12.
翌朝、千里くんの友達は「また来年も来るからね!」と笑顔で僕に手を振って帰っていった。
見送るときになって、急に込み上げてきたのは申し訳なさだった。
彼らは滞在中、親し気に話しかけてくれたり、一緒にゲームをしようと誘ってくれていたのに、個人的な理由で気持ちが乱れていた僕は断ってばかりだった。それに花火のときだって、一言の断りも入れずに帰るという失礼な態度を取ったのに、翌日会ったときには「体調悪くなった?」と心配してくれたのだ。
彼らが同じ年の僕を気遣って、仲間に入れようとしてくれていたことには気が付いていた。それなのに僕は彼らの顔をきちんと見ることもなく、俯いてばかりで向き合おうとしなかった。笑顔もまともに作れていなかったはずだ。接客をしている身として、最低な態度だったと思う。
また彼らが入浜に遊びに来てくれたときには、今度こそ心からの笑顔で迎えよう――彼らに手を振りながら、僕はそう心に決めた。
そしてもう一人、僕がうまく向き合えていない相手がいる。千里くんだ。
千里くんには朝になってから「昨日はごめん」と謝ったが、あれからずっと僕たちの間には変な空気が流れている。なぜなら僕が千里くんに普通に接することが出来なくなってしまったからだ。
千里くんの顔を、まともに見ることが出来ない。
話しかけられても目を合わせられず、ぎこちない返事しかできない。
そんな変な態度に千里くんが気が付かないはずがなく、初めは「体調悪いのか?」と聞かれ、「そんなことないよ」と答えて誤魔化していたが、そんなやり取りを繰り返して三日も経つと、千里くんは何も言わなくなってしまった。ただ何も言わず、じっと僕のことを見るだけ。
当然、二人部屋は気まずさでいっぱいになった。
今日も僕は「疲れたから」と言い訳をして、早々に布団を被って眠ったふりをしていた。
廊下を歩く音が聞こえ、部屋のドアが開く。
「はあ……」
部屋に入ってくる千里くんの気配と、重いため息の音。じっとこちらの方を見ている気配を感じて、僕は布団の中でぎゅっと身を固くした。
「寝るか……」
千里くんの小さなつぶやきが聞こえ、やがてベッドが軋む音が聞こえる。千里くんが横になったのだろう。
(どうしよう……千里くん、絶対変だと思ってるよね……)
だけど自分でもどうしようも出来なかった。
千里くんに友達以上の気持ちを持ってしまったことが申し訳なくて、万が一千里くんにばれてしまったらと思うと怖くて怖くてしょうがないのだ。
それに、千里くんには好きな女の子がいる。
そのことを思い出すたびに気持ちがぐちゃぐちゃに千切れて、何をどうしたら元の自分に戻れるのか全然わからなかった。
壁掛け時計の秒針を刻む音と、遠くから響いてくる波の音。二人で過ごすこの時間は、数日前まではあんなに心休まるものだったのに、今は心が削られるように辛い。
あんなに楽しかった夏。
それが一気に色彩と光を失ってしまったかのようだった。
***
「んで蒼佑のやつさ、元カノと連絡取ってたんだよ!」
「え、本当ですか?」
「ほんとなんだよ~。夜によく電話かかってくんの。別れて一年も経つんだよ? 今さらなんで~!? って感じだよ」
ペンションの仕事も終えて、各自風呂も済ませてあとは寝るだけというリラックスタイム。ペンションの玄関テラス横の木製のベンチに腰掛けた蓮さんが、いらだったように両手で髪の毛をかき乱す。隣に座った僕は、「そうですよね」と相槌を打った。
「はぁ……。ごめんな、俺だけしゃべって。凪だっていろいろ大変なのに」
「いえ、全然です。大丈夫ですよ」
千里くんと時間が無くなって、僕はここ数日蓮さんと過ごすことが多くなった。落ち込んでいる僕を心配してくれて、蓮さんが「ちょっと話さねえ?」と声を掛けてきてくれたのだ。
ふさぎこんで暗い気分で過ごしていたので、蓮さんの明るさに救われている。くだらないことで笑い合うひと時は楽しいし、それに千里くんのことを考えずに済むことは、今の僕にとっても救いだった。
「んじゃ次は凪の番ね! はい、何か喋って!」
「えっ、急に何か喋ってって言われても……」
何かといわれても、思いつかない。いや、ひとつあった。
「それじゃ質問でもいいですか? 蓮さんに聞いてみたいことがあって」
「うん、もちろん」
