生存理由相談所
人は、何のために生きているのだろう。
誰かを幸せにするため。夢を叶えるため。明日を迎えるため。
いくつもの答えが浮かぶ。けれど、それらは本当に、生きる理由と呼べるのだろうか。
理由があるから生きているのか。それとも、生きているから理由を探してしまうのか。
考え始めると、簡単には答えが出ない。
この物語に、正解はない。
ただ、答えの見つからない問いを抱えた一人の人間がいる。
彼が何を見つけ、何を見つけられなかったのか。
その時間を、少しだけ覗いていってほしい。
人間は、生きる理由を失うと死ぬ。
この国では、そう教えられている。
小学校の教科書には、そうなる仕組みについて簡単な説明が載っていた。生命活動を維持するためには、生存への意志が必要であり、それを支えるものが失われると、人間は死に至る。詳しいことはまだわかっていない。研究者の間でも意見は分かれている、と。
子どものころ、真島透はそのページを読んで、母親に聞いたことがある。
「生きる理由って、なに?」
母親は夕飯の支度をしていた。包丁の音が止まり、少し考えてから、振り向かずに答えた。
「透がいてくれることかな」
そのときは、それで納得した。
二十八歳になった今、透は自分が何のために生きているのか、わからなくなっていた。
別に、何かを失ったわけではない。両親は健在で、会社も辞めていない。友人と疎遠になったわけでもなかった。給料は毎月振り込まれ、家賃は引き落とされる。冷蔵庫には卵と牛乳があり、洗濯物は週末にまとめて洗った。
困っていることを挙げろと言われれば、いくつかは思いついた。上司の話が長いとか、隣の部屋の住人が夜中に掃除機をかけるとか、駅前の定食屋が値上がりしたとか。
どれも、死ぬほどのことではなかった。
だから、誰にも話せなかった。
生存理由相談所の案内が届いたのは、六月の終わりだった。市役所からの封筒には、健康診断のお知らせと同じような文字で、相談窓口の利用について書かれていた。利用は無料。予約優先。相談内容の秘密は守られます。
透は封筒を食卓に置いた。
その晩、カレーを食べながら、何度かそちらを見た。食べ終わるころには、封筒の角にカレーの染みがついていた。
翌朝、透はそれを鞄に入れた。
会社では経理を担当していた。請求書と帳簿を照合し、金額が合わなければ原因を探す。入力ミスなら直せばいい。数字が合わないまま処理を終えることは、基本的に許されなかった。
人生にも、そういう答え合わせがあるのだろうか。
自分が生きてきた時間を並べ、何を得たか、何を成し遂げたか、誰の役に立ったかを数えていけば、最後には正しい答えが出るのだろうか。
そんなことを考えながら、透は会社のパソコンを立ち上げた。
画面には、前日から処理している伝票が並んでいた。数字はひとつずつ確認できる。どこから来て、どこへ行くのかもわかる。
昼休みになり、透はコンビニのおにぎりを食べた。鮭と梅をひとつずつ買ったのに、梅のほうを最後まで残してしまった。理由はなかった。鮭のほうが先に食べたかっただけだ。
そういうことなら、毎日いくらでもあった。
けれど、それらを生きる理由と呼ぶことには、どうしても抵抗があった。
市役所は、駅前の大通りを十分ほど歩いたところにあった。
一階の市民課には、番号札を握った人たちが並んでいた。出生届らしい書類を持った夫婦が、窓口の前で小声で話している。杖をついた老人が、機械の前で職員に操作を教わっていた。
生存理由相談所は三階にあった。
エレベーターを降りると、壁に大きな案内板が見えた。福祉相談、生活支援、家庭相談。その一番下に、生存理由相談所とあった。
入口には観葉植物が二鉢並んでいた。片方は葉が黄色くなっていた。
受付で封筒を見せると、職員は慣れた手つきで番号札を出した。
「初回のご相談ですね。二十七番でお待ちください」
待合室には、十人ほどいた。小さな子どもを連れた女性、背広姿の男、年配の夫婦。壁のテレビでは市の広報番組が流れていた。音量は小さく、字幕だけが動いていた。
掲示板には、相談所の利用案内が貼られていた。
生存理由の確認。
理由を失った際の支援。
新たな生存理由の探索。
透は三番目の項目を見ていた。探索という言葉が、少し大げさに思えた。
「二十七番の方」
相談室にいたのは、佐伯という女性だった。四十歳くらいに見えた。机の上には記録用紙とペン、蓋の開いた水筒が置かれていた。窓際には小さな鉢植えがあったが、土の表面は乾いていた。
「今日は、どうされましたか」
透は膝の上で両手を組んだ。
「自分が何のために生きているのか、わからなくなりました」
