Ⅷ Dr Jekyll and Mr Hyde
渡辺昴:日本人の留学生、21歳。霊感がある。文学が好き。
アーサー・スティリア:イギリス人、半分吸血鬼で半分人間。大学の監督生。学年は昴の一つ上だが実年齢は不詳。街はずれにある古くて大きな洋館に一人で住んでいる。
ルイス・ガルニエ:フランス人留学生(建前)、年齢不詳。狼男でアーサーに仕えている。学年はアーサーと同じ。
翌日、ハイパー高級車で森の洋館に連れて行かれていた昴は、初めて足を踏み入れる厨房にいた。厨房のサイズも全体的に規格外で、どこかのレストランかと見間違える広さをしていた。
「…じゃあ、食器の片付けをお願い」
「……これ、すぐ終わりますよ」
昨日の約束通り、掃除等の手伝いをやらせてもらえる筈だったのだが、渡された仕事は食器の片づけという単純作業だった。
想像していたのは拭き掃除や掃き掃除、ちりとりやモップがけ、食器洗いなどであるというのに、まるで小学生夏休みのお手伝い、である。こんなの数秒で終わる、例え見知らぬ皿だとしてもそんなに時間はかからない。なめられたものである。
「まあ、種類も多いから、案外時間かかると思うよ」
「……わかりました」
とはいえ、割り当てられた仕事に文句を言うのも筋違いである。
昴はとりあえず観念して、目の前の皿を神経衰弱の如く棚に戻す作業に没頭することにした。
時刻は18時丁度。昨日より早めに学校が終わったので、この洋館に来たのも少し早めだった。ルイスはこれから夕食の支度をするらしく、手際よく野菜を準備したり鍋を用意したりしている。
皿を棚に戻していると、一箇所だけ異様な棚を見つけた。
「うわ…」
思わず声が出てしまう。
広い厨房の入り口付近に置かれた食器棚は、二人が使うというのには随分と多すぎる食器を収納していたが、その中の一箇所には全面ティーカップの置かれている区画があった。
基本は白を基調としたティーカップなのだが、縁が青く模様を描かれていたり、金の意匠が施されていたり、綺麗な花が描かれていたりと様々だった。
思わず手を止めて観察していると、後ろから声をかけられる。
「それ、全部坊ちゃんのコレクションだよ」
「コレクション…」
「そう、ティーカップを集めるのが趣味みたいで、出先では必ず買ってるからね」
随分とお洒落な趣味である。
確かに、昨日も紅茶を飲んでいたし、吸血鬼とはいえイギリス人ということなのであれば紅茶が好きなのだろうか。
というか、今更だが吸血鬼なんだから血を飲むのではないのだろうか。
「そういえば、スティリアさんは血は飲むんですよね?」
ふと気になって口にした他愛もない質問だったのだが、何故かその言葉に対してぴりっと空気がひり付いた感覚がした。しかしそれも気付かないほどの一瞬の間のこと、返答が無いことに少し不思議に思い振り返った昴の眼にルイスのにっこりとした微笑みが映った。
「坊ちゃんはアッサムが好きなんだよ」
何事も無いかのようにルイスはそう言って鼻歌を歌いだす。
(…何かあんのかな)
直感的にそう感じた。
何か、特殊な事情があるのだろう、そもそも吸血鬼からすれば吸血対象は間違いなく人間だろうし、その捕食対象である私に軽々しく内容を喋る必要もないのかもしれない。
「あっさむ…」
昴は何事もなかったかのように会話に戻った。
聞きなれない単語だが、確か、紅茶の種類だったような気がする。昴はそれほど紅茶に明るくないので、ダージリンくらいしかわからない。
ルイスの言葉を聞きながらティーカップをまじまじと眺めていると、そんな様子を見ていたルイスから不意に提案をされる。
「あ、じゃあ今からミルクティー作るから、坊ちゃんに持っていってあげてよ」
「…え」
