【Ⅶ 一触即発の出逢い】
茉莉からヒントを貰うつもりが、逆に自分を追い詰める噂話を聞いてしまった昴は、普段よりも重い足取りで大学の裏口を目指した。今日は生憎の天気で、太陽は厚くて黒い雲に覆われ姿を隠し、強めの雨がアスファルトを叩きつけている。昴はため息をつきながら鞄から折り畳み傘を取り出した。
気持ちは落ち込んでいるのにここに来てしまっている時点で、もはや彼女の中であの洋館に行くのは一つの習慣となっていた。
アーサーに昴が拾った楓の葉の絵柄が同じアザミであることは伝えていないので、彼は知らないのだが、何となく顔を合わせにくい。意識しているつもりはないのに、こちらが変に気にしてしまうからだ。
憂鬱な気持ちながらも、校舎の裏門に来た昴だったが、そこにはいつものハイパー高級車はなかった。
いつもであればこの時間帯には既に車が止まっており、ルイスが運転席のサイドガラスを下げてキザなウインクを飛ばしながら挨拶をしてくるというのに、一体どういうことだろうか。
四週間目には突入しているが、この三週間の中ルイスが約束を違えることも、車が遅れることもなかったので、少し不思議に思う。
(遅れてるのかな?)
珍しいこともあるものだ。
昴は折り畳み傘をしまい、近くの屋根付きのベンチに座り込んで『アクロイド殺し』をカバンから取り出す。もう中盤くらいまでは読んだのだが、それでも原文で読むのは中々に難しく、普段日本語で本を読むときよりも十分の一くらいのスピードになってしまう。
「え、えばーしょ…何だっけこれ」
開いた瞬間、難解単語が目に留まる。
読めもしなければ理解もできない英単語に、眉根を寄せてカバンから辞書を取り出そうとすると、どこからか声が降ってきた。
「evasion、回避かな?」
「…あ、ありがとうございます」
瞬間的に礼を述べてしまったが、一体誰であろうと顔を上げると、自分のごく至近距離からこちらを見下ろす男性がいた。
「えっ……。 …あ、えっと、どなた…ですか」
こちらを覗き込んできていたのは、金髪に赤色の瞳をした男性。
驚きの顔を向ける昴に対し、男はにっこりと人のいい笑みを浮かべた。
彼が笑顔を浮かべた瞬間、空を覆う雲が更に濃くなり、雨が一層強くなったような気がした。
「俺はカイウス。よろしくね」
「え…どうも、渡辺昴です……」
名乗られたので名乗り返してしまった。
よろしくと言われても、初対面だしこの男性は今まで見たことがないのだが。
何となく、全身の毛が逆立つ気配がした、どうにも、人とは違う空気を纏っているような気がする。
いや、気がするじゃない。これは、人じゃない。
瞬間的に目の前にいる男性が人間ではないことを悟った昴が、何とかしてその場を切り抜けようと周囲を見渡すが、周りに人はいないし、ルイスの車も見えない。ベンチに座っている前にカイウスが立っているので、彼を避けないとこの場を逃げ出すことは出来ないだろう。しかし、にこにこと笑みを浮かべながらこちらを見下ろすカイウスは、表情は柔和ながらもそこを通す気はないようで、まさに袋のネズミである。
こちらの男性は全く見覚えがないのだが、何かしただろうか。
困り果てる昴の耳に、耳を疑うような言葉が聞こえてきた。
「ここで待っていても、ルイスは来ないよ」
「…………え?」
聞こえてきた言葉の意味が理解できずに、昴は唖然とする。
屋根に叩きつける雨の音がぱらぱらと木霊していた。
今、彼は、ルイスと言ったのだろうか。
「……すみませんが、何の事かわかりません。私用事があるので、失礼しますね」
警報が頭の中で煩い程に響き渡っている。明らかに、この男性に関わってはいけない。
しかし、その場から立ち上がろうとした昴に、カイウスは逃がさないとばかりに体を寄せてくる。
「用事?今から行く場所の事?」
「……」
こちらを見下ろす深紅の瞳の奥には、今の状況を愉しんでいる意地の悪い光が見えた。昴はその目を睨み返しながら奥歯を噛み締める。
どういうことかはさっぱりわからないが、人間ではない気配を纏うこの男は、昴に対する何かを知っているようだった。
「だからさ、俺が連れて行ってあげるよ」
「……何なんですか、貴方。私は貴方の事を存じ上げないのですが。知らない人に付いていくと思いますか?」
「うーん、素直に話聞いておけばいいのにね」
「………そもそも、貴方人間ですか?」
疑る眼でそう問えば、深紅の瞳を怪しく光らせた男性はにやりと口の端を上げる。
その口の端から除く犬歯は、人間の歯とは思えないほど鋭く尖っていた。
「…思ったより往生際が悪いね、君」
それはまるで獰猛な怪物のような殺気を伴う冷徹な眼の光であり、昴は咄嗟に息を飲む。この目の光をかつてどこかで見たことがあるような気がした。
「…じゃあ、これなら信用してくれるかな。君が今から行く場所、アーサーのところに連れて行ってあげるよ」
「………え」
カイウスは冷徹な光を放つガーネットの瞳をすっと収めて、にっこりと人のいい笑みを浮かべた。昴はその言葉にまた思考が停止する。ルイスの事を知っているかと思えば、これから向かうのがアーサーの所ということすら知っている。
