10.
「今日も暑いなあ……」
朝からじりじりと照りつける日差しの中、僕はペンションの裏庭で洗濯物を干していた。Tシャツは背中にぴったりと張り付き、額からも首筋からも汗がつーっと流れる。
それでも不思議と心は浮き立っている。というか、にやけが止まらない。
洗濯かごに手を伸ばしながら思い出すのは一昨日のことだ。
『どうせだから遊んでいこうぜ』と言い出した千里くんと、オープンキャンパスを早めに切り上げて、二人で街中に遊びに行った。
洋服を見て回ったり、おしゃれなカフェに入って見たり、本屋さんで千里くんおすすめの雑誌を教えてもらったり。こんなふうに誰かと二人きりで遊ぶのは初めてのことで、僕は浮かれっぱなしだった。
そして、最後に立ち寄った雑貨店。
店内をいっしょに見て回っているとき、ふと目に留まったものがあった。海をモチーフにしたコーナーだ。その一角に、ガラスで出来たキーホルダーが置かれていた。
掌にすっぽりとおさまるほどの平べったいガラスは、全体的に透明感のある水色で、上に行くにしたがってだんだんグラデーションが濃くなっていく。そしてほぼ透明な下の方には純白の砂が閉じ込められていた。
「これ……入浜の海みたい」
僕が手に取ったキーホルダーを、隣の千里くんがのぞき込んでくる。
「確かに。砂の色も白いし入浜の海みたいだな」
「ね」
頷きながら、指で摘まんで、目の高さに掲げて揺らす。店の照明を反射してきらきらと輝くそれを眺めていたら、僕は衝動的に欲しくなってしまった。
「これ、買おうかな……」
まるで僕の今年の夏の楽しさと輝きを閉じ込めたようなキーホルダーだ。
「いいじゃん」
千里くんが言いながら、僕の持っているキーホルダーと同じものを手に取った。「んじゃ俺はこれにする」と言って、自分が持っているキーホルダーと、僕が持っているキーホルダーを交換した。
どういうことだろうと首を傾げて見上げると、千里くんはにかっと笑った。
「俺が凪のを買うから、凪は俺のを買って。んで交換しようぜ」
「え……? いいの?」
照れたように頷く千里くんに、思わず「嬉しい!」と叫んでしまった。
店の外に出てお互いのキーホルダーを交換すると、千里くんは、
「お揃いみたいでいいじゃん」
と笑っていた。
洗濯物を干し終わった僕は、ポケットに入れてあるスマホを取り出した。そこには一昨日に千里くんに買ってもらったキーホルダーがぶら下がっている。
僕はそれをそっと揺らしてみた。太陽の光を弾いてきらきらと光るガラスは、まるで海そのものみたい輝きだ。
(……嬉しかったな)
一緒にオープンキャンパスに行けたことも、手を繋いで歩いたことも、お揃いのキーホルダーを買ったことも。
そのひとつひとつを思い出すと、なぜか心臓がどきどきしてしまうけど、それはちっとも嫌な感情じゃない。
(こういう気持ちって、いったい何なんだろうな……)
この感情に付ける名前はあるのだろうか。友達よりもずっと大事で、もっと近づきたいと思う気持ち。
そんな気持ちを、僕は誰かに対して持ったことなどなかった。
(千里くんは……僕のことどう思ってるんだろう)
出会ったときより、千里くんは僕の前でよく笑うようになった。楽しそうに声を上げて笑ったり、僕を見守るように目を細めて優しく笑ったり、すこし頬を赤くしながら照れたように小さく笑ったり。
いろんな顔の千里くんを知った。もっともっと彼のことを知りたい。近づきたい。そのためにはどうしたらいいんだろう。
「おーい、もうそっちは終わったぁ?」
「っ……うわっ!」
いきなり後ろから声をかけられて、驚いた僕は飛び上がった。慌てて振り返ると、そこには蓮さんと蒼佑さんが立っている。
「きゅ、急に話しかけないでくださいっ。びっくりしましたよ!」
どきまぎしながら、後ろ手にキーホルダーのついたスマホを隠した。すると蓮さんがにやっと笑う。
「なんか凪くん、スマホ見てにやけてなかった?」
ぎくりと身を縮めてしまい、僕は慌てて首を横に振った。
「別ににやけてないですよ!」
「えーほんと? 怪しいんだけど」
慌てて自分のスマホをお尻のポケットに仕舞おうとしたけど、めざとい蓮さんが身を乗り出してきて、それを見つけてしまった。
「あれ? それって、キーホルダー?」
ぎくりとした。蒼佑さんまで「どれどれ」と僕の後ろを覗き込んでくる。
「あ――っ! それ見たことある! 千里も同じヤツ持ってた!」
「へっ……!? えっ……!!」
ずばりと蓮さんに言い当てられ、僕は誤魔化すことができなかった。蓮さんがにやにやと笑う。
「へえ、凪くんと千里がお揃い〜?」
「ち、ちがっ……! そ、そういうんじゃなくて、たまたまというかっ……!」
「たまたま同じキーホルダー、偶然買っちゃったのぉ? ふぅ〜ん?」
わたわたと慌てていると、蒼佑さんが助け舟を出してくれた。
「もうそれくらいにしときなよ、蓮。凪くんが困ってるでしょ」
蒼佑さんに嗜められ、蓮さんがぺろっと舌を出した。
「はは、ごめんごめん。凪くんがあまりにも可愛過ぎて、ついつい」
「ついついじゃないだろう。あんまりしつこくすると嫌われるぞ」
「えっ! それは困る! 凪くん、俺のこと嫌いになった!?」
焦って蓮さんがいうので、可笑しくなってしまった。
「嫌いじゃないですよ。怒ってもいません」
