ミモザ・エタンフィール
『君は利口になりたいのだろう? なら、この事は黙っておくべきだ』
肩が焼けるように熱い。
痛みによって呻く声すら奪われる。息が出来ない。
手によって塞がれた唇がようやく解放されれば、荒々しい息遣いが耳元で囁く。酷く不快で肌がザワリと全身が逆立つ。だが、ミモザは動けなかった。
怖い。
触らないで。
けれど動くことは出来ない。
男の囁く不快な声がミモザを硬直させるには充分だった。
無骨な指が頬を撫で、首筋に移動すると首元にしっかりと閉ざされたプリーツのボタンに指をかける。
恐怖から涙が浮かび上がった。
自身に覆いかぶさる男の高揚した息遣いが顔にかかる。
高揚した男の瞳は、ミモザを見てなどいなかった。
『愛している』と告げる声は決して真実を告げているようには見えなかった。
そこにあるのは欲望だけだ。
ミモザの服を乱し、素肌を晒し、己の欲が思うままにミモザを蹂躙したいという本能と薄暗い欲しかそこにはなかった。
ミモザの目前に唇が近づいてくる。
アイスブルーの瞳は恐怖から目を閉じた。
瞼の脳裏に浮かび上がる映像は、今ミモザを組み伏せる男の優しい笑顔だった。
男は、セイデンはミモザの幼馴染だった。
互いに子爵家の子供として生まれ、必要な貴族としての教育も一緒に受けてきた。セイデンはミモザより年が二つ上で、ミモザにとって兄と呼べる存在だった。
婚約の話だって出ていた。
だからこそ、いずれミモザはセイデンの妻になるのだろうと思っていたのだ。
決して今のような事態を考えたことなどなかった。
「セイ……デン……!」
お願いだから止めてと。
大好きだった貴方の姿に戻ってと。心の中で何度となく願う思いを、彼の名を叫びながら祈り続けた。
セイデンの唇がミモザに重なろうとした瞬間、ミモザに名を呼ばれた男はぴたりと動きを止めた。
涙を滲ませた眦で僅かにセイデンを見てみれば。
彼は血の気を無くした様子でミモザを茫然と見つめていた。
「…………セイデン?」
明らかに様子がおかしい幼馴染の名を呼べば、セイデンは堰を切ったように叫び出した。
耳をつんざくような悲鳴にも似た叫び声は瞬く間に屋敷中に響く。
組み敷かれたままミモザは彼を見上げていた。
セイデンは泣いていた。
ひたすらに涙を流し、頬を伝う涙がミモザの頬を濡らす。
あまりにも感情を振り乱す彼の姿に茫然としている間に、使用人がミモザの部屋に入り、別の悲鳴が部屋に響く。
その場にあった光景は、衣類を激しく乱され、シーツに鮮血を散らしながらセイデンに組み敷かれるミモザの姿だった。
その先に待ち受けているものは明確だった。
セイデンは捕らえられ、今は投獄されている。子爵家の不祥事ということで揉み消されることも多いというのに、セイデンは己の罪を認め、自ら牢獄に入ることを望んでいた。
次に待っていたのは中傷であった。
幼馴染とのただならぬ関係。
未婚の男女による逢引。
乱暴にされた子爵家令嬢に対する誹謗、嘲り、同情、そして噂、噂、噂。
令嬢の唇は閉ざされることもなく。
気付けばミモザは『キズモノ令嬢』と呼ばれていた。
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「ミモザお嬢様。お目覚めの時間ですよ。ほら、起きて下さい」
カーテンが開く音に加え、遠慮がちに自身の名を呼ぶ女性の声をミモザは知っている。
小さい頃から母のように世話になっている使用人のサフィナだ。
「……おはようサフィナ」
「おはようございます。さあ、お顔を洗ってその眠そうな顔を引き締めて下さいな」
サフィナは待っていましたとばかりにお湯の入った洗面桶をテーブルの上に用意した。湯気が微かに立っているそれに向かい寝台から足を下す。少しばかり跳ねた寝ぐせをそのままに洗面桶に向かいパシャリと顔を洗う。
久し振りにセイデンの夢を見た。
彼がミモザを襲ったのはちょうど二年前のこと。
十九歳になったばかりのミモザは、周囲に比べて結婚の話題が出る日が遅かった。それには家同士の事情があった。
ミモザ・エタンフィール子爵家とセイデン・フォックス子爵家はミモザが幼い頃より友好的な関係を築いていた。共に商売をすることもあれば家族ぐるみの付き合いも多かった。
だからこそ、幼馴染であるセイデンと結婚の話題も幼い頃から上がっていたのだ。
しかし、婚約する時期になっても話題に出ることはなかった。
父に聞いても答えはなく、何処か険しい表情を浮かべる姿に口を噤むしかなかった。
そうして十九になった時。それは起きた。
「お嬢様ったら今日は早くお仕度しないといけないって申し上げましたよ? もう……急いでお仕度しないと」
ブツブツと零しながらも手際よくミモザの長い蜂蜜色の髪を梳かすサフィナの手付きは優しい。年齢から祖母のように慕っている彼女の小言はいつものことだ。それだけ自身が困らせているのかと思えば申し訳なさもあるが、そこから感じる愛情にミモザの胸は温まる。
「……やっと見つかった婚約者、ですからね」
「お嬢様。そういう言い方はよろしくないですよ」
「ごめんなさい」
鏡越しに睨まれミモザは苦笑した。
今日はミモザにとって特別な日だった。
キズモノ令嬢と揶揄される彼女に見合いの話が届いたのだ。
