Ⅰ Overture of Encounter
吸血鬼【きゅうけつ-き】
①人の生き血を吸うという魔物。バンパイア。
②無慈悲に人を苦しめて利益をしぼりとる人間。
「吸血鬼」とは、人を襲って生き血を吸うとされる伝説上の化け物・魔物のことである。英語では「ヴァンパイア(Vampire)」という。「ドラキュラ伯爵」を典型とするヨーロッパのゴシック・ホラーな貴族のキャラクターが「吸血鬼」の典型的なイメージとして定着している。
吸血鬼は多くの場合「生者の血をすする不死の化け物」である。また、「吸血鬼に血を吸われた者は自身も吸血鬼になる」とされる。
吸血鬼の典型的なイメージといえる「ドラキュラ伯爵」は、実在の人物をモデルとするキャラクターとされる。15世紀のルーマニアのワラキアを治めたヴラド三世こそ、その人である。ヴラド三世は逆臣を見せしめに串刺し刑で処することを好んだと言われており、「ツェペシュ(串刺し公)」とあだ名された。自身は「ドラキュラ(竜の子)」という異名を好んだとされる。
(デジタル大辞泉、実用日本語表現辞典 より引用)
EPILOGUE
少しだけ夜風が冷たかったあの日の夜。
その日はすごく綺麗な満月が空に浮かんでいた。
月の綺麗さはどこの国でも変わらないものだと、物憂げに月を見上げていた私の目の前に、丸い月を背景にしてその人は現れた。
闇夜にはためく真っ黒な長いマントに、ぴっちりと着こなしたタキシード。月の光に照らされて淡く輝く、真鍮のようにくすんだブロンドをオールバックにし、闇夜の中でも目立つ爛々としたエメラルドグリーンの瞳。
まるで御伽話のような出立ちをしたその人は、学校帰りの私の前に突如として舞い降りた。
闇夜から浮かび上がるように不意に現ればちばちと奇怪な音を立てる街灯の上に立ったその人は、地面から3Mは離れた空中から、呆然とこちらを見上げる東洋人の少女を見下ろした。唖然とする私の瞳に端正な顔立ちの西洋人形のような男が映される。男は私の顔を満足そうに睨め付けたあと、ゆっくり声を掛けてきた。
「こんな真夜中に、1人で出歩くのは危ないんじゃないか?」
全くどの口が言っているのかと、問い正したくなるような言葉。
西洋人形のような男は固まって動けない私に対して、じりじりと詰め寄ってくる。身動きが取れない私を良いことに、鼻の先がぶつかるくらいの距離まで近付いたその男は、口をにいっと歪めた。
その口の端からは人間にしては尖りすぎな長い犬歯が見える。
「ここには俺みたいな奴がたくさんいるからな」
その男は、吸血鬼だった。
私の名前は渡辺昴。東洋の島国であるところの日本から、西洋の島国であるイギリスに留学をしにきた生粋の日本人女子大学生であり、極めて平凡な平均的ジャパニーズの容姿に体型をしている。
専攻はイギリス文学史。この国の文学や文化が好きで、その好きが高じてこうやって本国まで学びに来たというわけである。
まあ、イギリスに留学しているので英語力はそれなり。日常生活において支障をきたさない程度には英語での会話ができるので、一般的な日本人よりは英語が堪能といえるかもしれない。
しかし、一番最初に身に付けたのが幼少期に親の転勤で数か月滞在していたアメリカでの英語なので、時折イギリス人に訂正されたりはする。
現在は大学近くの宿舎に住んでおり、そこの宿舎は私以外にも色んなアジアからの留学生がいるので、毎日話題に事欠かなくて楽しい毎日を送っている。
そういえば、昨日は同じ宿舎に住む留学生で中国出身の天茉莉と一緒に『ト〇イライト』を見たのだった。だからこんな非現実的な出来事に出会ってしまったのだろうか。
回想終わり。
目の前で今にも襲いかかってきそうな見知らぬ吸血鬼さんには大変申し訳ないのだが、私はこの手のことはあまり怖がらない性質だった。なぜならば、幼少期から霊感があり幽霊やその他諸々を目にする機会が何度かあったためである。