ルイスの提案に露骨に嫌そうな声を出してしまう。その声のトーンが伝わったらしく、ルイスは少し苦笑を浮かべながら冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「手伝いの一環だよ、今は自室にいるはずだからさ、あいつ定期的にミルクティー飲まないと禁断症状起こすから。お願いね」
「…………わかりました」
その手を使われてしまうとこちらは何も言えなくなる。私は苦虫を嚙み潰したような顔をして渋々了解をした。
ルイスは私の返事を見てお得意のウインクを飛ばしながら、手際よく小鍋に牛乳をいれ、棚から何やら茶葉を取り出し煮立て出す。
「じゃあ、そこから昴の好きなティーカップ選んで」
「え…拘りとか、無いんですか?」
「いつも違うので飲んでるよ。なんでも大丈夫だから、好きなの選んで」
急にそんなことを言われても困るのだが。
昴はまた食器棚に向き合い、真剣にティーカップを眺め出す。ざっと見ただけで五十以上はあるこれらの中から好きなのを選んでと言われても、難しい問題である。
しかし、悩んでいても答えなどないだろう。昴は一通りティーカップを眺め、一つだけ手に取ってルイスの下へ持っていった。
「…おや、これにしたんだ」
「目の前にあったので」
ルイスは私が持って行ったティーカップを見て少しだけ鼈甲色の眼を見開く。
単純に目の前にあったから持ってきたにすぎなかったので、事実をそう伝えればルイスは柔らかく微笑んだ。
「ふふ、そっか。 ……よし、じゃあこれ持っていってあげて。坊ちゃんの部屋は二階の廊下を一番奥まで行った突き当たりにあるから。行けばわかると思う」
雑な案内を受けながら、トレーに乗せられたティーカップと小皿に乗ったバタークッキーを持って昴は厨房から出された。
この屋敷の二階に上がるのは初めてだった。
厨房を出てすぐいったところに階段があり、そこから二階へ上がることが出来た。開かれた大きな広間があった一階とは違い、二階は全て扉で閉ざされた部屋が廊下にずっと並んでいた。全てがどの用途で使われる部屋なのかはわからないが、随分と部屋の数は多いようだった。
赤いカーペットで敷き詰められた長い廊下を歩き進むと、ルイスの言った通り突き当たりが見えてきた。
そこまでは特段なんの変哲もない扉が並ぶだけだったのが、急に廊下の雰囲気が変わり、華美な装飾の施された重厚そうな扉が現れる。所狭しと並べられていた平凡な扉が消え失せ、代わりに大きな肖像画が左右に掛けられていた。一つはダイニングの暖炉の上に掛けられていた老齢の男性と同じく赤い目をしているが、また違う容姿をした男性、そしてもう一つは。
「…あ、あの時の…」
赤い目の男性の向かいに対になって掛けられていた肖像画は、初日に見たこの屋敷にいる幽霊の女性だった。厳格そうに張り詰めた表情を浮かべる男性とは対照的に、女性は柔和な笑みを目元に称えていた。
アーサーの両親なのだろうか。
昴の背丈ほどの高さがある肖像画を、首を痛くしながらぽけっと見上げていると、不意に目の前の扉が開いた。
「…なにしてんだ」
不機嫌な男の声が前から降り注ぐ。
「あ、すみません…お茶を持ってきました」
開けた扉に凭れながら腕を組み、胡乱気に緑の目を細めてこちらを見据えるアーサーの姿を見て、昴は当初の目的を思い出す。
手元のトレーに目を落とす。トレーの上には先程選んだティーカップと、冷めないように布が被せられたポット、そして美味しそうな匂いのする焼きたてのバタークッキーが小皿に乗っていた。
そんな私を見下ろして、アーサーは大きなため息をつく。
「それを聞いているんじゃない、俺はそんな事をしろと言った覚えはないが」
「…え、ガルニエさんから話聞いていないのですか?」
「そこまでしろとは言っていない」
アーサーは不機嫌を前面に出してそう言ってくる。どうにも今の状態ではここを通るどころかミルクティーを受け取ってすらくれないような雰囲気だ。
しかし、昴も簡単に折れる人間ではなかったので、眉根を寄せて言葉を返す。
