Ⅱ Evil Day
渡辺昴:日本人留学生、大学二年目、文学専攻。
<同じ宿舎に住む留学生仲間>
天茉莉:中国人留学生、大学二年目、文学専攻。
天勇翔:中国人留学生、大学三年目、経済学専攻。茉莉の従兄。
崔時宇:韓国人留学生、大学二年目、経営学専攻。
昨日は大変だった。
一限目の講義が終わり次の授業までの間机に突っ伏して時が経つのを待とうとしていた私は、昨日の出来事を回想する。
あの変質者に会った後、思った以上に時間が足りなかった私は急いでアジアンスーパーへ向かったのだが、なんということだろうかカレーの具材が売り切れてしまっていた。もう完全にカレーの口になっていた私は、カレー以外の選択肢を考えることができず、途方に暮れた挙句カレー味のカップ麺を買って帰った。まあその晩の評価ときたら思い出したくもない程の罵詈雑言である。
それも仕方ない、比較的私は料理の腕には自信があったため、密かに楽しみにされていたのだ。それが蓋を開ければカップ麺と来たら、高級レストランでレンチン料理を出されたような気持ちだろう。
挙句の果てには茉莉の親戚である一学年上の天勇翔に「これなら外食の方がマシだ」と言われてしまった。この国の外食における評価とは然もありなんである。
それもこれも、あの変質者のせいである。何なんだ吸血鬼って。
そもそも吸血鬼と名乗られたわけではないが、あそこまできたら吸血鬼意外何者でもないだろう。
私だって好きでカレー味のカップヌードルにしたわけじゃないんだ。冤罪だ、無念極まりない。
そこまで考えたところで、誰かが隣に座る気配がする。ふと顔を上げれば茉莉が隣に座っていた。
「昴、元気ないネ。どうしたの?」
「茉莉…」
茉莉は中国訛りの強い英語を話す。このブリティッシュイングリッシュが蔓延る土地において、アジア人の英語ほど聴き心地のいいものはない。私からすれば彼らの英語の方が聞き取りやすいまである。
そういえば、昨日の変質者は随分とがちがちのクイーンズイングリッシュを使っていた気がするので、やはりイギリス人なのだろう。吸血鬼だけど。そういえば、あの変質者どこかで目にした気がしたのだけれど、どこだっけ。
そこで私はふと茉莉に聞いてみようかと思った。昨日の出来事はまだ誰にも言っていない。
「あのー…変なことを聞くんだけどさ」
「ん?」
「……吸血鬼って見たことある?」
「え?」
我ながら頭のおかしい質問だと思う。いくらこの国がファンタジーの国でハ〇ー・ポッターの国だからとはいえ、現実世界と区別のつかない発言をする奴はいないだろう。
講義資料を鞄から取り出した手を止め、訝しげに眉根を寄せた表情を浮かべる茉莉を見てこんな質問をしたこと自体恥ずかしく感じてきた。
馬鹿馬鹿しくなってすぐに訂正しようと口を開くが、それより早く、怪訝な顔をしていた茉莉がこちらにずいっと身を乗り出してきた。
「吸血鬼、見たの?」
「え、いや…えと…」
少し前まで「何言ってんだこいつ」という顔をしていたのに、想像以上の食いつきを見せる。
あまりの食いつき様に、思わず質問者側である昴が身を仰け反ってしまった。そういえば一昨日の夜『ト〇イライト』を見ようと言い出したのも彼女だった気がする。もしや吸血鬼オタクなのだろうか。
「見てはない…んだけど、いるのかなぁ…って思って……最近気になったんだよね」
我ながらきつ言い訳である、今まで吸血鬼の話題どころかオカルトチックな話題は一切出したことがなかったというのに。
しかし茉莉はそんな私の急な趣味にも気付かず、何かのスイッチが入ったかのように、どこか目を輝かせて熱弁してきた。
「昴もそう思う?!ロマンだよネ!私も見たことはないんだけど、でも会ってみたいなって思ってて!吸血鬼の本場はルーマニアなんだけど、この国にもいたりするのかな?本当に大蒜とか十字架とか、銀の弾丸が苦手なのかな?どんな恰好をしているんだろう、イメージとしては黒いマントだよネ!」
「そ、そうだね…」
何のスイッチが入ったんだろう。
彼女がここまで吸血鬼オタクだとは知らなかった。
「血吸われてみたいよネ!どんな感じなのかなー」
「……えー…」
熱の籠った彼女の発言に少し引いてしまった。
血を吸われたら死ぬだろう、どんな感じも何もないのではないだろうか。それか同じ吸血鬼になるのだろうか、ゾンビみたいに。
