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【純文学3位達成】教頭先生と、金持ちの老人  作者: 虫松


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5/5

最終話 譲渡

老人は、ある日あっけなく世を去った。

季節は人の死など意に介さぬように進み、空はやけに澄んでいた。


葬儀は簡素であった。

参列者と呼べる者は数えるほどしかおらず、誰もが互いの顔を知らぬまま、黒い服の中で黙って座っていた。

東はその末席に腰を下ろし、線香の煙を眺めながら、老人が生前に語った言葉の断片を、意味もなく思い出していた。


数日後、東は弁護士から呼び出しを受けた。


遺言書は、淡々と読み上げられた。

そこには感情の起伏も、説明もなかった。


【私の有する財産のすべてを、東 純一郎に譲渡する】


東は、一瞬、自分の名を聞き違えたのではないかと思った。

しかし、それは確かに彼自身であった。


理由は書かれていなかった。

ただ、最後に短い一文が添えられていた。


「彼は、最後まで私を“先生”ではなく、一人の人間として見てくれた」


その瞬間、東の胸の奥で、何かが小さく崩れた。

教師として三十年以上、無数の評価と肩書きを背負ってきた自分が、

初めて、何者でもない存在として認められた気がしたのである。


提示された金額は、教員として生涯を終えても、想像の及ばぬものであった。

東はしばらく、それを現実の数字として受け取ることができなかった。


やがて彼は、遺された屋敷の書斎に一人で座っていた。

重厚な机の上に、書類は整然と並び、窓の外では木々が静かに揺れている。


東は考えた。


お金では、幸せは買えない。


その言葉は、かつて生徒に語った道徳の一節のように、

あまりにも正しく、あまりにも空虚に響いた。


彼はそこで、少し考え直した。


しかし、お金は、幸せそのものは買えぬが、

幸せについて考える時間を買うことはできる。


追われる必要のない時間。

正解をなぞらずに済む時間。

失敗しても、誰にも叱られぬ時間。


東は、定年後に描いていた計画を、そっと白紙に戻した。

学校も、会社も、役職も、そこには書き込まれなかった。


私は、今から、自分の人生を選ぶ。


その決意は、声に出されることなく、静かに胸の中に沈んだ。


金は、目的ではなかった。

それは、人生の終盤に差し出された、

遅れてきた「選択権」に過ぎなかったのである。


書斎には、時計の音だけが残った。

東はそれを聞きながら、初めて、時間が自分の側にあることを感じていた。


物語は、そこで静かに終わる。


教頭先生と、金持ちの老人


-完-

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― 新着の感想 ―
お金とはなんなのか、幸せとはなんなのか、さまざまなことを考えさせられる作品でした。 老人と出会い、最後に思わぬ贈り物を手に入れた東が、残りの人生をどう生きるのか。 そこにはきっと充実したものが待ってい…
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