あまりにも情報の多さに思考が停止したまま動けなくなってしまった昴の腕を、カイウスがひょいっと掴む。見た目は優男であるが、彼の力はびっくりするほどとても強かった。
「や、やめて下さい……」
「まだ駄目なの?困ったなあ」
全く心にも思っていなさそうな口調でカイウスは呟く。
その時、黒いピカピカの車体をした高級車が物凄いスピードで走ってきた。轢かれるかと思うくらいのスピードであったため目を見開いたまま動けなくなった昴の耳に、昴の腕を掴んでいたカイウスの舌打ちが聞こえた。
目の前に停まったギラギラの車体からバンっという大きな音を立てて運転席の扉が開き、物凄い勢いで誰かが飛び出てくる。
出てきた人は昴を掴んでいたカイウスの腕を乱暴に掴み、そのままカイウスの胸倉を掴む。
「おい!」
「いっ」
「ス、スティリアさん!」
目の前で繰り広げられた予想外の事態に目が白黒となる。
現れたのは真っ黒なブラックスーツに身を包んだアーサーだった。前日のAutumn Festの時と同じように髪を後ろに撫でつけたヘアスタイルをしている。
カイウスに勢いよく掴みかかったアーサーは、昴が今迄見たことないくらい怒気を孕んだ瞳をしていた。見たことのないアーサーの表情に、昴は思わず口を噤んでしまう。
そんなアーサーを見て、胸倉を掴まれているカイウスは一瞬ひりついた空気を放ちつつもすぐに態度を変え、鼻で笑うようにため息をついた。
「…何、出迎え? 遅いんじゃないの。俺に突っかかってる暇あんの」
「………ちっ」
アーサーはカイウスのことを十分に睨みつけてから、掴んでいた襟首ごとぐいっと突き飛ばした。
そして呆然とする昴に目を向ける。
「……今日はルイスが私用で来られない、これに乗ってくれ」
そう言って、目の前の歩道の縁石ぎりぎりに止まっている黒塗りの高級車を目で示した。黒光りしている車体は無機質な輝きを放ち、何の言葉も発していないながら何かの危うさを伴っているような気がした。
なんとも言えない殺伐とした空気が周囲に充満する中、最初に動いたのはカイウスだった。ため息をつきながら乱れたジャケットを直し当たり前のように助手席のドアを開ける。昴はまだ動けずにいたのだが、見かねたアーサーが後部座席のドアを開けて中に座るよう促した。
今まで見たことのないくらい怯え切った眼をした昴が、ゆっくりと車内に足を踏み入れるのを見届けながら、アーサーは昴の耳に小さく呟いた。
「……すまない」
何に対する謝罪なのか、全く理解が出来なかったけれど、アーサーの呟いたその言葉はアスファルトに打ち付ける雨音に紛れて直ぐに消えてしまった。
***
なんとも剣呑な空気が車内を漂う中、汚れ一つない黒塗りの高級車は滑らかな走りで洋館へと向かう。
なぜここに急にアーサーが現れたのか、カイウスとは知り合いなのか、そもそもカイウスは何者なのか、なぜ一緒に車に乗っているのか、ルイスが来られなくなったとはどういうことなのか。気になるところは手の指では数えきれないほどあったけれど、今の車内でそれを口にするほど、心の余裕は無かった。
誰も一言も口を開かず、耐え難い無言の空気が流れる。車では学校からは十分程で着いたはずの洋館がやけに遠いように感じられた。
ルーフに叩きつける規則的な雨の音のみが車内に響き渡る。
「カイウスさん…でしたっけ、スティリアさんとお知り合いなんですか?」
そんな空気の中、誰かが口火を切らなければこのまま耐え難い空気が続くと感じた昴が、思い切って口を開く。昴の言葉に、運転席に座っているアーサーの緑の眼と助手席に座っているカイウスの紅の眼が、バックミラーから揃ってこちらを向いた。
何となく、揃ってこの二色の眼の色を見るのは、これが初めてではないような気がした。
「…どこまで言ったんだよ」
「俺のラストネームしか言ってない。 あー、えっとね、俺の名前はカイウス・スティリア。これでわかったかな?」
癖のある金髪をふわりと揺らしてカイウスはそう答えた。
「え、兄弟…ですか?」
「まあ、そんなところ」
あの鋭い目つきをどこかで目にしたことがあるような気がすると思えば、アーサーの兄弟だったようだ。
それにしては目の色が違うが、彼も半吸血鬼なのだろうか。
「それにしても、まさか『弟』に胸倉掴まれるとは思わなかったけどね。俺そんなに悪いことしたかな?」
「…黙れ」
カイウスは「弟」と強調をしてアーサーのほうを向く。わざとお道化た様子でそう言ったカイウスに対し、アーサーは冷たい緑の瞳をしてそう吐き捨てた。その様子に、カイウスはやれやれといった様子で肩を竦めていた。
どうにも、兄弟と言えどそこまで仲が良くないのかもしれない。
そもそも、胸倉を掴んで今にも殴りかかろうとしていたのに、仲が良いわけないのかもしれないが。
しかし、なぜカイウスは私の事を知っていたのだろう。アーサーが喋っていたのだろうか。
アーサーに比べて少しお調子者の気がある様子のカイウスをちらりと見て、昴は首を捻る。
少し前まではAutumn Festでの楓の葉が頭の中を占領していたというのに、いつの間にか楓の葉のことは昴の頭からすっぽり抜け落ちていた。




