2 生贄
目を覚ましたのは、いつのことだったか。少し前から俺は川を眺めるだけの存在ではなくなり始めていた。夢はまだ続いているような、しかし遠くから誰かに呼ばれ意識がはっきりし始めるような、そんな微睡みと覚醒の合間。
ちょうど幼い頃、学校に向かう前に朝ご飯を食べさせるため、母が起こしに来てくれたことを思い起こさせる。焼けたパンとベーコンの良い香りに、起きたいけれど、布団の暖かさがそれを許してくれない、そんなひと時。
俺はいつものように川の流れを、自身の流れる様を眺めている。なにせ他にすることがない。退屈という言葉は、既に忘れてしまって久しい。その言葉は忙しい時や楽しい時があってはじめて成立するのだと知った。
だが、最近は中々悪くない。川の流れのすぐそばに、自身もかつてはそれであった、人という生き物が住みつき始めたのだ。他の動物達が川の流れで喉を潤したり、泳いだりするのを眺めるのも悪くないと思っていた。だが、やはり人という生き物は面白い。
はじめ近くの洞窟などで暮らしていた彼らは、今では川辺に集落を作って暮らしている。あまり近づくと危ないぞ、俺のように川に呑まれて死ぬぞ、そんなことも思いながら眺めている。
何より面白いのは、どうも彼らは、俺のことを神として崇めはじめたようなのだ。
「おお…! 偉大なるファンファ河に注ぎ込む、我らが守り主ルオール川よ!神々の中でも最も慈悲深きルオール川の神よ!」
「「「ルオール様! ルオール川様!」」」
声が聞こえる。老人の声と、それに重なる幾人もの人々の呼び声。川岸に台座のようなものが建てられて、そこで火が焚かれている。何かの儀式だろうか。
「「「ルオール様! ルオール川様!」」」
彼らは呼び続ける。「ルオール川」というのは俺のことだろうか。何を意味しているのかは分からないが、悪くない名前だと思う。
「「「ルオール様! ルオール川様!」」」
呼び掛けは途切れることがない。微睡みがほどけはじめる。あるいは、彼らの呼び掛けによって俺は目を覚まされようとしているのかも知れない。
「ルオール川様……! 我が村で最も美しく清らかな娘を捧げます。どうか我らをお救い下さいませ……!!!」
幾度かの呼び掛けの後、再び老人が声を上げる。その声を聞き、俺ははっきりと目を覚ました。随分と長い間夢を見ていた。その夢から、今まさに目覚めたのだ。
決して「最も美しく清らかな娘」に釣られたわけではない。その言葉に非常に惹かれるものがあるのは確かだ。しかし何より聞こえてくる老人の悲痛な叫び声に目を覚まさざるを得なかったのだ。重ねて言うが、決して「最も美しく清らかな娘」に釣られたわけではない。
「ルオール様…どうかこの身と引き換えに、皆をお救い下さい…!」
今度は若い女の声が聞こえてくる。老人の声と同じ様に、あるいはそれ以上に悲痛な願いを込めた声だった。そしてその女は、ザバンッ!と大きな水音を立て、頭から真っ逆さまに、俺の中へと飛び込んで来たのだった。
どんどんと沈み込み、流され、このままでは彼女は死んでしまうだろう。にもかかわらずギュッと目をつむり、手を胸の前で組み合わせた祈りのポーズをとったまま身動ぎ一つしないその女。ぼこぼこと口と鼻の穴から空気の泡が立ち上がって、彼女の息吹は失われていく。
なんと勿体無いことをするのだろう、と思った。言葉の通り中々に美しい娘だ。歳の頃は15、6くらいだろうか。貧しさのためか黒い髪に艶は無く、胸や尻も侘しさを感じさせるが、顔のつくりには目を見張るものがある。
やや貧相だが磨けば光る娘だ。我が愛でるに相応しい…。ん…?今、俺は自分のことを「我」と呼んだだろうか…?長い夢がそうさせたのか、どうにも頭がぼんやりとしている。
俺がそんなことに首を捻っている間にも、女の生命は失われていっている。驚くべきことに、彼女は空気を奪われ相当な苦しさを味わっているにも関わらず、未だに祈りを捧げ続け、生に縋り付く素振り一つ見せはしない。
勿体無い、実に勿体無い。このままではあの美しい娘はただのどざえもんと化してしまう。くれると言うのなら、本当に貰ってしまおう。俺は自分の中に沈み込む彼女の細い身体を抱き締め、そっとその唇にキスをした。
驚きの表情と共に彼女の目が開かれる。少しだけ鮮やかな鳶色の、キラキラと光を湛えた瞳だった。このまま川底で魚につつかせるには惜しい輝きだ。
「ごぼごぼごぼ……! ごぼっ……!?」
女がせっかく俺が吹き込んでやった空気を吐き出しながら何事かを訴えている。やれやれ、そんなに死にたいのだろうか。仕方がないので俺はもう一度彼女にキスをして息を吹き込んでやる。彼女はビクリッと身を縮めて大人しくなる。そうそう、それで良いのだ。しばらくそうしておきなさい。俺はいつ振りかも分からない微笑みを浮かべる。
そして彼女を抱えたまま、真っ直ぐに水面を目指す。川の流れが俺と彼女の身体にのし掛かるが、不思議と苦しくもなければ邪魔にも感じない。当たり前か。なにせこの川は俺自身なのだから。
水と空気の境界が間近に迫る。ばしゃっ! と大きな音を立て、一気に突っ切って宙へと飛び上がる。俺と彼女を中心にして水飛沫が上がり、きらきらと太陽の光を反射する。
俺は今、俺の中から飛び出した。俺が神として生まれたのは、あるいはこの時だったのかも知れない。
「無事か……?」
「は、は、はい……!」
腕の中の女に話しかけると、彼女はやはり鳶色の目を見開いて、どもりながらも返事をした。鈴が鳴るような、艶やかで可愛らしい声だ。彼女が身を投げる時に聞いた声よりもはっきりと聞こえてきたその声は、美しい彼女の見た目によく合っていると思った。
ああ、なんと清々しい気分だろうか。いつぶりだろう、川の流れを眺める以外のことをしたのは。美しい娘まで手に入り、本当に気分が良い。これは彼女を捧げた者達に、何か褒美をくれてやらねばなるまいな。
「あやつらのもとへ行くぞ。しっかりつかまっておけ」
「えっ……?は、はい……!」
女は一瞬頭の上に疑問符を浮かべるも、すぐに了解して俺にしがみつく。平たい胸が俺の身体に押し付けられ、僅かに柔らかさを伝えてくる。うむ、それで良い。
俺は彼女を抱きとめ、長い身体を翻し、先程の老人達のもとへと向かうのだった。