僕は蓮さんの顔を伺いながら、小さな声で聞く。
「あの……蓮さんは、蒼佑さんを好きになったとき、怖くなったりしなかったんですか?」
蓮さんはぱちくりと目を瞬いた。
「僕……今まで、普通に女の子のことを可愛いなって思ってたんです。だけど男の千里くんのことを好きになって、自分はそういう人間だったのか気が付いたとき、やっぱりショックだった。こうして蓮さんがそばにいてくれなかったら、千里くんへの気持ちも認めることが出来なかったと思うんです。……えっと、だから、僕は蓮さんに感謝していて……。でも蓮さんのときはどうだったのかなぁって」
僕の話を相槌を打って聞いてくれていた蓮さんは「う~ん」と考え込んだ。
「確かに蒼佑のことが好きなんだって気が付いたときはどうしていいかわからなかったよ。自分の気持ちをずっと否定してたし、認めたくなかった。でも誰かを好きになる気持ちって、自分でもどうしようもないじゃない。だから認めるしかなかってっていうか……」
静かに淡々と話をする蓮さんの横顔を見ながら、僕は思った。
蓮さんがこの結論までたどり着くまでに、きっと長い時間がかかったのだろう。悩み苦しみながら、蓮さんが蓮さんなりに掴んだ結論だ。
「まあでも……俺の場合は蒼佑が初恋だから、自分がゲイなのかどうかはよくわからないけどね」
「……僕も同じです」
「あ、千里が初恋?」
「はい。でも僕の場合は千里くんに失恋してるし……。この次に好きになるのが男の人なのか女の人なのかはわからないですけど、しばらくはもういいや」
「えーっ、そんなこと言わず、次に向けてガツガツ行こうよ!」
「ええ……ガツガツって、蓮さん……」
玄関のドアが唐突に開いたのはそんなときだった。
出てきたのは千里くんだった。突然現れた彼の姿に、反射的に身体が緊張する。声が出ない僕の代わりに、蓮さんが千里くんに声を掛けた。
「あれ、千里? どうしたの?」
「ああ……ちょっとな」
千里くんはベンチの方まで歩いてくると、僕の前に立った。
玄関ポーチの照明に照らされた千里くんの表情は、あからさまに険しかった。ぎゅっと眉間にしわを寄せて、僕のことをじっと見つめている。
「凪、ちょっといいか?」
「……っ」
咄嗟にうつむいてしまった。だって、千里くんの顔があまりにも怖かったのだ。
僕の避けるような行動に、目の前の千里くんの雰囲気がぴりっと張り詰めたのが分かった。
(ど、どうしよう……蓮さん……何か言ってくれないかな)
助け舟を期待して、僕は俯いた姿勢のままちらっと横の蓮さんの方に視線をやった。だけど、蓮さんはいきなり立ち上がると言った。
「あ~、俺、先に中に入ってるわ……」
「えっ」
咄嗟に行こうとしている蓮さんの服を掴んでしまった。
「……凪……」
服を引っ張られた蓮さんが振りかえり、苦笑した。そして僕が掴んだ指を上からぎゅっと握り、励ますように軽く振る。
それが、「がんばれ」とでも言っているようで。僕は去っていく蓮さんを黙って見送るしかなかった。
後には僕と千里くん、そして重い沈黙が残される。
「隣、いいか?」
「う、うん……」
千里くんがすとんと隣に腰を下ろす。
ベンチに並んで座ったが、千里くんは何も言わない。どんどん沈黙が重くなっていく。僕はどうしたらいいかわからずに深く俯き、膝の上で拳を握った。
「……俺、お前に何かしたか?」
静かな低い声だった。ストレートで核心を突いた問いに、一気に身体が緊張した。口の中がカラカラに干上がってくる。
「……別に、なにも、してないよ」
かろうじて声が出たが、震えてしまっていた。
「じゃあ、なんで避けるんだよ」
「……避けてなんか」
「じゃあ、なんでこっちを見ないんだ?」
千里くんの声が一段と鋭くなった。
びくっと肩を揺れてしまう。千里くんが舌打ちをした。
「俺のこと、気持ち悪いのか?」
「……え?」
意味がわからないことを言われ、僕は顔を上げる。
正面から目が合いどきりとした。
千里くんは、僕のことを睨むような眸の強さで見つめていた。瞳の中には、温度の高い炎のようなものがちらちらと見え隠れしている。
「俺の気持ちは迷惑か? ……それとも、アイツのことが――蓮のことが好きなのか?」
全く意味が分からない。
(なんで蓮さんが出てくるの? 蓮さんのことが好きなのか……ってどういうこと?)