「私がしたいと申し出ただけなので、気にしないでください」
ミルクティーをアーサーの部屋まで持って行くというのは申し出た記憶はないが、折角持ってきたというのにそんな頭ごなしに要らないと言わなくてもいいじゃないか。
昴のその言葉に対してアーサーは小さく舌打ちをした。
「お前の問題じゃない。俺が、勝手に家の中を歩き回られんのが嫌なんだよ」
その言葉には昴も思わず口籠る。
確かに、アーサーの言う言葉も御尤もだ。昨日今日会ったばかりの相手にうろうろと家の中を歩き回られるのは良い気持ちがしないだろう。
特に、アーサーは半分吸血鬼という特殊な存在で、大きい洋館に一人で住んでいるなどかなり謎の多い人物だ、まだ言えない何かがあるのは確かなのだ。
ルイスが作ってくれたミルクティーには全く罪はないのだが、当の本人が必要ないというのであればお持ち帰りする他ないだろう。私が責任を持って飲ませて貰おう。
「…すみません、そうですね」
怒れる吸血鬼を刺激しないように少しだけ足を後ろに下げると、そこまで語気を荒げてイライラとした空気を突き刺してきていたアーサーの雰囲気が少し変わった。
「………それ、あいつが選んだのか?」
それは驚きの感情だった。
思わず顔を上げれば、エメラルドの瞳をまんまるに見開いてトレーに乗せられたティーカップを凝視する吸血鬼がいた。
なんの話をしているのだろうと手元のトレーに目を落とした昴は、先程自分が選んだティーカップのことを思い出した。
それは、白地に金で縁取られた、カップの真ん中に紫の花弁をつける小さな花が描かれたティーカップだった。
花弁には一匹の紋白蝶が留まっていて、そこから物語が始まりそうなほど綺麗な意匠に一目見た瞬間、心が惹かれた。
「いえ…私が選びました…」
アーサーの問い掛けも、いまいちよく分からなかったのだが、カップの柄を選んだのは事実だ。
というか、あれだけティーカップの数があってそれぞれに相当な思い入れがあるのだろうか。彼のエメラルドの瞳は今まで見たことのないくらい大きく見開かれている。
何故かその後しばらくの無言の時間が流れる。
何か間違ったことを言っただろうか、いやしかし私は事実を述べただけなのだが。もしかしてこのティーカップは選んだらダメなやつだったのだろうか、だとしたら持っていく前にルイスに教えて欲しかった。いやしかし思い返せばこのティーカップを選んだ時に思わせぶりな笑みを浮かべていたのはルイスその人ではなかっただろうか。
昴の脳内で様々な憶測が飛び交う中、現実世界では充分過ぎるほどの無の時間が流れていた。
そろそろ手が痺れてきたな、そんな感覚が手先に伝わる中、たっぷりと時間を費やしたアーサーがやっと口を開いた。
「………入れ」
聞き間違えかと思った。
小さく呟く、風に吹かれれば掻き消えてしまいそうな声。
思わず、「はい?」と聞き返せば不機嫌な顔を最大限にまで不機嫌に歪めたアーサーが、仏頂面でこちらを見る。
そんな顔を学校の女子生徒に向ければ、直ぐにでも今の人気は急降下しそうな程のものだった。
「何度も言わせるな。入れ」
「あ……は、はい!」
何とか聞き取ることが出来たが、不意打ちの発言過ぎて身体が理解することを若干拒んでいた。
及び腰で足を踏み出す私を急かすように、アーサーは真後ろに立ってそのまま自室の扉を開けた。
アーサーは昴が部屋に入るまで扉を押さえてくれており、昴が部屋に入ると扉を閉めるとともにティーカップの乗るトレーを取り上げられてしまった。いつの間にか手から無くなった重みにはっとして顔を上げるも、アーサーは我関せず部屋の中へと進んで行く。
変に紳士面をするのは辞めてほしいのだが。
部屋の中は随分と広い作りだった。
