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百渡し

作者: 星賀勇一郎
掲載日:2025/10/14





喜兵衛は櫂を持ち、舟縁に座った。

そして腰に下げた煙管を取り出すと咥えた。


お天道様が西に沈み、半時もすると辺りは薄暗くなり、もちろんこの川も真っ暗になる。

向こう岸の舟着場に立てた灯籠に火をつけ、その明かりに向かい舟を漕ぐ。

帰りはこっち側に灯した灯籠に向かい舟を漕ぐ。


そうやって朝、百人、昼、百人、夜、百人と決めて、この渡しで舟を出していた。

少し下流にある渡し舟よりは少し高い。

下流の舟は三文。

しかし喜兵衛の渡しは人は五文。

馬は十文。

それでも付近に橋も無く、利用客も多かった。

朝の客は日が暮れる前にまた喜兵衛の渡し舟に乗り戻って来る。

朝、百人乗せると、帰りも百人の客が見込める。

しかし夜の客は訳ありが多い。

行ったきり帰って来ない客も多く、関所を通らずに北へと向かう為に乗り込んで来る客も多い。

それでも喜兵衛は乗せてくれるという噂になっている様子で、日が暮れてからの客も多くある。


人なんて表に出せない顔の一つや二つはあるもんだ……。


喜兵衛は常日頃からそう思っている。

現に喜兵衛も向こう岸の未亡人と良い仲になってしまった事もある。

その未亡人もどこかの金持ちと所帯を持ったらしく、何も言わずにいなくなった。

久しぶりに訪ねると未亡人の住む家は蛻の空で、「人の妻になった故、さようなら」と書いた置手紙が古びた畳の上に置いてあった。

喜兵衛はその手紙に苛立って、情事を重ねたその部屋で千摺りをかいて帰って来た。


「よお、喜兵衛」


そう言って舟着場に手提灯を持って藤次郎が立っていた。


喜兵衛は煙管の火種を舟縁で叩いて川に落とすと立ち上がった。


「藤次郎の旦那……」


「休憩中すまないね……」


藤次郎はそう言うと袂から五文を取り出して喜兵衛に渡した。


「ちょっと向こう岸に野暮用でね……」


藤次郎が野暮用と言って喜兵衛の舟に乗る時は女郎屋に行く時だった。


「また山椿のところですかい。入れ込んでますね……」


喜兵衛はニヤリと笑って、舟尻に立った。


「いい女なんだよ。相性も良くてね……」


藤次郎は隠すでもなく、喜兵衛にそう言うと、舟先に座った。


「安い女郎屋は病気も流行ってるって言うんで旦那も気を付けて下さいよ」


喜兵衛は舟着場を櫂で突いて、舟を出した。


「大丈夫だよ。山椿はちゃんと客も選んでるんだ。それに……」


藤次郎は懐から煙管を出して咥えた。


「山椿が病気持ちなら、俺も当に病気もらってるよ」


そう言うと二人で声を上げて笑った。


「悪いけどよ、また女房には内緒で頼むぜ」


喜兵衛は藤次郎の女房を毎朝乗せて、向こう岸まで渡していた。

向こう岸に綿打ち場を持っていて、そこで何人も雇って綿を打つ。

藤次郎の家は何代も続く蒲団屋だった。


喜兵衛は頷いて、


「先日の口止め料の鰻はもうとっくに糞になってますんで……」


そう言う。


「わかったよ。今度また鰻買って来るからよ……」


喜兵衛の舟は川の中央まで出ていた。

この辺りが一番流れが速く、少し気合いを入れて舟を漕ぐ必要があった。

櫂を持つ手に力が入る。

その流れを越えると後は惰性で向こう岸の舟着場まで行く事が出来る。


「しかし、春だって言うのにまだ寒いな……」


藤次郎は袂を合わせて煙管の火種を川に捨てる。


「陸奥の方ではまだ雪が残っているって、昨日乗せた旅の男が言ってましたよ」


喜兵衛は櫂を操り、舟着場に舟先を向ける。


「そうだろうな……。今年は寒かったからな……」


舟先が舟着場にコンと当たり、喜兵衛は櫂を川底に突いて舟を止めた。


「いい夢、見て来て下さい」


喜兵衛は藤次郎にそう言うと卑猥な指先を見せる。


「おう。全部出してくるよ」


藤次郎も同じ様に卑猥な指先を見せて手提灯を片手に跳ねる様に舟を降りた。

そしてそのまま土手を登ると見えなくなった。