まあ別にもう二度と会わないだろうから、いいか。
私は部屋に二限目の教授が入ってきたのを見て、PCを起動させながらこの話題はもうしないと心に決めた。
***
日本の大学には学食があることが多いが、この国には日本にあるような大人数の入れる食堂があるところはほぼなく、小さめの食堂というかカフェはあるが、持ち込みのランチを中庭で食べていたり宿舎に帰ったり、大学近くのキッチンカーで買って食べたりと様々だ。
大体いつも中庭のベンチで同じ宿舎のアジア人留学生とランチをしている私は、今日も例に漏れず中庭のベンチに座っていた。一緒にランチをしているのは天茉莉と天勇翔、そして韓国からの留学生で昴や茉莉と同学年の崔時宇。彼らは全員同じ宿舎に住んでいる。
大学近くのキッチンカーで買ったサンドイッチを頬張りながら、少し秋の気配がする中庭の楓の木を見上げる。そろそろ一部が黄色くなってきた頃合いだ。
取り止めのない会話をしている中、噂好きの茉莉がいつも通り本日のゴシップの時間を設け始める。どこからその情報を仕入れてくるのかいつも謎なのだが、この同級生は誰も知らない情報を小耳に挟んでは私達に教えてくれる。私も勇翔も時宇もあまりその手の話は詳しくないし、興味もない為、彼女の話を聞くだけの時間となるのが常だが。
「そういえば、一学年上にちょーーイケメンの人がいるって話、聞いたことある?」
「知らねー」
「イギリス人?」
「それはわかんないけど、多分ヨーロッパ系」
「ふーん」
いつもの通り取り合わない姿勢を見せる一同だったが、茉莉は負けじと話を続ける。
「それが、ほんとーーうにイケメンらしくて、俳優みたいな顔してるらしいヨ!」
「面食いすぎじゃね」
「俺からすればどいつもこいつも映画俳優だな」
どうにも茉莉の熱量は高いのだが、男二人には全く響かなかったようである。
確かに、アジア人の見た目を欧米人が区別できないように、私たちも欧米人を見ても区別はできないし、みんな美男美女に見える。
あまりの話の響かなさに不満げな茉莉は、話の矛先をこちらに向けてきた。
「昴なら見てみたいよネ!ロ〇ート・パティンソンみたいな感じかもヨ!」
「えー…」
本日二回目、茉莉に引いてしまった。結局『ト〇イライト』に引っ張られてるだけじゃないか。
茉莉が身を乗り出してくるので、思わず手元のサンドイッチを上に上げて避難させながら身を引くと、勇翔が呆れた声を出す。
「お前と一緒にすんなよ。昴はそういうの興味ねーだろ」
「えー?そんなことないよネ?」
なんで茉莉が私の代わりに声を上げるのかと言いたくなる。
そんな私の様子を見て、にやにやと笑みを浮かべた時宇が口を挟む。
「昴は恋人いるからな」
「え、あ、そうだったネ」
「…だから、違うって」
時宇の言葉に我に返ったように身を引いた茉莉だったが、その一連の流れに重いため息をついたのは他でもない昴だった。
しかし、昴の否定の声も聴かず時宇は更ににやにやと口角を上げてこちらに顔を向ける。
「いやいや、誰がどう見たってそうじゃん、アレは。そろそろ振り向いてやれよ」
「……。」
私は何も言わずに押し黙る。
時宇が言っているのは同じ二年生の経済学部主席、アメリカからの留学生であるアイザック・V・ミラーのことだ。
彼と私は幼少期知り合いだった。私が小さい頃一時期アメリカにいたことがありその時知り合ったのだが、その後私が日本に帰ったことで離れ離れになっていた。二度と会わないだろうと思っていた矢先、この大学で思わぬ再会をした。以後、事あるごとにアイザックは私に構ってくるようになり、周囲からは「付き合っている」「アイザックの彼女」のような目で見られることも多々あった。勿論、付き合ってなどいないしそんなの根も葉もない噂に過ぎないのだが。
経済学部主席でスポーツ万能、文武両道で誰もが知る人物であるアイザックは男性女性関わらず非常に人気のある目立つ人間で、特に外見の良さから女子生徒に多大な人気を誇っている。その為、根も葉もない噂だとしても昴にやっかみを覚える異性は少なくはなく、アイザックと再会してからこれまで数多くの僻みを受けてきた。
昴からすればアイザックのことは、小さい頃によく遊んだ近所の男の子くらいの認識で、勿論嫌いではないしどちらかと言えば好きなのだが、彼が与える影響が自分に降りかかってきていることがストレスになっているのもまた事実だった。
