第1話 老人との出会い
【主人公】
東 純一郎 56歳
地方の公立小学校教頭。
真面目で無難、波風を立てない人生。
教員としては「良い人」
だが、管理職止まりで校長にはなれなかった
家庭はあるが、子どもは独立
妻とは会話が減り、「老後」という言葉が現実になってきた
「定年後、自分は何者になるのだろう」
それが、彼の心に巣食う問い。
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その老人に出会ったのは、秋の午後だった。
私は市立小学校の教頭としての仕事を終え、
駅前の古い商店街を歩いていた。
その日は、市内の町内会長への挨拶回りと、
運動会後のクレーム調整で一日が終わった。
何も、生み出していない。
そんな感覚だけが、体に残っていた。
教頭という立場は、奇妙だ。
校長ほどの決定権はなく、
担任のように子どもと向き合うこともない。
板挟みになり、
頭を下げ、
書類を回し、
角が立たないように言葉を選ぶ。
市内の町内会との調整、
保護者対応、
教育委員会からの通達。
どれも必要な仕事だと、頭では分かっている。
だが、正直に言えば——
死ぬほど、つまらなかった。
私は、黒板の前に立っていた頃に戻りたかった。
子どもたちの視線を感じながら、
分からなかった問題が分かった瞬間の顔を見る。
あの時間こそが、
教師になった理由だったはずなのに。
そんなことを考えながら歩いていると、
商店街の真ん中で立ち尽くしている一人の老人が目に入った。
白い帽子をかぶり、
上質そうなコートを着ている。
だが、その姿は、この商店街には不釣り合いだった。
まるで、別の世界から紛れ込んだ人間のようだった。
周囲の人々は、誰も声をかけない。
見て見ぬふりをして、足早に通り過ぎていく。
私は、一瞬だけ迷った。
だが、気づけば足を止めていた。
「……どうされましたか」
教頭としてでも、
教師としてでもない。
ただ、昔から染みついた習慣で。
老人は、少し驚いたように私を見て、
それから、ふっと微笑んだ。
「いや、困ったことにね。
ここがどこだか、分からなくなってしまって」
私はスマホを取り出し、地図を確認した。
目的地を聞き、ゆっくりと、分かりやすく説明する。
子どもに話すときと、同じ口調だったかもしれない。
それだけの、他愛のない親切。
だが老人は、何度も礼を言い、
最後にこう言った。
「もしよければ、君の時間を少し、もらえないだろうか」
断る理由はなかった。
どうせ、家に帰っても、テレビをつけて、黙って夕飯を食べるだけだ。
それが、すべての始まりだった。
彼の家は、街外れの高台にあった。
門をくぐった瞬間、私は自分の判断を後悔しかけた。
敷地は、私の知る“家”の概念を、軽く超えていた。
手入れの行き届いた庭、静まり返った空気、
音すら吸い込むような砂利道。
町内会の集会所とは、あまりにも違う。
玄関の扉は、私の肩幅ほどもある重厚な木製で、
取っ手は金属なのか石なのか、見ただけでは分からない。
中に通されると、高い天井、柔らかな絨毯。
壁に掛けられた絵画は、値段を想像することすら、無礼に思えた。
私は、自分の安物の革靴が、この家の空気を汚しているような気がして、
足元ばかりを見ていた。
場違いだ。
教頭という肩書きが、ここでは、何の意味も持たない。
老人は、そんな私の様子を見て、どこか楽しそうに言った。
「緊張する必要はない。 ここにあるものは、すべて“余った結果”だから」
その言葉の意味は、そのときの私には、まだ分からなかった。
紅茶が運ばれ、私たちは向かい合って座った。
老人は、しばらく黙ってから、唐突にこう切り出した。
「私はね、もう長くない」
教室で、問題児の突然の一言に教壇で立ち尽くしたときと、
同じ感覚だった。
「医者には、余命一年と言われている。
悪いが、同情は要らない。 むしろ、ようやく終わると、少し安心している」
淡々とした口調。
恐怖も、悲しみも、そこにはなかった。
「友人はいない。 家族もいない。
金はあるが、話し相手がいない」
そう言って、彼は私を見つめた。
「なぜ、君を呼んだと思う?」
私は答えられなかった。
「道に迷った老人に、損得なく声をかけた。
それだけで十分だ」
私は戸惑った。
町内会の調整も、保護者対応も、
いつも損得と立場を考えていた自分が、なぜここにいるのか。
老人は続けた。
「君には、素質がある。だが、磨かれていない。
金持ちになる素質だ」
思わず、苦笑が漏れた。
教頭の給料で、定年まであと数年。
そんな私に向かって、冗談だろうと思った。
だが老人は、静かに言った。
「金持ちは、最初から金を持っているわけじゃない。 まず、“考え方”を持つ」
そうして彼は、第一の講義を始めた。
「まず、ケチになりなさい」
その言葉を聞いたとき、私はなぜか、
久しぶりに“授業を受けている”気分になっていた。
それが、定年を目前にした教頭・東純一郎の人生を、
静かに揺らし始めた瞬間だった。