藤次郎が女郎屋で遊んでいる事は、女房のおしんは知っている。

自分も綿打ち場で雇っている若い男、圭介と出来ているモンだから文句を言わないだけだった。


世の中、どうなっちまってるんだ……。


喜兵衛は舟を繋ぐと、舟着場に下りて橋の方で川に向かって立ち小便をした。

ふと振り返ると腰に太刀を指した浪人風の男たちが土手を下って来た。


「三人だ」


男の一人がそう言う。


「十五文です」


喜兵衛は縄を解きながら言う。


「高いな……川下じゃ十文でお釣りが来る」


「うちは少し高いんですよ……」


喜兵衛がそう言うと男は舌打ちして喜兵衛に十五文を渡した。


「おい、こっちだ」


男の声を合図に二人の男が大きな薦袋を引き摺りながらやって来た。


「ちょ、ちょっと待って下さい」


喜兵衛は男に言う。


「何だ……」


喜兵衛は舟着場に置かれた薦袋を指差した。


「これは何ですか……」


男たちは顔を見合わせる。


「単なる荷物だ……。お前さんには関係ない」


そう言うと舟に積み込もうとする。


「待って下さい、旦那……」


「何だよ……。荷物の舟賃払えば良いのか」


男はそう言うと袖に手を入れた。


「いや、そういう問題じゃないんです。中身は何なんですか……。それによっちゃ舟には乗せれませんので……」


喜兵衛は舟着場に張られた板を見た。

薦袋から漏れる黒い液体が滲んでいた。


「貴様も斬り殺してやろうか……」


薦袋を持った浪人が腰の刀に手を掛ける。

それを先に舟に乗り込んでいた男が止めた。


「あっしもお上に逆らうと商売なんて出来ないモンでして……」


喜兵衛の言葉に男は頷く。


「お前さんの言う通りだ」


男はそう言うと更に五文を喜兵衛に渡した。


「もう一人分払う……。それで文句は無いだろう……」


喜兵衛はその男の陰から薦袋を見た。


「その人、生きてるんですかい……」


「何……」


男は喜兵衛を睨んだ。


「棺桶を乗せる時は二十文頂いてますんで……」


喜兵衛は掌の上で受け取った五文をチャリチャリと鳴らした。


「貴様、斬る」


刀に手を掛けていた浪人が鈍く光る刀を抜いて構えた。


「止めないかマサ」


銭を払った男がまた、その浪人を止めた。


「帯刀してる男三人に一歩も引かねえんだ。刀見せたくらいで怖気づく筈もねえ」


男はそう言うとまた銭を出した。


「すまなかったな……。お前さんも商売だからな……」


男は残りの十五文を喜兵衛に渡した。


「舟、血で汚しちまうけど、良いか……」


喜兵衛は頭を下げて、


「馬が舟の上で糞をする事もありますんで」


そう言って舟尻に櫂を持って立った。


浪人の男はニヤリと笑うと二人の男に顎で合図して舟に薦袋を乗せた。


「人の血も馬の糞か……」


男はそう言うと舟板の上に座った。


喜兵衛は舟をゆっくりと川の流れの中に出す。

三人の男たちは小声で何かを話していたが、喜兵衛には聞き取れなかった。

それで良い。

危ない話は聞かないに限る……。

さっきより少し重い舟を漕ぎながら喜兵衛は流れの速い場所を越えた。

そしてゆっくりと岸へと舟を寄せた。

袋を下ろしやすいように舟の腹を舟着場に着ける。


男たちは薦袋を舟着場に下ろすと、喜兵衛に声をかけた。


「悪かったな……。また使わせてもらうよ」


男は喜兵衛の肩をポンポンと叩くと、今度は三人で向こう岸よりも険しい土手を上って行った。


男たちが見えなくなると喜兵衛は手桶に川の水を汲み、血で汚れた舟着場の板と舟の甲板に水を流し、血の跡を束子で擦った。


時間が経つと取れないからな……。


喜兵衛はそれが終わると手桶と束子を舟先の下に入れた。


煙草でも吸おうと思い煙管を出すと、向こう岸で松明を振るのが見えた。

対岸にいる舟を呼ぶ時には松明を振る。

渡しでは常識だった。


喜兵衛は溜息を吐き、腰に煙管を戻した。


「はいはい……。今、行きますよ……」


縄を解くとゆっくりと舟は川へと出て行く。