「ほんとぉ? あーよかった! 凪くんに嫌われたら生きていけないよ」
がばっと蓮さんが抱きついてくる。
「ちょ、ちょっと……! 蓮さんっ」
万力のような馬鹿力でぎりぎりと背中を締め付けられ、あまりの苦しさに僕はじたばたと蓮さんの腕の中であばれた。
「こーら、蓮。駄目でしょ。凪くんが嫌がってる」
蒼佑さんが蓮さんの首根っこを掴み、べりっと引き離してくれた。た、助かった……。
「ごめんごめん! 凪くんが可愛いからついつい……っていうかこのくだりさっきもやったな」
「……やりましたね」
あははと笑う蓮さんのおでこを、蒼佑さんがぺちんと叩いた。
「い……った!」
「蓮、用事忘れてるでしょ」
「用事……? あ、そうだった! 千里が凪くんのこと呼んでたんだった! ペンションの表のほうに来てって千里が言ってたよ」
「……えっ? あ、はい、わかりました」
何の用事だろう。
僕はスマホをポケットにしまい、タオルで汗をぬぐってペンションの表へと向かった。
***
ペンションの裏庭を横切り、建物の周囲をぐるりと回り表に向かう。玄関を出たところに千里くんが立っていた。
その隣には、見覚えのある三人組。
(あれ、あの人たちって……)
思い出した。二日前のオープンキャンパスで会った、千里くんの高校のお友達だ。
「あ、凪!」
こちらを振り返った千里くんが手をあげる手招きをする。
「凪、こいつらのこと覚えてる? この前オープンキャンパスで会ったんだけど。うちのペンションに泊まりに来たんだって。今日から一泊二日」
千里くんが説明してくれ、僕は三人に向かってぺこりと頭を下げた。
それにしてもちょっと驚きだ。
僕と同じ高校生なのに、急に思い立って友達同士でペンション泊まれるくらいのお金があるということだ。
(あ、でも千里くんだってご両親が弁護士さんだもんな。千里くんの周りってみんなリッチなのかも……)
そう思うと、なんとなく気後れしてしまった。
近くで見ると女の子たちは同じ年とは思えないほどに大人っぽくてきれいだし、男の子(――たしか名前は涌井さん)も千里くんとよく似たあか抜けた雰囲気を持っている。
クラスにいたら、一軍と呼ばれるような人たち。
そこまで考えてはっとした。
(お客さんを値踏みするようなことをして、駄目じゃないか!)
僕は気を取り直し、「いらっしゃいませ」と頭を下げた。三人のお友達と千里くんをペンションの中へと促す。
「へえ、いいところじゃん」
お友達の女の子の一人が、ペンションのフロントを見回しながら言った。千里くんが自慢げに言う。
「だろ? 飯もうまいから期待しとけよ」
「もしかしてお刺身とかも出る?」
「出る出る」
「うわぁ、楽しみ」
と盛り上がる同級生と千里くんを、僕は受付の椅子に座りながら、ほほえましく見守った。
蓮さんや蒼佑さんといるときは、千里くんはどうしても弟分の存在になってしまうが、友人と話す姿は普通の高校生といった感じだ。
(なんだか新鮮だな……)
千里くんの新しい面を知ることが出来たみたいで、嬉しい。
にやにやしながらフロントの中で事務作業をしていると、涌井さんが宿帳を持ってきてくれた。
「あ、記入終わりましたか?」
「うん」
「ありがとうございます」
礼を言って受け取る。ざっと見て問題がなさそうだったので、僕は背後に掛けてあった部屋のカギを二つ手に取った。
「――あ、ねえ。ちょっといいかな?」
すると涌井さんがフロントのカウンターに寄りかかるようにして、身を乗り出してきた。小声でひそひそと話しかけてくる。
「はい?」
「聞きたいんだけど、ここに女の子のバイトの子っている?」
え? ときょとんとしてしまった。
女の子? なんのことだろう?
「女の子ですか? いえ、いませんけど」
僕がそう言うと、涌井さんは驚いたような顔をした。
「えっ、そうなの? 本当に!?」
どうしてそんなに驚いているのだろう。
「本当ですけど……」
「いやー、あのさ、千里のやつ、最近好きな子が出来たって聞いたから、見に来たんだけどな~。……そっか、ここに女の子いないのか。それじゃここじゃないみたいだな」
(――――え?)
固まった僕の指からカギを抜き取り、「ありがと、お世話になります!」と元気に言い残して涌井さんは千里くんたちのところに戻っていく。
でも僕は少しも動くことが出来なかった。
(今のって……)
涌井さんの言葉をもう一度反芻し、僕はもう一度「――え?」と小さく呟いた。
千里くんに、好きな女の子が、いる――?
頭を後ろから殴られたようなショックに、頭が真っ白になる。
身体全体が氷のように固まる。胸の中からぱきっと音が聞こえた。
それは何かに亀裂が入る音だった。じんじんと痺れるような痛みを残し、亀裂は少しずつ少しずつ、全身に広がっていく。
(そうか、僕――)
そのときになって、ようやく自分の気持ちを理解した。
――僕は千里くんが好きなのだ。
友達としてなんかではなく、恋愛として。
僕は反射的に、ポケットにしまっているスマホに手をやった。指の先に感じる硬質なガラスの感触。さっきまで温かい感触を心に残していたはずのキーホルダーがやけに冷たい。
(僕、千里くんのことが好きなんだ……)
楽しそうに友達としゃべる千里くんの横顔を、僕は茫然と眺めた。