驚き、僕は混乱したまま口を開こうとした。
「蓮さんのことは好きだけど、それって――」
どういう意味? と聞こうとした声は、最後まで言葉にならなかった。千里くんが、急に僕の顎を掴んできたのだ。
顔をぐいっと引き寄せられる。
次の瞬間、視界一杯に千里くんの顔が広がった。唇に感じる温かさと柔らかい感触。
――――え?
キスされている――と気が付くには時間がかかった。
気が付いた瞬間、心臓が爆ぜそうなほどに脈打った。
「っ…………やだっ」
僕の手が、勝手に千里くんを突き飛ばした。
ぐらりとバランスを崩した千里くんが後ろに倒れ込む。
僕は震える手を唇に当てた。
「え……? 何、今の……」
まともに思考が働かない。衝撃で頭が真っ白だった。
千里くんは唇を噛んでうつむいていたが、静かに立ち上がる。
「悪かった……」
千里くんはそう言い残すと、海岸のほうへと足早に歩いて行ってしまった。
僕はしばらくの間動けなかった。
キス、された。
信じられない。どうしてキスなんか。
もう一度指で自分の唇に触れる。その感触を感じたとき、まるで取り返しのできないことをしでかしてしまったかのような罪悪感と恐怖が湧き上がってきた。
身体が細かく震えだす。
(こんなの……駄目だ……)
男同士でキスをするのは、普通じゃない。正しいことじゃない。
(これ以上千里くんの側にいるのは無理だ。離れないと……)
僕は混乱した頭のまま、よろよろとベンチから立ち上がった。
***
「……叔父さん」
僕が声をかけると、キッチンで明日の朝食の仕込みをしていた豊叔父さんは振り向いて、驚いた顔をした。
「凪……どうしたんだ? 何かあったのか?」
きっと酷い顔をしているのだろう。叔父さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
「豊叔父さん――」
きちんと説明しなくちゃいけないのに、膨れて大きくなった昏い感情が胸の中につっかえて言葉が出ない。しばらく言葉を探したが見つからず、僕はただ頭を下げた。
「ごめんなさい。僕、帰りたい。家に帰りたいです。ペンションの手伝いも……もう、無理です」
叔父さんが驚いたように息を止める。
「ごめんなさい。こんな無責任なこと言って。ばあちゃんがいない今、僕が頑張らなくちゃいけないのに」
それなのに僕は、千里くんとも自分自身とも向き合おうとせず、目を背け、逃げようとしている。恐怖と罪悪感に負けたのだ。
情けなさにじわりと目頭が熱くなってくる。
叔父さんが大きく息を吸い込み、はあ、と吐き出した。
「何言ってんだ、凪。お前はまだ高校生だろうがよ」
「……え?」
叔父さんの声は言葉とは裏腹に、深く慈しむような響きがあった。
「まだ高校生のガキだろ、お前は。責任なんて背負い込まなくていいんだよ。わがままなこと言えよ」
呆然と顔を上げる。おじさんは、今までにないくらいに優しく、そして泣きそうな顔をしていた。
「お前は昔はわがまま放題の可愛いガキだったんだぞ。それなのにいつのまにか我慢強いお利口ちゃんになりやがって」
叔父さんの目が赤かった。でも眼差しは優しく、唇は穏やかに弧を描いている。
「休めよ、凪。何も考えずに休め。めんどくさいこと考えんのも、心配すんのも、なんとか帳尻合わせんのも全部大人の仕事だ」
「豊叔父さん……」
ぽん、と肩を叩かれ、それに押し出されるように涙が流れた。
「ありがとうございます」
僕は頭をさげ、そして部屋に置いていた自分の荷物をまとめると、叔父さんのペンションを後にした。
海岸からは波の音が絶え間なく聞こえる。
僕は立ち止り、大きく息を吸った。でも泣いて詰まった鼻では海の匂いがわからない。
あれほど大好きだった夏の海が、今はとても遠い。