです。
「……ペルセリス……駄目だよ。僕らはシュマを、ちゃんと、あの二人の元に帰さないと」
「でも……でも……っ。嫌だよ……あんな、あんな場所に、あの“棺”に、この子は……っ」
「ペルセリス!」
僕は少し口調を強めました。
ペルセリスはハッとして、揺れる瞳を僕に向けます。
僕は、ただ首を振る事しか出来ません。
何にも出来ないのです。
ペルセリスはやっとシュマから離れました。
僕はまたシュマと視線を合わせる様に屈んで、彼の頭を撫でながら、彼にはきっと良く分からない話をしました。
「……シュマ。君はとても賢い子だ。父も母も、きっと自慢だよ。だから……」
ここから先の言葉を、僕は後悔するだろうか。
「君は君の、正しいと思った事をやるんだよ。守りたいものを、守るんだよ……」
シュマはその言葉をちゃんと聞いてくれていました。
彼の強い瞳の色で分かります。コクンと頷いて、ニコリと笑いました。
「約束ですか?」
「……? うん、そうだね……約束しよう」
「だったら、ここは僕らの“約束の場所”ですね」
「………そうだね」
「約束を守ったら、ご褒美をくれますか?」
「うーん……そうだねえ……。考えておくよ」
「また会えますか?」
「……側に居るとも」
「もう一つ、良いですか?」
「……何だい?」
シュマは一つ息継ぎをして、僕に問いました。
「あなたたちは、僕の父様と、母様ですか?」
「………」
白い木々の隙間から、光が射してきました。
僕はこの空間に空という概念は無いのだと思っていたのですが、差し込む光はあったようです。
柔らかい光が、世界を照らしていきます。
そこはとても美しい、何もかもがみずみずしい、水菓子のような世界。
「……そうだったら……信じてくれるかい?」
「信じます。だって、そうだとしか、思えないから……」
「……シュマ」
そして、僕は彼から手を離しました。
シュマはまるで、またすぐ僕らに会えると思っているような様子で、僕らに手を振りながら、出口の方へ向かっていきました。
ペルセリスは、あの子を行かせたく無いのを必死で抑える様に、僕の手を握っていました。
僕もその手を握り返します。
「ご褒美、用意しておいて下さいね」
「……分かってるよ」
「約束ですよ」
「……うん、約束だね」
そうしてシュマは、僕らにその小さな手を振って、そして、光の中へ消えていきました。
四角い光の出口は、あの棺の形とどこか重なって、僕は彼が出て行くのを見送りながら、口を震わせます。
ああ……結局、僕らはあの子の運命を変える事は出来ない。
「……シュマ……さようなら……」
さようなら。
そして、ありがとう。
君は約束通り、聖域を守ろうと、母を守ろうとしたんだね。
あの混沌とした時代、小さな体を捧げてまで。
ユノーシスは知らない。
シュマと共に、約束の場所を探したあの男はまだ知らない。
知っていたら、例え自分の使命でも罪でも、そんなもの全部捨てて聖域に留まった。勇者を捜しになんて、行かなかったのに。
「……っ……」
僕とペルセリスは、少しの間その場で、ただ二人だけで泣きました。
お互い慰める言葉をかける事も無く、ただどうしようもない悔しさに身を任せ、子供の様に。お互いの手の温かさだけを救いに。
ここは約束の場所。
僕はやっと、ここに至ったんだよ……シュマ。
「あ、帰ってきた」
僕とペルセリスを、出口で迎えてくれたマキちゃんの第一声。
なんだかホッとする声です。
リエラコトンの糸は、ちゃんと僕らの次元の出口に導いてくれました。
「どうしたの……泣いたの?」
「はは」
マキちゃんは僕らの酷い顔にギョッとしたようでした。
仕方ないよ、大号泣だったんだから。
「シュマが……居たんだよ」
「……え」
「やっと分かったんだ。あの子が、この空間で、父と母に会ったと言っていた理由が。……“約束の場所”は、確かに存在したんだ」
僕はペルセリスの手を引いて、出口から降りました。
トール君が、その入口を開いていたキューブを回収します。
四角い光の口は、またとても小さいものになりました。
「どうする。この空間、さっき解析が終わったんだ。……壊そうと思えば壊せるが」
「………そうだね。残していたら、また来たくなる。会えるかもと、期待してしまう。……でも、きっとそれは良く無い」
だから、壊そう。
僕がそう言うと、ペルセリスは少し悲しそうな顔をしましたが、彼女は胸に手を当てると、何かに納得した様に頷きました。
空間の割れていく、その光の美しい事。音の高く繊細な事。
細かくなって、ガラスの粒の様にキラキラして、そして透明のミストになって高く空へ昇っていく。やがて、光の柱は全て消えていく。
僕はそれを見ながら、一つ考えていた事がありました。
ちゃんと約束を守ったシュマへのご褒美、何にしようかなって。
「ねえ……ペルセリス。僕は、シュマを……大地にかえすべきだと……思うんだ」
「………それって」
「あの子を棺から解放しよう」
「………」
ペルセリスはとても複雑な顔をしましたが、長い長い息を吐くと、またコクンと頷きました。
もう、あの子の姿を見る事は出来なくなるけど、あの子の役目は、やっと終わったんだと。
肉体はあるべき場所へとかえされるべきだ。大地へ。
あんなシステムに縛る必要は、もう無いんだから。
ペルセリスはとても疲れたような、しかしどこか安堵した表情で僕を見上げました。
「でも、今日は……あの子の側で寝ても良いかな」
「……いいよ。君は記憶が無い時から、シュマの側で、寄り添って寝ていたよね」
苔むす、緑の豊かな聖域で、その柔らかい草に顔を埋め、あの子の側で。
その様子が、僕には痛々しく見えていた時もあった。
でも、本当はもっと優しい、ただ一つの濁り無い愛情だったのに。
「ユリシスも一緒に寝てくれる?」
「……うん」
空が白くなって、朝日を迎えようと色を得る時間。
僕らはやっと、長い長い、長過ぎた一日に終わりを迎えたのです。
「おやすみ、シュマ……」
聖域に帰って、シュマの棺の隣で眠りにつく、僕とペルセリス。
目をつむり眠気に身を任せ、僕らはただ、何の夢も見る余地の無い、真っ白な眠りにつきました。
それは深い深い、僕ら家族の、解放の眠りでした。
2000年前の、まだ聖域が地上にあった頃差し込んでいた柔らかい日差しが、あの子の愛しい微笑みが、閉じたまぶたを横切っていきます。
そして遠くへ行ってしまったけれど、追う事はしません。
ただ、見送っただけでした。