表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【純文学3位達成】教頭先生と、金持ちの老人  作者: 虫松


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/5

第1話 老人との出会い

【主人公】


東 純一郎 56歳

地方の公立小学校教頭。

真面目で無難、波風を立てない人生。

教員としては「良い人」

だが、管理職止まりで校長にはなれなかった

家庭はあるが、子どもは独立

妻とは会話が減り、「老後」という言葉が現実になってきた


「定年後、自分は何者になるのだろう」


それが、彼の心に巣食う問い。


======================


その老人に出会ったのは、秋の午後だった。


私は市立小学校の教頭としての仕事を終え、

駅前の古い商店街を歩いていた。


その日は、市内の町内会長への挨拶回りと、

運動会後のクレーム調整で一日が終わった。


何も、生み出していない。


そんな感覚だけが、体に残っていた。


教頭という立場は、奇妙だ。

校長ほどの決定権はなく、

担任のように子どもと向き合うこともない。


板挟みになり、

頭を下げ、

書類を回し、

角が立たないように言葉を選ぶ。


市内の町内会との調整、

保護者対応、

教育委員会からの通達。


どれも必要な仕事だと、頭では分かっている。

だが、正直に言えば——


死ぬほど、つまらなかった。


私は、黒板の前に立っていた頃に戻りたかった。

子どもたちの視線を感じながら、

分からなかった問題が分かった瞬間の顔を見る。


あの時間こそが、

教師になった理由だったはずなのに。


そんなことを考えながら歩いていると、

商店街の真ん中で立ち尽くしている一人の老人が目に入った。


白い帽子をかぶり、

上質そうなコートを着ている。


だが、その姿は、この商店街には不釣り合いだった。


まるで、別の世界から紛れ込んだ人間のようだった。


周囲の人々は、誰も声をかけない。

見て見ぬふりをして、足早に通り過ぎていく。


私は、一瞬だけ迷った。


だが、気づけば足を止めていた。


「……どうされましたか」


教頭としてでも、

教師としてでもない。


ただ、昔から染みついた習慣で。


老人は、少し驚いたように私を見て、

それから、ふっと微笑んだ。


「いや、困ったことにね。

 ここがどこだか、分からなくなってしまって」


私はスマホを取り出し、地図を確認した。

目的地を聞き、ゆっくりと、分かりやすく説明する。


子どもに話すときと、同じ口調だったかもしれない。


それだけの、他愛のない親切。


だが老人は、何度も礼を言い、

最後にこう言った。


「もしよければ、君の時間を少し、もらえないだろうか」


断る理由はなかった。


どうせ、家に帰っても、テレビをつけて、黙って夕飯を食べるだけだ。


それが、すべての始まりだった。


彼の家は、街外れの高台にあった。


門をくぐった瞬間、私は自分の判断を後悔しかけた。


敷地は、私の知る“家”の概念を、軽く超えていた。


手入れの行き届いた庭、静まり返った空気、

音すら吸い込むような砂利道。


町内会の集会所とは、あまりにも違う。


玄関の扉は、私の肩幅ほどもある重厚な木製で、

取っ手は金属なのか石なのか、見ただけでは分からない。


中に通されると、高い天井、柔らかな絨毯。


壁に掛けられた絵画は、値段を想像することすら、無礼に思えた。


私は、自分の安物の革靴が、この家の空気を汚しているような気がして、

足元ばかりを見ていた。


場違いだ。


教頭という肩書きが、ここでは、何の意味も持たない。


老人は、そんな私の様子を見て、どこか楽しそうに言った。


「緊張する必要はない。 ここにあるものは、すべて“余った結果”だから」


その言葉の意味は、そのときの私には、まだ分からなかった。


紅茶が運ばれ、私たちは向かい合って座った。


老人は、しばらく黙ってから、唐突にこう切り出した。


「私はね、もう長くない」


教室で、問題児の突然の一言に教壇で立ち尽くしたときと、

同じ感覚だった。


「医者には、余命一年と言われている。

 悪いが、同情は要らない。 むしろ、ようやく終わると、少し安心している」


淡々とした口調。

恐怖も、悲しみも、そこにはなかった。


「友人はいない。 家族もいない。

 金はあるが、話し相手がいない」


そう言って、彼は私を見つめた。


「なぜ、君を呼んだと思う?」


私は答えられなかった。


「道に迷った老人に、損得なく声をかけた。

 それだけで十分だ」


私は戸惑った。


町内会の調整も、保護者対応も、

いつも損得と立場を考えていた自分が、なぜここにいるのか。


老人は続けた。


「君には、素質がある。だが、磨かれていない。

 金持ちになる素質だ」


思わず、苦笑が漏れた。


教頭の給料で、定年まであと数年。


そんな私に向かって、冗談だろうと思った。


だが老人は、静かに言った。


「金持ちは、最初から金を持っているわけじゃない。 まず、“考え方”を持つ」


そうして彼は、第一の講義を始めた。


「まず、ケチになりなさい」


その言葉を聞いたとき、私はなぜか、

久しぶりに“授業を受けている”気分になっていた。


それが、定年を目前にした教頭・東純一郎の人生を、

静かに揺らし始めた瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