佐伯はすぐに何かを書き始めた。
「いつごろからですか」
「最近です。たぶん」
「何か、きっかけになることはありましたか」
「特にありません」
「お仕事やご家庭で、変わったことは?」
「ないです」
佐伯は顔を上げた。
「生活そのものに、大きな不満はないんですね」
「そうですね」
「それでも、理由がわからなくなった」
透は頷いた。
佐伯は少し考えてから、尋ねた。
「今、楽しみにしていることはありますか」
透は困った。
映画は観る。友人と飲みに行くこともある。読みかけの本も一冊あった。来週は給料日だった。
「あります。でも、そういうのは、生きている間にしたいことであって、生きる理由とは違う気がします」
「どう違うと思いますか」
「映画を観たいから、明日も生きていたい。それならわかります。でも、映画を観るために生まれてきたのかと言われたら、そうじゃないと思うんです」
佐伯はペンを置いた。
「生まれてきた理由が知りたいんですか」
「それもあります」
「誰かに、生まれてきた理由を教えてもらえたら、納得できそうですか」
透は考えた。母親の顔が浮かんだ。あのとき母親が言った言葉を、今でも覚えている。
「わかりません」
「そうですか」
佐伯はそれ以上、答えを求めなかった。
相談の最後に、次回の予約を勧められた。透は予約票を受け取った。紙には日時と部屋番号が印刷されていて、下のほうに担当者の名前があった。
市役所を出ると、空が曇っていた。
入口の脇で、職員がポスターを貼り替えていた。古いポスターを剥がし、新しいものを貼る。どちらにも、ひとりで抱え込まず、ご相談ください、と書かれていた。
透はその前を通り過ぎた。
会社には、小野寺という同僚がいた。透より三つ年上で、仕事が特別にできるわけではないが、困っている人間を放っておけない男だった。透が入社したばかりのころ、経理システムの使い方を教えてくれたのも彼だった。
ある日の昼休み、小野寺は弁当の蓋を閉じて言った。
「来月、結婚することになった」
透は箸を止めた。
「おめでとうございます」
「ありがとう。式は身内だけだけどな」
小野寺は照れくさそうに笑った。
「これで仕事を辞められなくなったよ」
「辞めたいんですか」
「いや、別に。嫌なこともあるけど、まあ続けられるくらいには好きだよ」
彼はペットボトルのお茶を飲んだ。
「家も欲しいし、子どもも欲しいし。これから金がかかるからな」
「それが、生きる理由ですか」
透が聞くと、小野寺は眉を寄せた。
「急にどうしたんだよ」
「いえ、ちょっと」
「理由っていうか、楽しみだろ」
小野寺は笑って、弁当箱を袋にしまった。
「真島は考えすぎなんだよ。まあ、考えるのが仕事みたいなもんか」
その日の夕方、小野寺は透に仕事を頼んだ。
「悪い、これ明日の朝までに確認しておいてくれないか。今日、彼女と食事する約束があるんだ」
「わかりました」
「助かる。今度、飯おごるよ」
小野寺は鞄を持って帰っていった。
透は残った資料を確認した。数字の誤りをひとつ見つけ、修正した。修正前と修正後の金額を照合し、合計が一致したことを確かめた。
作業を終えると、時計は八時を過ぎていた。
帰りの電車で、透は小野寺の言葉を思い出していた。
楽しみ。
それは理由とは違うのだろうか。
小野寺は結婚を楽しみにしていた。だから仕事を続ける。仕事を続けるから給料が入る。給料が入るから家を買えるかもしれない。家があれば、子どもを育てられるかもしれない。
理由は次の理由につながっていく。
では、最初の理由はどこにあるのだろう。
電車がトンネルに入った。窓に映った自分の顔が、暗い景色の中に浮かんだ。
透は、経理の仕事を始めたころのことを思い出した。初めて自分で処理した帳簿に誤差が出て、先輩に何度も確認された。原因がわかったとき、数字はきれいに揃った。先輩は「ほらな」と言って、次の仕事に取りかかった。
あのときは、それでよかった。
人生にも、同じような瞬間があると思っていたのかもしれない。原因を見つければ、納得できる。正しい答えがわかれば、先へ進める。
けれど、人生の帳簿には、何を記入すればいいのかわからなかった。
次の相談の日、透は佐伯に尋ねた。
「人生に意味があることは、証明できるんでしょうか」
佐伯は記録用紙から目を上げた。
「誰に証明したいんですか」
「自分にです」
「証明できたら、どうなりますか」
「納得できると思います」
「何に?」
「自分が生きていることに」
佐伯は、しばらく黙っていた。
「真島さんは、何かをするとき、理由がわからなければ納得できませんか」
