【Ⅱ 少しずつの変化】
その日も定刻通り白い高級車に乗ってルイスが現れた。
ルイスは満月の日は姿を見せないが、次の日にはいつも通りけろりとして昴の前に現れる。既に二回はその状態を見ていた。
「お待たせ」
「いつもありがとうございます」
雪が降る道を、スタッドレスタイヤに替えた白塗りの高級車が滑らかに走る。
「そういえば、ガルニエさんたちは試験大丈夫なんですか?」
ふと昴は気になって聞いてみる。
いつも通り土日以外の平日夜は洋館に上がらせていただいていたが、空いた時間は勉強をしている昴と違い、ルイスもアーサーもいつもと変わらず、勉強をしている姿を見ていなかった。
「なに?心配してくれてるの」
運転しながらルイスはお道化た調子で聞いてくる。
「大丈夫だよ、こう見えても俺もあいつもそれなりに勉強はしてるからさ」
バックミラーに映る鼈甲色の瞳が、ぱちりとウインクを飛ばしてきた。
***
本日の料理はムール貝のシチュー的な感じのものだった。いつも正式名称がわからないのだが、すべからく美味しい。この寒い中では、身体が温まる料理は非常にありがたい。
シチューを口にして頬を綻ばせていると、テーブルの向こうに座るアーサーと目が合った。いつもの通りラフなスウェット姿のアーサーであったが、昴と目が合うとさっと目を逸らす。何というか、前々から感じていたのだがアーサーは目が合うといつも逸らされている気がする。
「…スティリアさんも、試験は問題なさそうですか?」
目が合ったついでにアーサーにも聞いてみる。
「…試験?」
「二週間後前期末試験だよ」
「ああ、それか」
何ということだろう、試験どうのこうの以前に、それがあることすら気にも留めていなかった様子である。さすが主席様監督生様というところなのだろうが、なんだか腹が立つ。
「…余裕ということですか」
「授業受けてたらある程度は問題ないだろう」
何ともいつも通りの表情で、けろりとそう言い切った。
現実世界でそんなことをさらりと言ってのける人間に、昴は初めて出会った。
「……へえ」
「腹立つよねーこいつ。さすがに俺は試験勉強はしてるよ」
思わず白い目を向けてしまった昴に対し、ルイスがそう言う。
「…でもまあ、語学系の試験は少し自信ない」
そこで珍しく、少し声の調子を落としてそう言った。
第二言語でも取っていたのだろうか。
「第二言語でも取っているんですか?」
心で感じた疑問をそのまま投げ掛ければ、アーサーは少しびくりと肩を震わす。
聞かれたくない質問だったろうか、自分の苦手箇所を追及されてプライドが傷ついたのだろうか。それなら自信ないなど言わなければいいのに。
「いやあ、まさか三年目にもなって第二言語を取るなんて言い出すとは思わなかったよね〜」
そんな昴の目の前で、テーブルを挟んで向かいの席に座るルイスが、異様ににやにやとしながらそう口を挟んだ。
「っせーな、いいだろ別に」
アーサーはその言葉にほんのりと頬を朱色に染めて言い返していたが、どうにも話が読めない、第二言語を最近になって選択したのだろうか。
「何を学ばれているんですか?」
「い、いや、それは……」
純粋に疑問だったのだが、昴の質問にアーサーはわかりやすく動揺する。全く意味がわからないので不審そうな目を向けると、エメラルドの瞳を右へ左へ忙しく動かしていたアーサーは、パッと立ち上がって後ろの暖炉の上に置かれていた本を持ってくる。
「……これが、読みたかった…から」
そう言って見せてきたのは、ハードカバーではなくとても古めかしい冊子。いつも読んでいるアーサーの本は分厚くてどれもこれもハードカバーなので、少し珍しく感じる。
ずかずかと昴の席まで歩いてきて、ずいっと目の前に突き出されたその本を、渡されるがまま受け取った昴は不審な目をより強くしてアーサーの顔を見る。アーサーは昴に本を渡すと、すぐに自分の席に戻って行った。
一体何なんだ。
訝しげに渡された本を見下ろすと、そこには久しぶりに見た文字が見えた。
「……え?な、なんですかこれ…?」
本の表紙を見た昴は驚きの表情を浮かべる。アーサーが渡してきたそれは、表紙に見慣れた文字で『源氏物語』と書かれているものだった。
