【Ⅳ 赤いシクラメンの花言葉】
前期末試験まで一週間も無くなった日曜日の朝、昴は朝の日の光を浴びながらうんと伸びをしていた。
「うーん…」
ここ数日すし詰め状態で勉強をしていたため、久しぶりの陽の光のような気がする。
久しぶりに陽の光を浴びた、太陽の光というのは良いものである。しかしなぜ人は陽の光を浴びて生きていかなければいけないのだろう、そもそもヨーロッパは自国に比べて日照時間が違いすぎる、特に北欧に行けば行くほどそれは顕著なのだ。光合成をしなければ人間も植物のように生きている価値を見出せなくなる、そう言えば吸血鬼は日の光が弱点というのが通説だが本当なのだろうか。アーサーは特殊な為参考にならない、今度参考になる吸血鬼で試したいところだ。
こんこん
窓から差し込む陽の光を眺めていれば不意にドアがノックされる。
「はーい」
「昴?開けるねー」
ドアの向こうから茉莉の声が聞こえた。
「テスト勉強、どう?」
ドアを開けた茉莉は開口一番そう聞いてきた。
昴はその言葉を聞いて少し笑ってしまう。彼女とは取っているカリキュラムがほぼ一緒なので、毎日夜遅くまで一緒に勉強をしている為進捗状況は互いによく分かっているはずなのだが、それでも確認しに来たのだろう。
「茉莉と同じだよ」
「今日も勉強する?」
茉莉のこげ茶の瞳を見て昴は微笑む。
大方、勉強するのに飽きてきて息抜き場所を探しているのだろう。
「今日はしないよ」
「え!しないの?」
茉莉はがばりと顔を上げる。
「散歩しようかなって思ってさ」
窓の外を見ながら昴はそう答えた。今は冬で、雪もちらほら降るような季節なので、正直散歩には向いていないかもしれないが。
「散歩?」
昴は茉莉へと目線を戻し、柔らかく笑む。
「ここらへんに、シクラメンが綺麗に咲く場所があるらしくて、それを見に行こうかなって」
「シクラメン……?」
呆気に取られてぽかんとしてしまった茉莉を置いて、昴は湯呑を片付け身支度を始める。
基本的に昴はインドアなので、外に出ることはままないのだが、それでも行くと決めた日には外に出るのが早いのだ。おそらく、彼女にとって今日は「外に出る」と決めた日だったのだろう。
毎日すし詰め状態で勉強をしていた気休めに、昴は外出をする予定を立てていた。
***
数時間後、昴は宿舎から約一時間程離れた場所にある自然公園に一人で来ていた。
とはいえ、昴も一人でこんな場所に来たことは初めてだったので、少し右往左往してしまう。普段インドアなことからもわかるように、自分の身一つで見知らぬ土地に来ることなど、まあない。
ここは、ノッティンガムから少し離れた所にある、シクラメンで有名な自然公園だった。
シクラメン。ここの自然公園では有名な、冬に咲く綺麗な莟紅梅の花の名だ。
ビビットピンクの美しい色合いの小ぶりな花が細々と咲く中で、小さな池や小川がある公園の中を、チャコールグレーのシンプルなロングコートを羽織った昴が歩いていた。別段、花に詳しいわけではないのだが、急に見たくなったのだ。この肌に突き刺すように寒い空気の中でも健気に咲き誇る花を。元々は温かい地域の花だったようだが、なぜそうなってしまったのだろうか。
単に気分転換の為に訪れたのであったが、少しだけ宿舎から離れるだけで一切学校の生徒に出会うことがなかった。昴は学校内では日陰者の自負があったのだが、どうやらアイザックの影響があるお陰でそうでもないようで、そこそこノッティンガムの生徒がいる地域では見知らぬ生徒でも「あ、あいつって…」のような顔をされることがままある。何か気になるのであれば自分から声を掛ければ良いものを。
しかし、この公園には学校の生徒などはほぼいないので、気が楽だ。
「……さむ」
昼間とは言え、十二月の中旬頃にもなるとこの国は相当寒い。
寒いとトイレが近くなる。
昴はお手洗いを探しに公園の中を歩いた。
勉強の息抜きに訪れたのだが、やはり自然に触れるというのは良いものである。なんだか、心が洗い流されたような気がする。
お手洗いは公園に併設されている教会の隣にある簡素な掘立小屋の中にあった。外が寒いからか教会の中で暖をとっているであろう人がそれなりにいて、トイレも少し混み合っていた。
ここ最近、平日は毎日アーサー・スティリアとルイス・ガルニエという人外と相対しているから余計そう思うのかもしれないが、こういうような人間の営む生活の先にある非現実に触れると、少し涙が溢れる様な気がする。試験の所為もあって気が滅入っているのかもしれない。
なんやかんや、彼と知り合ってから三か月ほどが経過したけれど、未だに彼のことはよく分からないし、当初の目的であるところの「アーサーの存在意義が消えかけているのをなんとかする」だとかいうのがどの程度の進み具合なのか全くもって分からない。というか、今更だが何もかもが曖昧で抽象的な話すぎていまいち理解が出来ずにいる。ちゃんと内容を聞けばいいのだが、なんとなく聞けずにいる自分もいるし。ここまで踏み込んでおいて今更過ぎるが、これ以上踏み込んではいけない気がしていたのだ、心のどこかで。
そんなことを思いながらも手を洗い、掘立小屋の外に出る。日本で見る公園のトイレよりかなり簡素な造りをしているとはいえ、一年間ここでの暮らしに慣れれば「まあそんなもんか」と納得できるものだ。