平均的日本人が一人暮らしする東京のワンルームを何個も繋ぎ合わせたかのような、感覚的にはどこかの大ホールくらいはあるのではないかと思うくらいの部屋の面積。一人部屋にしては充分すぎるほど広いのだが、キッチンやテレビなどがあるわけでもなく、目立つ家具としては部屋の真ん中に見た事ない程大きいベッドがでかでかと置かれており、その近くに二人掛けほどのソファが二脚とガラスのローテーブルがあるくらいだった。
ただひとつ、一番目を引いたのは部屋の壁一面が全て本棚になっており所狭しと本が並べられていた事だった。
こんな大きな屋敷であれば、蔵書部屋くらいありそうなものだが、昴の持っている本よりもかなり量の多い本が図書館のように棚に納められていた。
あまりの本の数々に圧倒されていると、ローテーブルにトレーを置いたアーサーが声を掛けてきた。
「そこ座れ」
「あ……はい」
拒否権は無いのだろう。
有無を言わさぬ表情でそう告げ、ローテーブルの向かいに置かれたソファに座らされる。
先程までは門前払いを食らう雰囲気だったのに、その数分後には家主の自室に入れられソファに座らされている。私はこれから何をされるのだろうか、というか何かしてしまったのだろうか、やはり吸血されるのだろうか。
心の中の感情は噯にも出さないように、お行儀よく両手を膝の上に乗せながら、目線だけ動かしてアーサーを見ていると、彼はどこかからティーカップを持ってきて昴の目の前のソファに座った。そしてポットから布を取り、昴の持ってきたティーカップとアーサーが今出したティーカップにそれぞれミルクティーを注ぐ。
私はその様子を見て思わず「え…」と声を出す。
「飲め」
「……いや、私はいいですよ」
なんとなく予感はしていたが、アーサーは部屋のどこかから出したティーカップを昴に渡してきた。まさか自分が飲むことになるとは全く思っていなかった昴は拒否の旨を伝えるが、アーサーは相変わらずの仏頂面で折れようとしない。
「…ミルクティーは飲めないか?」
「いや、飲めますけど…」
問題はそこじゃないだろう。
「じゃあ飲め。もうカップに注いだし、冷めてしまう」
「…いや、でもこれは貴方用のミルクティーですし」
「どうせアイツは多めに入れてるから気にしなくていい」
話の平行線具合にこれは自分が折れるしか無さそうだと感じ取った昴は、困ったように眉根を寄せながらもおずおずとティーカップを受け取った。
カップに注がれたベージュ色の液体。少しだけ湯気の立つその液体からは芳醇な茶葉の香りが湧き立っていた。ミルクティーと言えど、自国の午〇の紅茶か紅〇花伝くらいしか飲んだことがなく、紅茶の国イギリスに留学に来ていながらも自国にもあるチェーン店の紅茶くらいしか飲んでいなかった昴からすれば、あれほど本格的な茶葉から作られたミルクティーを飲むのも初めてだった。茶葉の名前、もう忘れてしまったが。
躊躇せずに口をつけているアーサーを見倣い、昴もゆっくりとティーカップを傾けミルクティーを口に流し入れる。
口に入れた途端、鼻に届いていた茶葉の香りが口の中いっぱいに拡がり、舌の上に重厚な甘みが巡った。コク、というのがどんなものなのかはわからないが、深みというのかコクというのか、兎も角今まで飲んだミルクティーの中で一番立体的な味がした。
「おいしい…」
あまりの美味しさに、ふと日本語が出てしまった。
「美味いか?」
「あ、はい」
「まあアイツが作るのは大抵美味いからな、癪だけど」
そうは言いつつも、相手の事はしっかり認めているのであろう感情がその語気から読み取ることが出来た。
まるで高級カフェかどこかのように、周りの調度品も相まって静謐な空気が流れる。
しかし、改めて考えると、この空間は密室である。しかも相手の部屋でとなると、完全に逃げ場はない。取って食ったりはしないと言っていたが、彼は紛れもなく吸血鬼であるので、少なからず人の血を吸って生きているのだろう。私は大丈夫なのだろうか。
急に不安になってきた昴は、気休めに目線を動かした。