「仕事では、そうです。数字が合わなければ、原因を探します」
「人生も、同じように考えていますか」
「……そうなのかもしれません」
佐伯は机の上のペンを指で転がした。
「でも、数字は合わなければ困りますけど、人生はどうでしょう」
透は答えなかった。
「理由がわからないまま続けていることって、ありませんか」
透は、すぐには思いつかなかった。
やがて、ひとつだけ浮かんだ。
「日曜日に、友人の家へ行く約束をしています」
「楽しみなんですか」
「よくわかりません。頼まれたわけでもないし、断る理由もないので」
「それで、行くんですね」
「はい」
佐伯は頷いた。
「それでは、だめなんでしょうか」
透は返事をしなかった。
帰り際、佐伯の机の端にある写真立てが目に入った。海辺で笑う若い男と、今より少し若い佐伯が写っていた。
「ご家族ですか」
思わず尋ねると、佐伯は写真を見た。
「弟です。もう亡くなりましたけど」
透は、何と言えばいいかわからなかった。
「生きる理由を失ったんですか」
佐伯はすぐには答えなかった。
「そう判断されました」
彼女は写真立てを持ち上げ、裏側についた埃を指で払った。
「亡くなる少し前に、仕事を辞めたいと言っていたんです。私は、次が決まってからにしなさいと言いました。先のことを考えたほうがいいって」
「それは、普通のことだと思います」
「そうですね。私もそう思っていました」
佐伯は写真を元の位置に戻した。
「今でも、あのとき何と言えばよかったのかはわかりません。ただ、私が正しいと思ったことと、弟が必要としていたことは、同じではなかったのかもしれません」
透は写真立てを見た。
「それで、この仕事を?」
「最初は、弟のような人を助けられたらと思いました。でも、今は少し違います」
「どう違うんですか」
「人の生きる理由を、私が決めることはできないんだと思うようになりました」
佐伯は記録用紙を重ねた。
「相談に来る方は、答えを求めていることが多いです。でも、私が答えを渡してしまったら、その人が自分で考える機会を奪うことになるかもしれません」
「それでも、理由が見つからなければ死んでしまいます」
「ええ」
佐伯は、透の目を見た。
「だから、難しいんです」
それ以上、彼女は話さなかった。
透は、市役所を出てからも、その言葉を考えていた。
答えを渡せば、その人が自分で考える機会を奪う。けれど、答えを見つけるまで待っていられないこともある。
正しさと、間に合うことは、同じではない。
それは、仕事でも同じだった。締め切りに間に合わなければ、いくら正しい処理をしても意味がないことがある。反対に、間に合わせるために、十分に確認できないこともある。
人生に、締め切りがあるとしたら。
透はその考えを振り払うように、歩く速度を上げた。
日曜日、小野寺の新居を訪ねた。
駅から少し離れた住宅街にある、二階建てのアパートだった。まだ家具の少ない部屋で、小野寺の妻が紅茶を出してくれた。窓際には段ボール箱が積まれていた。
小野寺は新しい炊飯器の使い方がわからないと笑い、妻に呆れられていた。
「説明書、読んだ?」
「読んだけど、よくわからなかったんだよ」
「読んでないでしょう」
二人はそんなやり取りをしていた。
透は紅茶を飲んだ。
少し濃かった。
小野寺は近所のスーパーの話をした。駅までの道が思ったより遠いこと。家賃を抑えた分、部屋が狭いこと。来年には車を買うかもしれないこと。
話はあちこちに飛んだ。途中で小野寺の妻が洗濯物を取り込みに行き、小野寺は立ち上がってカーテンの長さを測り始めた。
透は、何をしに来たのだろうと思った。
特別な話をしたわけではない。相談を受けたわけでもない。ただ、紅茶を飲んで、他愛のない話を聞いていた。
それでも、帰るころには夕方になっていた。
玄関で、小野寺が言った。
「来てくれてありがとうな」
「いえ」
「また遊びに来いよ」
透は頷いた。
駅へ向かう道で、透は今日のことを振り返った。
意味があったかどうかは、わからなかった。
小野寺は喜んでいた。自分も、嫌な気持ちにはならなかった。紅茶は少し濃かった。カーテンの長さを測っていた小野寺は、何度もメジャーを落としていた。
それだけのことだった。
その夜、透は食器を洗いながら、ふと母親の言葉を思い出した。
透がいてくれることかな。
子どものころは、それで納得した。
今も母親は、同じことを言うだろうか。
電話をかけようとして、やめた。何を聞きたいのか、自分でもわからなかった。
しばらくして、透は市役所へ行った。
三階の待合室は以前と変わっていなかった。番号札の発券機も、掲示板も、壁の時計も同じ場所にあった。