手を洗い、鞄に入れていたハンカチで手を拭い外へ出る。
そこで不意に嫌な予感が背中を迸った。
「おい、お前」
何かの気配が、背中を刺した。
「なに無視してんだよ、お前だよお前」
明らかに自分に対して声を掛けてきているようだった。
嫌な予感とともに背中に何かの影を感じる。それは人の気配ではなく、明らかに魂を持たぬものの声だった。
「……」
反射的に声を返さないほうが良いと感じたので、声を返さずに反対方向へ帰ろうと思えば、嫌な空気を放つその存在は更にその悪い空気を濃くした。
「お前に話しかけてんだけど。おい」
「……人違いではないでしょうか」
無視したかったのだが、どうにも自分に声を掛けているようである。こんな不躾な会話の切っ掛けを作る人間とは知り合っていないはずであるのだが、この声の主は明らかに昴に対して話し掛けていた。
これだけ大きな声で喋っているのに、周りの人間が一切反応を示していないのを目に入れながら、昴はせめてもの抵抗でそう口にする。
いつの間にか、お手洗いに行く前までは見えていた筈の太陽が、厚い雲に覆われていた。
「お前、スティリア卿と何の繋がりがある」
背中に突き刺す不躾な男の声は、次にそう聞いてきた。
スティリア卿?Lord Styria?誰だそれ。
「……え?」
スティリアとはアーサーのラストネームであると把握はしているが、そんな、どこかの伯爵のような呼ばれ方をしているのは初めて聞いた。どこのスティリアさんだろうか。
しかも、ぼんやりと思い出してきたが、この背中にいる男は以前Autumn Festでだる絡みをしてきた輩のなかにいた一人ではないだろうか。確かあの時はアーサーが割って入ってきたことで、急に態度を変えて蜘蛛の子を散らすように去っていった気がするが。
「とぼけるなよ。お前、あの時Autumn Festにいた人間だろ」
そう言った見知らぬ男の顔を、漸く昴は見返すことが出来た。
当初は適応出来ていなかった空気感に、やっと慣れた体で後ろを振り返れば、栗毛の頭に焦げ茶色の瞳をした大男がその場にいた。それは確実に、あの時変な絡み方をしてきたガラの悪い男たちのうちの一人だった。
「何のことですか」
しらばっくれるのは得意である。
黒い長髪を冬の凍て風に靡かせ、深淵よりも真っ暗な瞳を大男に向ければ、何故か大男は少しだけびくりと怯む。
「っ、とぼけるなよ!お前あそこにいた人間だろう!」
大男は焦げ茶色の瞳を見開けるだけ大きく見開いてこちらを見下ろしていた。どうにも、姿形は自分よりもかなり大きいのだが、そんな目をされても全く怖くないのが不思議なものである。
これだけ人違いだと申し上げているのに、地に足が生えたかのようにその場からいなくならないともいうのも厄介極まりない。関係ないと言っているのに。
「スティリア卿の次期当主のあの男が、単なる人間を側に置くなどあり得ない!」
どうこの場を抜け出そうかと考えていた昴の耳に、喚きたてる大男の声が響いた。
その言葉に、昴はぴくりと反応をしてしまった。
――次期当主?
確か、数日前に屋敷に来ていたカイウスがいたようにアーサー・スティリアは長子ではないはずだ。
イギリスの家系制度、延いては怪物たちの制度など分からないが、順当に行けば長子ではないアーサー・スティリアは次の当主には成り得ぬのではないのだろうか。
日本では基本的に長男が嫡子となるのだが。
余程、別の理由があるなら違うかもしれないが。
アーサーのご家族がどのような立ち位置にいるのかなど全く知らないが、彼の住んでいる洋館が信じられないくらいの大きさをしていることと、吸血鬼であるはずの彼が狼男だというルイスを従者にしていることからもそれなりの地位を持つ吸血鬼の一族なのかなということくらいは推測することが出来た。
しかし、それの世継ぎであるなど、アーサーは一言も言ってはいなかった。
大男の言葉にぴくりと反応をしたまま目を見開き、動かなくなってしまった昴だったが、大男はそれには気付かずにぶつくさと小言を垂れる。
「現在のスティリアで最も魔力が高いのはアーサー・スティリアだ」
「………」
「半分の癖に …チッ、気に入らねえ」
ご親切にも説明をしてくれた大男は最後には悪態をついていた。デミ、なんだろうかそれは、デミグラスソースだろうか。
昴は雷に打たれたような気持ちになっていた、次期当主だとかそういう重そうなことは全く分からないけど、いつものんびり紅茶を飲んで本を読んで、ときたま厳しい顔をして数学を教えてくれるあの人が。最近は洋館の蔵書室から見つけた『源氏物語』が読みたいと、照れ隠しの表情をして習いたての日本語を喋ってくれたあの人が。そんな重い立場に立っているなんて。
そういえば、彼があの夜以外吸血鬼になっているのを、見ていない気がする。
「あいつは純粋な吸血鬼じゃねえ、半端なくそ野郎だ。 …だが俺らよりも…相当強い魔力と立場を持ってる、そんなの気に食わねえに決まってる」
「………」
「お前があいつにとってどういう存在なのかは知らんが、あいつにとっての弱点であるなら捕まえておく以外の選択肢はない」
言っている意味を理解する前に、昴の意識は遠く彼方へと連れ去られた。