見紛うことなき、母国語である日本語でそう書かれていた。
「……俺の家にあった」
アーサーはそれだけ言うと、昴とは一切目を合わさずに食事に戻った。
まさか、ここにきて日本語の本を目にするとは露ほども思っていなかった昴は驚愕の表情を抑えることができず、そのままアーサーと本の表紙を見比べていた。
しかし、これは『源氏物語』と言えど、どうにも通常のものではないようだ、『源氏物語』のメインである光源氏が主人公の部分ではなく、その息子である匂宮の話、『宇治十帖』だ。
というか、日本語なんて「こんにちは」くらいしか知らないであろうアーサーの家に、こんな古典があるなんて、どういう事だ。しかも、どう見ても最近出版されたものではなく、美術館に所蔵されているような一冊一冊人の手で綴られたような冊子だ。随分綺麗な状態で保管されていたようだが、そもそもこれがなぜアーサーの家に。
「いやー、日本語の授業を受けるアーサーが面白いの何のって」
「黙れ」
ルイスは心底愉快と言った様子でそう言っていた。
確かに、日本語の授業を受けるアーサーの図は中々に想像できない。なんというか、悲しいけれどもこの国においては日本語自体マイナー言語であるし、そこに現れるアーサーはどう考えても浮くだろう。ざわつく教室が容易に想像できて、昴は少し面白くなる。
「でも、嬉しいです。興味を持ってもらえて」
なぜこれがアーサーの洋館の蔵書の中にあったのかはさておき、理由は何にしろ自分の母国語に興味を持ってもらえたというのは純粋に嬉しい。
昴はイギリスの文学に興味を持ったからここにいるのだから、同じような理由で日本に興味を持ってくれたのは非常に嬉しかった。
微笑みながらそう言った昴を見て、アーサーは目を逸らした。
食事を終え、テーブルには食後の飲み物がそれぞれ置かれる。
昴はココアを飲みつつ苦手な数学の勉強を始めようとタブレットを起動した。ファイルの中から授業のレポートを引っ張り出していると、視界の端で紅茶を飲むアーサーが『源氏物語』を難しい顔をして読んでいるのが見えた。近くには英日辞書と書かれた真新し目の辞書が置いてある。
アーサーの語学レベルがどの程度かは分からないが、初っ端で読み始めるにしてはハードルが高すぎるのではないだろうか。古語辞典も近くに置かないと日本人ですら読めない。
「…スティリアさん、数学は得意ですか?」
「ん?…普通だな」
アーサーの普通はおそらくは優秀レベルだろう。
昴は椅子をアーサーの方に近づけた。急に近付いてきた昴にアーサーは驚いて椅子を遠ざける。なぜそんなにビビられているのだろうか。
「私に数学を教えてください。私、数学が苦手でして」
「…それは別に構わないが」
「それで、私はスティリアさんに日本語を教えます」
「……は?」
エメラルドの綺麗な瞳が、真ん丸に見開かれた。
「そもそも、日本語のレベルはどの程度なのですか?少し喋ってみてくれませんか?」
今年から第二言語を変えたということはまだ初歩レベルではないだろうか。
アーサーは昴の言葉に少しずつその白磁の肌を朱く染めていく。エメラルドの瞳をまた右へ左へと右往左往しており、昴の真っ黒の瞳を見返せずにいる。視界の端では我関せずの態度を貫きつつもにやにやとこちらを見ているルイスがおり、アーサーがきつく睨みつけていた。
まあ、恥ずかしいんだろうな。
「…スティリアさん?」
「……い、いや、まだそんな喋るとかは…」
まあ確かに、習いたての言語をその言葉が母国語の人に披露しろというのは中々にハードルが高いものだったかもしれない。
仕方ない。助け舟を出すか。
「はじめまして、私は渡辺昴です。」
昴は居住まいを正し、日本語を口にした。
そこまで英語で喋っていたのに、日本語を喋るとまるで雰囲気が変わる。まだアーサーには初歩的な日本語しかわからず、今の昴の言葉が自己紹介であることしかわからなかったが、日本語を口にする昴はまるで別人のように見え、見たことも会ったこともないが、目の前に日本の民族衣装を纏った女性が見えたような気がした。
少し惚けてしまった。時間が停まったようにも感じて、真っ黒な瞳から目が離せなかった。