人を乗せていない軽い舟は安定しない。

少し揺れる舟を漕ぎながら喜兵衛は一気に、対岸の舟着場へと舟を寄せた。

そこには綺麗な着物を着た女が立っていた。

そして舟が舟着場に着くのと同時に乗り込んで来た。


「いくら……」


女はぶっきら棒にそう訊くと握った銭を喜兵衛に渡した。

喜兵衛は掌の銭を数える。


「お客さん……多いですよ……」


女は舟板に座り、顔を隠す様に頭巾を巻く。


「あげるわ……。それより早く出して……」


喜兵衛は小さく頭を下げると舟を出した。

川の真ん中辺りまで来ると、土手の上を松明を持った数名の男が走ってくるのが見えた。

女はしゃがみ込み、見えない様に姿を隠した。


土手の男たちは更に先へと走って行った。


「追われてるんですかい……」


喜兵衛は櫂を漕ぎながら女に訊いた。


女は振り返り、男たちの姿が見えないのを確認して舟板に座り直した。


「あたいが何枚も起請を書いたモノだから、男たちが怒って追いかけて来たのよ」


今、浅草辺りで流行っている話を女は口にしていた。

喜兵衛は女の言葉にクスクスと笑い、


「面白いですね……」


そう言ってまた櫂を漕いだ。


「嘘で起請を書く時は、熊野で鴉が三羽死ぬってヤツでしょ」


どうやら上方で流行っていた落語というモノらしい。

喜兵衛も好きで何度か聞きに行った事があった。


「あら、学のある船頭さんなのね……」


女はそう言うと喜兵衛の傍に来て、膝を抱えて座り直した。


「あんた、独り身……」


「ええ、こんな商売してるとね……。その日暮らしなモンで……」


女はそれを聞いて更に近付く。


「じゃあさ、今晩だけでも良いから、私を泊めてくれない……」


喜兵衛は首を傾げて、


「いやぁ、汚ねぇあばら家なんで……」


そう言う。


「そう……。これでもダメかしら……」


女は着物の裾を捲り、脚を広げた。

暗くて何も見えないのだが、喜兵衛は自然と生唾を飲み込んだ。

未亡人に逃げられてもう一年程になる。

その間、一度も女を抱いていない。

自然と喜兵衛の体は前かがみになって行く。


「もう少し仕事があるんですよ……」


そんな理由で女の誘いを断るつもりは更々なかった。

少し待って欲しいと喜兵衛は言いたかったのだった。


「良いわ……。あの小屋で待ってるわ……」


女は舟着場の傍にある道具を入れるための小屋を指差した。


「朝になるかもしれねぇぞ……」


喜兵衛は櫂を川底に突いて、舟をゆっくりと舟着場に寄せた。


「良いわよ……朝寝は得意だから……」


そう言うと女は舟を降り、その小屋の方へと歩いて行った。

建付けの悪い戸を引くと喜兵衛に手を振りながらその小屋の中に入った。


何だい……。

俺にもツキが回って来たのか……。

あんないい女と出来るなんてよ……。


喜兵衛の顔はほころんで行った。


喜兵衛は舟を繋ぎ、珍しく土手の上まで登ると客を引いた。

向こう岸に渡りそうな客に声を掛ける。

数名の客を拾うと舟を出して向こう岸へと渡した。

酔っ払っている客は川を渡ったところにも数軒の飲み屋がある事を知っていて、喜んで向こう岸に渡って行った。


対岸で松明を振るのが見え、喜兵衛は慌てて舟を出した。

乗せた客を降ろすと同時に三人の男が乗り込んで来た。


「この舟で対岸に渡ったとしか思えませんね」


一人の男が小声で言った。

男たちはその言葉に頷く。


「おい船頭……」


喜兵衛は櫂を動かしながら振り返った。


「はい……」


「この舟に若い女を乗せなかったか……。綺麗な着物を着た女なのだが……」


喜兵衛はあの女の事を言っている事がわかった。


「ああ、乗せましたよ……」


「何だと……」


男たちは騒ぎ出した。


「おかしな事を言うお客さんでしたね……。この川の半ばまで来た時に、引き返せって言うんですよ……。何処かへ行こうと思ったが、考えてみると自分には身寄りもなければ、知り合いも無い。逃げようにも逃げる事が出来ないんで、引き返したいってね……」