辺りを所在無げに見渡していると、紅茶のトレーが乗っているガラスのローテーブルの上に一冊の本があることに気付く。
「……『ジキル博士とハイド氏』…」
「…知ってんのか」
思わず目に映ったものをそのまま読み上げてしまった。置かれていた本の題名が『ジキル博士とハイド氏(Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde)』俗にいうジキルとハイドだった。
私のつぶやきをしっかり拾い上げたアーサーにそう聞かれ、思わず口に出してしまったことを後悔する。
「…有名なので」
「…まあ、確かにな」
ジキルとハイドは人の二面性を描いた小説として非常に代表的なもの、ジキル博士という人間が薬を飲むことで性格及び容姿まで変貌し、ハイドという別人格になるというお話。1886年にロバート・ルイス・スティーブンソンによって執筆出版されたイギリスの小説である。
「…本、好きなんですか?」
私は部屋の壁に並べられた目まぐるしい数の本を眺めながらふとそう尋ねた。
「学びを得るのには読書が一番いい」
「…流石ですね」
どれだけ変態な吸血鬼だろうと彼は我が母校の監督生様であらせられるので、学力に二言はないだろう。とはいえ昴も文学部であり、専攻はイギリス文学なのでこの手の話は得意分野でもあるし好きな話題である。
「どういう小説が好きなんですか?」
これはいい話題になるかと、私はアーサーに質問してみた。
「系統か」
「イギリス文学といえば、やはりシェイクスピアとか、コナン・ドイルとかルイス・キャロルとか、最近で言うとローリングもいますが……。系統もミステリーからファンタジーまで幅広いですよね」
「…そうだな。基本的にはミステリーを読むことが多い、アガサ・クリスティはよく読む」
「アガサ・クリスティ!『オリエント急行殺人事件』いいですよね!でも私は『アクロイド殺し』が好きですね、あの叙述トリックには私も驚きました!」
「…論争を呼んだけどな」
「でもあの作品によってアガサ・クリスティが有名になったと言っても過言ではないですし、実際文句言う人も騙されたから文句を言うんですよ」
『オリエント急行殺人事件』や『そして誰もいなくなった』で知られるミステリーの女王、アガサ・クリスティ。彼女の作品の中で今でも根強いファンのいる『アクロイド殺し』は、物語の語り手が犯人であったという衝撃のラストを迎える作品で、読者を騙す叙述トリックが仕掛けられており、その展開については数々の物議を呼んだそうだ。
しかしこの作品により彼女がミステリー作家としてベストセラーの仲間入りをしたのは確かであり、その後も数々のヒット作を生み出した。
好きなものの話になると周りが見えなくなる傾向のある昴は、それまで借りてきた猫状態だったのに人が変わったように饒舌になり、アーサー相手に熱弁をかましていた。
口の中が渇いたのでミルクティーで潤していると、ふと小さな笑い声が聞こえる。
「お前、本当に文学が好きなんだな」
「……あ、すみません急に」
それまでずっと仏頂面しか浮かべていなかったアーサーが、少しだけ笑っていた。
完全な笑みともいえなかったし、先日昴に絡んできたゴシップガール達に銀杏並木の下で向けていた作り笑顔の方がまだ綺麗な笑みをしていたと思うが、それらとも違う素の笑顔だった。
「いや、俺も本を飲むのは好きだ。母親の影響だけどな」
「そう、だったんですね…」
どうにも、この青年における母親の立ち位置というのが中々重要なものなのかもしれない。
アーサーはおそらく自室で読書をしていたのだろう。しばらく無言の時間が流れたのち、徐にローテーブルから『ジキル博士とハイド氏』を持ち上げ、挟んでいた栞を取って読書を再開した。
私は、ミルクティーを口にしながら壁に所狭しと並べられた本の山を見上げていた。
本当に、ここだけで本屋が開けるレベルの蔵書数だった。