「スティリアさん?」
不審に思った昴が整った眉を寄せて不思議そうに覗き込んできたことで、我に返ったアーサーは咳払いをしてからもぞもぞと口を開く。
「Ah… ワタシハアーサーデス、ヨロシクオネガイシマス」
凄く想像通りの片言であったが、あのアーサーの口から日本語が出てきた。それだけで昴はとても嬉しくなった。
「わあ…すごいですね」
「……べ、別に…」
キラキラと目を輝かせながら顔中に笑顔を浮かべてこちらを見てくる昴に、アーサーは逆に目が離せなくなっていた。
こんなに感情が表に出てきている昴を見るのは初めてだった。あまり感情が動かないやつだと思っていたのだが、案外顔によく出る人間だったのかもしれない。
「でも、本当に嬉しいです、日本語を勉強してくれているなんて」
「…お前だって英語勉強したんだろ」
「だからですよ、私はイギリスが好きで英語を勉強したので、スティリアさんも日本に興味を持ってくれて日本語を勉強してくれたのであれば凄く嬉しいです」
「…そうか」
「はい! なので、明日から私が日本語を教えますので、私に数学を教えてください」
昴からすれば、苦手な数学を主席に教えてもらえるというとんでもチケットを手に入れられて、願ったり叶ったりだった。
まあ、アーサーが感覚肌の天才型だった場合、勉強を教えてもらったとしてもうまくいかないかもしれないが。
***
食後の皿洗いを終え、昴は宿舎へと帰っていった。屋敷に残っていたアーサーは定位置のロッキングチェアに座り『源氏物語』を見つめていた。
この本を見つけたのはほんの偶然だった、部屋の蔵書室を整理していた時に棚の中にあったのだ。まさか、この家に日本語の本があるとは思わなかった、埃を被っていて大分隠れたところにあったので、しばらく誰も触っていなかったのかもしれない。最初見たときはそれが何の言語かは分からなかったが、調べてみると日本語だということがわかった。それが分かった瞬間、不意に脳内に昴の姿が浮かんできた。
ほんの少し興味が湧いたので、読もうと思ったのだ。そもそも、この家に日本語の本があること自体が謎であったし、自分が買ったものではないことは明らかであったので、それも気になった。アーサーはそうと決めたらすぐ行動に起こすタイプだったので、まずは大学で第二言語の授業を取ることを決め、日本語を選択した。日本語の授業では俺の存在は中々に浮いていたが、決して茶化すわけではなく真面目に受けに来ているとわかった生徒たちは、次の日からは特に気にしなくなった。
「いや~若い若い。若すぎて胸焼けしそうだったわ、ほんと」
本に気を取られていると、いつの間にか屋敷に戻ってきたルイスがそんなことを言いながら部屋に入ってくる。
鼈甲色の眼を面白そうに歪めて茶化すようにこちらを見てくるルイスを、アーサーは睨み返す。
「…お前、楽しんでるだろ」
「いやあ、まさかお前がそんな顔をする時が来るなんてね」
少しだけ感慨深げにそう言うが、それもまた演技じみているので少し癇に障る。
「そんな顔ってなんだよ」
面白くない様子でそう吐き捨てたアーサーを見て、ルイスは目の光を歪める。
この坊ちゃんは他人に興味を示さない男だった。それは人間にしろ、怪物にしろ。自分以外の何かに強く惹かれるということがないのだ、それは自分の置かれている立場が、他人から興味を持たれたり妬みや羨望の的になる事が多かった故の意趣返しのようなものだと、ルイスは認識している。
吸血鬼というのはその類稀な美貌により老若男女問わず魅了し、魅了した相手を手籠めにして生き血を吸う。このお坊ちゃんも例に漏れずオフィーリアのような美貌を持っているわけなのだが、彼は他の吸血鬼と違い他人に兎角興味を示さない奴だった。それは偏に彼の性質故ではあるのだが。
そんな偏食坊ちゃんが、他の存在に目を奪われるというのは、これまた何かの報せのようにも感じる。
「…でも、選択は誤るなよ」
それはまたこの坊ちゃんが特殊な存在である故なのかもしれない。
緑の眼を逸らして本を見つめるアーサーを、鼈甲の光が見下ろす。
――人間の血も面倒なものだよね、
感情があるってのはさ。




