最終話 譲渡
老人は、ある日あっけなく世を去った。
季節は人の死など意に介さぬように進み、空はやけに澄んでいた。
葬儀は簡素であった。
参列者と呼べる者は数えるほどしかおらず、誰もが互いの顔を知らぬまま、黒い服の中で黙って座っていた。
東はその末席に腰を下ろし、線香の煙を眺めながら、老人が生前に語った言葉の断片を、意味もなく思い出していた。
数日後、東は弁護士から呼び出しを受けた。
遺言書は、淡々と読み上げられた。
そこには感情の起伏も、説明もなかった。
【私の有する財産のすべてを、東 純一郎に譲渡する】
東は、一瞬、自分の名を聞き違えたのではないかと思った。
しかし、それは確かに彼自身であった。
理由は書かれていなかった。
ただ、最後に短い一文が添えられていた。
「彼は、最後まで私を“先生”ではなく、一人の人間として見てくれた」
その瞬間、東の胸の奥で、何かが小さく崩れた。
教師として三十年以上、無数の評価と肩書きを背負ってきた自分が、
初めて、何者でもない存在として認められた気がしたのである。
提示された金額は、教員として生涯を終えても、想像の及ばぬものであった。
東はしばらく、それを現実の数字として受け取ることができなかった。
やがて彼は、遺された屋敷の書斎に一人で座っていた。
重厚な机の上に、書類は整然と並び、窓の外では木々が静かに揺れている。
東は考えた。
お金では、幸せは買えない。
その言葉は、かつて生徒に語った道徳の一節のように、
あまりにも正しく、あまりにも空虚に響いた。
彼はそこで、少し考え直した。
しかし、お金は、幸せそのものは買えぬが、
幸せについて考える時間を買うことはできる。
追われる必要のない時間。
正解をなぞらずに済む時間。
失敗しても、誰にも叱られぬ時間。
東は、定年後に描いていた計画を、そっと白紙に戻した。
学校も、会社も、役職も、そこには書き込まれなかった。
私は、今から、自分の人生を選ぶ。
その決意は、声に出されることなく、静かに胸の中に沈んだ。
金は、目的ではなかった。
それは、人生の終盤に差し出された、
遅れてきた「選択権」に過ぎなかったのである。
書斎には、時計の音だけが残った。
東はそれを聞きながら、初めて、時間が自分の側にあることを感じていた。
物語は、そこで静かに終わる。
教頭先生と、金持ちの老人
-完-