男たちは身を乗り出す。


「それで」


喜兵衛はニッコリと笑うと、


「はい、川の真ん中辺りで折返しまして、先程の舟着場で降ろしました」


男たちは舟着場に目をやる。


喜兵衛は櫂を漕いだ。


「あっしとしては渡し賃ももらっているんで、どっちでも良かったんですけどね……」


二人の男が騒ぎ出す。

それを喜兵衛の一番近くに座っていた男が制した。

そしてゆっくりと立ち上がると喜兵衛の顔に顔を寄せた。


「何ですか……」


喜兵衛は迷惑そうに顔を背けた。


「船頭……。お前、嘘ついちゃいねぇだろうな……」


男はドスの聞いた声で言う。


「嘘……。嘘なんてそんな……。珍しい事言うお客さんだったんで、覚えてただけですよ……」


喜兵衛は微笑んだ。


男は喜兵衛を舐める様に見て小さく何度か頷いた。


「わかった。船頭……。悪いが俺たちも引き返してくれ……。向こう岸に用が無くなった」


男はそう言うと舟板に座った。

喜兵衛は返事をして舟を回した。


「そのお客さんがどうかしたんですかい」


喜兵衛は舟の先を帰しながら男に訊いた。


「ああ、女郎屋の女なんだが、どうやら性質の悪い客に梅の毒を貰ったらしいんだ。女郎屋の女将が明日、医者に連れて行こうとしたところ、逃げ出した」


喜兵衛は手を止めた。

男は苦笑しながら喜兵衛を見た。


「そんな女を野放しにすると梅の毒が世間に広がっちまう……。女郎屋としても、そんな病気の女が出たとなると商売出来なくなっちまうからな……」


舟はゆっくりと舟着場に着いた。

男たちは腰を上げると舟を降りた。


「あんたも女拾ってもやるんじゃないぞ……。梅の毒なんてもらってみろ……俺も見た事は無いが、鼻が取れちまうらしいからな……」


男たちはそう言うと舟着場を離れて土手を上って行った。


おいおい……。

やる前で良かったよ……。


喜兵衛は無意識に向こう岸で待つ、女の居る小屋を見た。


「おう、喜兵衛」


袖に手を入れて跳ねるように歩いて来る藤次郎の姿が見えた。


「ああ、旦那……」


少し酔った藤次郎はご機嫌で舟に乗り込んで、喜兵衛に銭を渡した。


「おう、今日も良かったよ……」


藤次郎はニコニコ笑って何度も喜兵衛の腕を叩いた。


「提灯とお前に渡す鰻、女郎屋に忘れて来ちまったけどな」


藤次郎はそう言うと声を上げて笑った。


「何んもかんも忘れちまう程良いんですねぇ。山椿って娘は……」


喜兵衛はそう言うと舟を出す。


「いや、それがな……。今日はお馬の日だったのか山椿は店に出て無くてな……。代わりにあてがわれた娘がまた可愛くてよ……」


喜兵衛は鼻の下を伸ばしながら話す藤次郎を見て苦笑した。


結局、誰でもいいのかよ……。


喜兵衛はそう思うと滑稽になり笑った。


「あ、喜兵衛、お前、結局誰でも良いのかって思っただろ」


藤次郎は身を乗り出す。


「いえ……。そんな事……」