掲示板には、新しいポスターが貼られていた。
あなたの生存理由を確認しましょう。
以前より大きな文字だった。
透は受付で番号札を受け取った。待っているあいだ、向かいの椅子に座った老人が、手帳に何かを書き込んでいた。何度もページをめくり、最後に小さく頷いた。
呼び出しの番号が表示された。
相談室に入ると、佐伯は以前と同じ机に座っていた。窓際の鉢植えは、黄色くなった葉が取り除かれていた。土の表面は濡れていた。
「お久しぶりですね」
「はい」
「今日は、何を話しましょうか」
透は椅子に座った。
「もし、生きる意味が最初から存在しないとしたら、どうなるんでしょう」
佐伯は少し考えた。
「それでも、人は何かを大切にするんじゃないでしょうか」
「なぜですか」
「大切にしたいと思うから、ではいけませんか」
透は答えなかった。
「真島さんは、どう思いますか」
「わかりません。ただ、意味がないなら、どうして探すんだろうと思います」
「探したいから、ではないんですか」
透は顔を上げた。
佐伯は、それ以上何も言わなかった。
探したいから。
それは、理由と呼べるのだろうか。
意味がなければ死ぬから、探しているのか。意味があるかどうかを知りたいから、探しているのか。意味がないという可能性が怖いから、何かを見つけようとしているのか。
自分が何を求めているのか、透にはわからなかった。
「佐伯さんは、意味がなくても探しますか」
「たぶん」
「どうしてですか」
佐伯は窓の外を見た。
「知りたいことがあると、気になってしまうので」
透は、思わず笑いそうになった。答えになっていないように思えたからだ。
けれど、佐伯はそれ以上、説明しなかった。
相談はそこで終わった。
市役所を出ると、雨が止んでいた。入口の脇に置かれた傘立てには、忘れられた傘が一本残っていた。職員がそれを取り出し、忘れ物の札をつけていた。
歩道の端に、小さな花が咲いていた。植え込みから少し離れた、舗装の割れ目だった。花びらに水滴が残っていた。
透は足を止めた。
どうして、こんな場所に咲いているのだろう。
考えかけて、やめた。
花の向こうを自転車が通り過ぎた。風で花が揺れ、水滴がひとつ落ちた。
透は駅へ向かった。
改札の手前で、携帯電話が震えた。小野寺からだった。
『この前はありがとう。また飯でも行こう』
透は画面を見つめた。
『こちらこそ。また行こう』
そう打って、送信した。
ポケットに携帯電話をしまい、改札を通った。
ホームには数人の人間が立っていた。誰かは携帯電話を見て、誰かは時計を確かめ、誰かは目を閉じていた。
電車が来るまで、あと二分あった。
透は明日の仕事を思い出した。確認しなければならない帳簿がある。昼休みには、借りた本の続きを読もうと思っていた。小野寺と食事に行く日も決めなければならない。
どれも、人生の意味と呼ぶには小さすぎる気がした。
電車がホームに入ってきた。
風が吹き、彼のズボンの裾が揺れた。
扉が開いた。
透は乗り込んだ。
窓に、自分の顔が映っていた。
電車が動き出した。
透は、次の駅までの時間を確かめようとして、携帯電話を取り出した。画面には、小野寺とのやり取りが残っていた。
もう一度読み返してから、画面を消した。
窓の外は暗かった。
顔は、まだそこに映っていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
生きる理由について考えるとき、私はいつも、何か特別な答えを見つけなければならないような気がしていました。
夢や目標、大切な人、守りたいもの。
そうしたものがあれば、生きる理由を説明できるのかもしれません。
けれど、それらを持っていても、ふと自分が何のために生きているのかわからなくなる瞬間はあると思います。
反対に、明確な理由なんてなくても、昨日と同じように朝を迎え、食事をし、誰かと言葉を交わしている人もいるはずです。
では、生きる理由とは何なのでしょうか。
この物語を書きながら、私自身もその答えを探していました。
今も、はっきりとした答えはありません。
だからこそ、この物語の最後に、ひとつの結論を置くことはしませんでした。
読み終えたあと、何かが心に残ったのなら。それが疑問でも、違和感でも、あるいは何も感じなかったという感想でも、私はうれしく思います。
この物語が、あなた自身の生きる理由について、ほんの少し考えるきっかけになれば幸いです。
改めて、ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。