元気が無くなった昴を見て、勇翔が深いため息を吐いてから最後の一口を食べ終えベンチを立つ。
「もう講義室戻る」
「あ、俺次移動教室だ」
勇翔の言葉に時宇はそう呟きながら立ち上がり、その場は解散となった。
それは茉莉と並んで講義室へ続く回廊を歩きながら次の講義についての話をしていた時だった。
茉莉はほとんど私と同じカリキュラムをとっていたので、講義内容やテストなどを一緒に勉強できてとても助かっていた。
次の講義は確か文学史についてだった気がする、自分の好きな科目の講義だと気付き、少し落ち込んでいた心が浮上する。回廊は行き交う学生たちで溢れており、人種も様々な色んな人が自分の目的に急いでいた。
そんな時、茉莉の話に相槌を打ちながらふと顔を上げると、向かいからくる人の波の中に金髪に緑の瞳をした綺麗な男の人が歩いてくるのが見えた。顔が整っている以外は平均的なヨーロッパ人の見た目をしていたのに、なぜかひどく目に留まった。どこかで見た事がある様な気がしたのだ。
時間にして数秒くらいではあったが、少しだけ長くその人を見ていると、向こうもこちらに気付いた。慌てて目を逸らしたが、その人は私が見ていたことに気が付いた様だった。
「……次の講義って文学史だよね」
「うん!楽しみだネ!」
気を紛らわすように茉莉に話しかけるが、その人は私の方をじっと見たままこちらに歩いてくる。すれ違う人の波の中にいた単なる一人にすぎないのだが、明らかに私の顔を見ているのは刺さる視線の強さでわかった。
そのまま話しかけられるのかと思ったが、その人は何もなく私の横を通り過ぎていった。
(…不敬罪で処されるかと思った)
思わず安堵のため息をついた私の耳に、後ろからきゃーという黄色い悲鳴が聞こえる。何事かと振り向けば、先ほどの男の人が多数の女の子たちに囲まれていた。
「あ!さっき言ってたのあの人だヨ!」
「…え?」
同じように振り向いていた茉莉が私に耳打ちしてくる。
「一学年上の超イケメンな人、確かアーサー・スティリア」
耳打ちされたその名前が変に頭に残った。
初めて聞いた名前なのに、初めてではないような気がした。
***
総括するとその日は散々だった。
楽しみにしていた文学史の講義もあまり身に入らず、午後の講義も変に上の空だった。
それもこれも、昼休憩の時に変にアイザックの話題を振られたからと、あのスティリアとかいう人と目が合ったからだ。確かに驚くほど整った顔立ちをしている人だなあとは思ったが、かといってそこまで騒ぐほどでもないと思う。
何故か酷く記憶に残る顔をしていたが、どうしてなのかよく分からない。
これから用事があると言っていなくなった茉莉と別れ、秋の気配の漂う銀杏並木が並び立つ帰り道を道端に落ちてる銀杏を踏みしめながら歩いていた。
本当に散々だ。昨日の夜、変質者に遭った時からついていない。
「全部あの変質者のせいだ…」
「おい」
声に出して今のお気持ちを表明をしていると、不意に声を掛けられる。
その声の響きに私の心臓が強く鼓動の音を伝え始めた、それはとても聞いたことのある声だった。
早鐘を打つ心臓に、顔を上げられずにじっと地面の銀杏を眺めていると、N〇KEのスニーカーが視界に現れた。声を出せずにいる私にN〇KEのスニーカーは勝手に喋り出す。
「変質者って、誰のことだ?」
(…それは勿論貴方のことです)
心の中では雄弁に返答が返ってくるが、口からは出てこない。背中に嫌な汗が流れる。昨日会った時はなんともなかったのに、なぜか今はとても嫌な予感がしていた。顔を上げてはいけない。
しかし、そんな私の気持ちをN〇KEのスニーカーが汲んでくれるわけもなく、急に視界に大きな手のひらが現れたかと思えば片手で顔を鷲掴みにされ、グイッと視界を上げられた。
そこには、驚くほど端正な顔立ちをした西洋人形のような男が、パーカーにジーパン姿という恰好で立っていた。
それは、先程学校で目にしたアーサー・スティリアその人だった。
「よお、昨晩ぶりだな。アジア人」
白磁の透き通る肌にちょこんと乗った形のいい唇をにいっと歪ませて、夕焼けに浮かぶその人は不気味に笑った。
思うに私の人生は、ここを機に奇妙な方向へ捻じ曲がっていったのだろう。