喜兵衛はそう言いながら櫂を漕ぐ。


「いいや、思った筈だ。まあ、俺がそう思ってるんだから、それで良いんだけどな……。穴がありゃそれで良いんだよ」


藤次郎はそう言うと声を出して笑った。


「それより、鰻、忘れてきちまったけど、女房には内緒で頼むよ……」


「はいはい……。わかりましたよ……。次は二段重ですからね」


喜兵衛は舟着場に舟を寄せる。


「喜兵衛には敵わんな……」


そう言うと藤次郎は舟を飛び降りた。

その時、小屋の戸がガタッと揺れた。


「ん……なんだ……」


藤次郎は周囲を見渡す。


「ああ、大方、猫かなんかでしょう……。最近、この辺り多くて……」


喜兵衛は慌ててそう言う。


「そうか……。子猫ちゃんか……」


藤次郎はまた跳ねながら土手を上って行った。


「じゃあ、また頼むよ」


そう言って手を振りながら帰って行った。


喜兵衛は溜息を吐くと舟を繋いで、小屋を見た。

そして小屋の傍に立つ。


「おい……」


そう声を掛けるとゆっくりと小屋の戸が開いた。


「さっきの藤次郎さんでしょ……。びっくりしたわ……」


喜兵衛は藤次郎が去った土手の上を見た。


「あんたが山椿か……」


女は微笑むと腕を組んだ。


「あら、私って有名なのね……」


喜兵衛は小さく頷くと、


「梅の毒もらったんだって……」


山椿は顔色を変える。


「は……。何言ってんのよ……」


「さっきの男たちが教えてくれたよ……」


喜兵衛は対岸を指差した。


「あんたの梅の毒を治すために医者に連れて行くのから逃げて来たんだって」


「ちょ、ちょっと待ってよ……あんた一体何を言ってるの……」


喜兵衛は女を睨む。


「危ねぇ、危ねぇ……梅の毒、うつされるところだったよ……」


女は何かを言おうとして止めた。

そして小さく頷く。


「学のある船頭だと思ったけど、案外馬鹿なのね……」


女はそう言うと小屋を出た。


「がっかりだわ……」


喜兵衛は息を吐くと杭の上に座り煙管を咥えた。


「あたいが梅の毒に犯されてたら、一体何人の客にうつしてると思ってるのよ……。ううん、客だけじゃない、藤次郎の嫁も、その嫁の若い男も、船頭だって……」


女はそこで言葉を詰まらせた。


「藤次郎の嫁を抱いている船頭ってもしかしてあんたの事だったのね……」


喜兵衛は振り返り山椿を見た。


山椿は喜兵衛を見て鼻で笑った。


「あたいがもしそうなら、あんたも既にうつってるわよ……。お気の毒さま……」


喜兵衛はゆっくりと立ち上がった。


「どうして藤次郎の女房を抱いたの知っているかって訊きたいんでしょ……」


喜兵衛は何も言葉を発する事が出来ずにただ、山椿の腕を掴んだ。


「簡単よ……。藤次郎が話してくれたのよ……。彼はね、全部知ってるのよ。だから寂しくて遊びに来るのよ……。あんたたちは藤次郎が何も知らない馬鹿だって思っているのかもしれないけどさ、彼は全部知ってるのよ」


