1.
しゃらしゃらしゃらと自転車のタイヤが回転する。
(――海風が気持ちいいなあ)
僕・天ケ瀬 凪は自転車を走らせながら、胸いっぱいに海風を吸い込んだ。
左手に広がるのは一面エメラルドグリーンの海原、頭上には真っ青な空。海から潮の匂いを含んだ風が吹き上げてきて、目の先で僕の茶色く細い猫っ毛がふわふわと揺れる。
あいかわらず背中に張り付いた制服のシャツは気持ち悪いし、首筋を流れる汗も止まらないけど、僕はこの時期がたまらなく大好きだ。
しばらく海沿いの県道をいくと、小さな浜が見えてきた。
ここ入浜海水浴場は、日本海に面した穏やかな入り江だ。白い砂浜が500メートルほど続く遠浅の海で、ややマイナーではあるものの、あまり混まないのでのんびりと楽しめる隠れた人気スポットでもある。
夏の盛りになると海の家も二軒ほど開かれる。そのうちの一軒が、僕のばあちゃんが営む『しおさい亭』だ。
僕はそのしおさい亭の建物にふと視線をやり、あっと声を上げた。建物の近くで、小さな人影がせわしなく動いているのだ。
あれは――。
「ばあちゃん!?」
海の家の窓から大きな板戸を外しているのは、間違いなく僕のばあちゃんだった。
急いで自転車を海水浴場へと続く小道へ向ける。
「ばあちゃん! 何してるの!」
駐車場に自転車を止め、大声を出しながら走り寄ると、小柄な後姿がゆっくりと振り返った。
「なんだ、もう帰ってきたのかい」
玉ねぎみたいに頭のてっぺんで髪の毛をひっつめたばあちゃんは、金縁眼鏡を面白くなさそうに指で押し上げた。
「『もう帰ったのかい』じゃないよ! 準備は僕が学校から帰ってくるまで待っててって言ったのに。もう、無理しないでよ……」
僕は急いでばあちゃんの手から一抱え以上ある大きな板を取り上げた。
せっかちなばあちゃんが僕の帰りを待っているわけがないと思って、こうして終業式が終わって急いで帰ってきてみれば、やっぱりだ。
「これくらいなんともないよ。大袈裟だねぇ、凪は」
「大袈裟じゃないよ。この前の検診で無理しないようにって言われたの知ってるんだからね」
「なんで知ってるんだい」
「豊叔父さんに聞いたんだよ」
そう僕が言うと、ばあちゃんは心底嫌そうに顔を顰めた。「まったく豊は口が軽いったらありゃしない」としばらくぶつぶつ文句を言ってたが、今度は矛先を僕のほうに向けてくる。
「それより凪、明日から夏休みなんだから、今日ぐらいは友達と遊んできなって言っただろ。ずいぶん早いお帰りじゃないかい?」
ぎくりとした。
「あ~、うん、特に誰にも誘われなかったからさ」
……というのは嘘だ。一応遊びに行こうぜと友達に声は掛けられたし、行ってみようかなとも一瞬思ったけど、結局我慢することにしたのだ。
だって僕が優先すべきはどう考えてもこっちだ。明後日には海開きで、しおさい亭も明後日から営業開始だから、準備は山ほどある。
僕の下手な嘘を信じたらしいばあちゃんは、ぎゅっと顔を顰めて、心配そうな顔つきになった。
「なんだい、そんなの自分から誘えばいいだろう」
「う~ん、まあ、そうだね」
「若いもんが遊ばないでどうするんだい」
「う、うん」
「我慢してんのかい」
「我慢だなんて……」
こんなのは我慢にも入らない、と僕は思う。
何といっても、早くに両親を亡くした僕を十年以上育ててくれたのはばあちゃんなんだから。僕だってもう十七歳だし、今度は僕がばあちゃんを支える番だ。
「あんた、友達いないのか?」
「失礼だな、ちゃんといるよ」
「友達は大事にしないとだめなんだよ」
「してるって。大丈夫だよ。ほら、残りは僕がやるからそこ退いて」
ばあちゃんに代わってすべての板戸を外し終わり汗を拭っているとばあちゃんが思い出したように口を開いた。
「そういえば、今年も豊んとこにバイトの学生が三人入るってさ。昼時はこっちに寄こすって言ってたよ」
「え、おじさんが? それは助かるな」
豊おじさんは亡くなった僕の父さんの弟で、この近くで小さなペンションを経営している。七月中旬から八月の中旬までの時期がいちばんの書き入れ時で、その時期だけ学生さんのバイトを3人くらい臨時で雇っているのだ。
この海水浴場は混雑するわけじゃないし、『しおさい亭』だってこぢんまりした小さな海の家だけど、僕とばあちゃんの二人体制だと昼どきはかなり忙しい。なので忙しい時間帯だけ、豊おじさんのところのバイトの人たちに手伝いに来てもらっているのだ。
「どんな人が来るんだろうね」
「さあねぇ。二人は大学生で、あともう一人は凪とおんなじ年だって言ってたよ」
「ということは高校二年?」
「たぶんね」
「そうなんだ。うわあ、楽しみだな」
毎年おじさんのペンションにバイトに来てくれるのはみんな大学生で、その人たちは僕に優しくはしてくれるけどあまり仲良くはなれない。高校生と大学生で話も合わないからしょうがないとは思うけど、それでもいつも少し寂しかったのだ。でも同じ年だということは、もしかしたら友達になれるかもしれない。
(……仲良くなれるかな。なれたらいいな)
日の光で輝く海を見つめながら、僕は期待に胸を膨らませた。