イギリスというのも、さすがハ〇ー・ポッターが生まれた国だけあって、幽霊らしきものはよく見かける国だったし、至る所で日本でいう心スポ的な話題をよく耳にした。私の通っている大学でも、西棟には無念の死を遂げた教師の霊が出るだとか、夜中に研究棟に寄ると危険な実験で命を落とした研究員が死んだことを知らずにまだ研究を続けているだとか、母国に帰っても聞こえてきそうな七不思議が実しやかに語り継がれていた。
とはいえ、さすがに幽霊を見るのが今までの最高ラインだったわけで、それ以外の化け物なりには出会ったことはなかったのだけれども。
しかし、これは。なんとうか。
――どうしたらいいのだろう。
素直に「あ!怖くないですよ!」と言うべきなのか、それとも「きゃー!」と叫んで逃げるべきなのか。もはや化け物というよりも、変質者にあった時のような気持ちになりながら目の前の男を見つめ返していると、男は返事がない私を不審に思ったのか怪訝そうに片方の眉毛を上げる。
エメラルドの瞳で地上を見下ろす、推察・吸血鬼さんは形の良い眉毛を顔の真ん中に寄せて困ったような顔を浮かべた。
というか、吸血鬼とやらに会ったことは人生初体験なのだが、こういうのは問答無用で襲ってくるのが鉄則なのではないのだろうか、初対面の吸血鬼さんは随分とスロースターターな分類のようである。
そう考えているうちにもどんどん冷静さを取り戻してきていた昴が、ここをどう切り抜けようか思案しているうちに、エメラルドの瞳の青年は困った顔のまま、何を思いついたのか徐に口を開く。
「…俺の言葉伝わってねーのかな」
ん?なんて?
真面目な顔をして、街灯の上に立った黒マントの見慣れぬ風貌の男は首を傾げる。
その言葉に思わずこちらが首を傾げてしまいそうになるところだったが。しかし、こう見てみるとこの男、どこかで見た事がある気がする…ような、しないような。
「困ったな、俺英語しかわかんねーんだけど…」
…吸血鬼は案外礼儀正しい分類の生き物なのだろうか。
返答がないならばそれで問答無用に襲えばいいだけの話だろうに、人間には到底手の届かない街灯の上に当たり前のように立っている男は、律義にもそう言いながら端正な顔を曇らせる。
「……ニーハオ、か?それともアンニョンハセヨか? …それ以外だとコンニチハか…?」
不毛である。
私は急に今夜が自分の料理番だったことを思い出す。宿舎はご飯付ではないので、同じ棟に住む数人で日替わりの料理番をしているのだ。この後は近くのアジアスーパーに行って買い出しをする予定だった。カレーとかでいいだろうか。
早急の用事を思い出した私は、推察・吸血鬼さんを観察する暇が無くなったため、まだ悩み続ける彼に向かっておずおずと声をかける。
そもそも何の為に声をかけたんだろうか、問答無用で襲えばいいのに。吸血鬼は血を吸うんだっけ。
「あのー」
私が急に喋り出したことに、吸血鬼はびくりと肩を震わす。もはや彼の方が反応がいい。
「私、予定あるので、用がないなら帰ってもいいですか…?」
「…………は?」
いいですかと言いつつも相手の返答を待っているつもりもない私は、狐に摘まれたような顔をしている男に向かって「失礼します」と頭を下げてその場を後にしようと男の横を通り抜ける。
一拍おいてから、我に帰った男が私の腕を掴む。
「い、いやまて、なんだそれ。…は?……え?」
人の腕を掴まないでほしい、セクハラで訴えるぞ。
引き留めたくせに言葉にならない音を発している男に、もはやあなたに興味はありませんという目を向けて言い放った。
「私、急いでいるんで」
掴まれていた手を振り払ってその場を後にした。
男は相変わらず狐に摘まれたような顔をしてその場に取り残されていた。
狐に摘まれたのはこちらだというのに、とんだ変質者である。
これが、私と彼の初めての出会いだった。
まさかこれが、この後の運命を決定付ける出逢いとなろうとは。
カレーの材料を手に入れるために早々とその場を去った昴の頭の中では、到底考えもしなかった。