山椿は声を荒げてそう言った。


喜兵衛はもう藤次郎に会わせる顔が無いと項垂れた。


「自分の女房が男好きで、あちこちで抱かれてる事を嘆いてたわ……。もしあたいが梅の毒なら、あんたの村は梅の毒だらけだわ……」


喜兵衛は山椿の腕を掴む手を離した。


「やっぱりここにいたか……」


土手の上からそんな声がした。

さっき対岸で降ろした山椿を追う男たちだった。


「ちっ……」


喜兵衛は舌打ちして立て掛けた櫂を手にした。

そして山椿を庇う様に自分の後ろに立たせた。


「あんた……名前は……」


喜兵衛は小声で山椿に訊いた。


「山椿……」


そういう山椿の言葉に被せる。


「そうじゃなくて……。本当の名前だ」


山椿はジリジリと近付いてくる男たちを警戒しながら、


「加代……」


とだけ答えた。


「加代……。舟に乗れ……」


喜兵衛は櫂を男たちに構えた。


「でも……」


「いいから乗れ」


喜兵衛は大声で言う。

喜兵衛の背中に隠れながら、山椿は舟に飛び乗った。

その際に大きく舟が揺れる。


「船頭……。邪魔するな……」


男は声を荒げた。

刀を抜いた三人の男が喜兵衛に向かってその剣先を向けていた。


無理か……。


櫂を握る喜兵衛は男たちを睨んでいた。


「船頭、すまんがもう一度向こう岸へ渡してくれぬか……」


土手の上でそんな声がした。

先程薦袋を引き摺っていた浪人たちだった。


男たちは囲まれている喜兵衛に気付き、薦袋を置いて土手を駆け下りて来た。

そして刀を抜き、三人の男たちに構えた。


「何だお前ら……」


三人は浪人たちに刀を構え睨みつけた。


「この船頭でないと我らは対岸に渡れんのでな……」


浪人はそう言うとニヤリと笑った。


「船頭、死体が一つから四つに増えても構わんか……」


喜兵衛はゆっくりと舟に乗り、縄を解いた。


「四つだと八十文だ……」


「ちっ、ちゃっかりしてやがる……」


浪人はそう言うと歯を見せた。


その隙に喜兵衛は舟着場を蹴って舟を出した。


「貴様」


一人の男が川に入り舟を追いかけた。

残りの二人は浪人たちにあっと言う間に斬られてしまった。


舟の縁にしがみ付く男は手に持った刀を振り回す。

その刀に喜兵衛は櫂を振り下ろした。

あっけなくその刀は折れてしまった。


「なまくらか……」


喜兵衛がそう言うのと同時、山椿が舟にあった手桶を男の頭に振り下ろした。


「貴様ら……」


男はそう声を発したが、そのまま川の底に沈んで行った。


喜兵衛は驚いて山椿を見た。

そして笑った。

 





喜兵衛は舟着場に戻り浪人たちに礼を言った。


「船頭……。お前何やってんだよ……」


浪人は喜兵衛を見てニヤリと笑った。


喜兵衛も微笑み返すと、舟を降りた。


「この川の真ん中辺りは深くて流れも速い。そこなら死体を沈めてもすぐには見つからない。上手くいけば海まで流れる」


浪人はその言葉に頷き、後ろに立つ二人に顎で合図した。


喜兵衛は振り返り山椿、いや、加代を見た。


「加代……。行くところが無ければ俺のところに来い。そして俺と暮らせ……」


喜兵衛の言葉に加代は息を吐いた。


「仕方ないわね……」


加代はそう言って微笑んだ。


舟に死体を積み込んでいる浪人が顔を上げて喜兵衛に言う。


「まさか、これも銭取るのか……」


喜兵衛は微笑みながら、


「ああ、今、女房が出来たんでな……」


そう言った。








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