(しかも相手の方は伯爵家……)
身分からして地方に住む子爵家のミモザとは違った。
王国騎士として仕える一族であるサシャ伯爵家は王都で名を知らぬ者はいない。残念ながら地方暮らしのミモザには、時々出回る新聞で情報を得る程度なのだが、そんなミモザでも彼の名は知っていた。
(二年前、聖戦で竜を退治されたという御方……)
二年前。ミモザがセイデンに襲われてから少しした後、王都では竜が現れた。
竜など伝説の生き物でしかなかった。炎を吐き大地を焼く巨大な化け物。物語の中に現れては子供にロマンを与える存在が、実在するとなると話は違った。
瞬く間に王都は恐怖に包まれた。神出鬼没に現れる竜は大空から街に陰を落とし、そして炎で街を焼いたという。
王都の情報は一時箝口令が出された。混乱を招くため、遠方に暮らすミモザのような者には情報が口伝えにしか入らなくなったのだ。
時折届く新聞には竜に対し優勢であり撃退も間もなくと伝えていたが、口伝えに聞く情報はどれも不穏な話題ばかりであった。
鋼のような皮膚を持つ竜に刃は通らず、死傷者が続出していく。王都の近郊都市が襲われることにより、王都に住む住民はミモザの住む遠方まで避難しに来る者もいた。
そんな恐ろしい状況に民は震え身を守るしかない中、一つの希望が現れた。
デュランタ王国騎士団の隊長であるアレッシオ・サシャだ。
彼はデュランタ王国に伝わる聖具たる甲冑を身に着け、その聖なる力により竜を倒したというのだ。まさに聖騎士と謳われる英雄。
その彼が、婚約者候補なのだから。
(何かの間違いでしょうか)
ミモザには本当に分からなかった。
子爵家の当主でもある母に尋ねても答えはないままに当日を迎えてしまったのだ。
朝支度を済ませ食堂へと向かえば、父の姿が目に入った。
「ミモザ。おはよう!」
「お父様、おはようございます」
金色のふわりとした髪を揺らめかせ、ミモザの父、グレイルはミモザを優しく抱き締めると頬に口づけた。
愛想も良く常に穏やかな笑みを浮かべる父はミモザを見ると少しばかり寂しそうに微笑んだ。
「可愛い私のミモザが婚約……大人になってしまったんだね……」
「お父様。まだ決まったわけじゃないですよ? それに、私も二十一になりますから充分大人の年齢です」
子離れできていない父の姿にミモザは苦笑する。
「分かっているけどさ。いつまでもミモザは私にとって可愛い娘なんだよ。分かってくれるかい?」
「はい。分かってますから」
「ミモザ、あなた。食事の時間ですよ」
背後から少しだけ冷たい声がする。父が振り返れば「マーレア」と名を呼ぶその人こそミモザの母にして子爵家の当主であるマーレア・エタンフィールだ。
きっちりと着こなすドレスの配色は渋い色をしている。髪型も華やかさよりも書類仕事をしやすいようきつめに結わいていた。
「食事の時間だ。席に座ろう」
「はい」
父に肩を抱かれミモザもテーブルに向かい椅子に着席する。
並べられる朝食のパンやスープを見つめながらも、ミモザはそっと母であるマーレアを見つめた。
マーレアは珍しくも女当主だ。家督を継ぐ者は原則男性とされているが、事情により家督を継ぐ者がいない場合や、後継者が幼い場合女性が家督を継ぐことも出来る。
母マーレアと父グレイルは身分違いの恋をしていた。
幼い頃からエタンフィール家の使用人として勤めていたグレイルとマーレアは幼少期には友人として付き合っていたが、成長してからは恋仲へと変わっていった。
身分の違いによる結婚にマーレアの父は難色を示してはいたが許可し、マーレアは実家の傍で家を借りて住むことにしたのだ。
ミモザを妊娠した頃、事態は一変する。
マーレアの父と家督を継いだ兄が事故により急逝したのだ。
突然の事態にエタンフィール家は混乱した。後継者がいない状態だった。このままではエタンフィール一族ごと廃位となる。そのように噂されるまでに至った頃。
マーレアが家督を継いだのだ。
お腹の子が男児であれば家督を継がせることも出来ると宣言し、エタンフィールの名に戻った。同時に平民出であった父を婿養子にした。
怒涛の展開の中で生まれたミモザは女児であった。
周囲の落胆が大きい中、それでもマーレアは当主であり続けた。若い身であれば次に生まれる赤子が男児であるかもしれないからと、そう言い訳をして。
だが、以降子宝に恵まれることはなかった。
「頂きます」
「いただきます」
各々が手を組み神に祈りを捧げた後、食事を始める。決して華やかとは言えない食事だが、それでもミモザ達にとって十分恵まれた食事だった。
ミモザが生まれてからもマーレアは忙殺していた。女性による当主ということで舐められ、見下され、続けていた取引を一方的に解除されることもあった。
本来であれば妻として母としてミモザを育てるはずだった手は、書類を握り締め民のために動いていた。
幼い頃の記憶に残る遊び相手はいつも父だった。
父は笑顔を向けながらも、時折寂しそうに母を見つめていた。
思い出す今になって分かるが、きっとあの瞳は無力な自身を責めていたのかもしれない。
「今日もパンが美味しいねえ。ありがとう」
グレイルが嬉々とした表情を浮かべ周囲の使用人に礼を告げれば、傍に控えていた使用人達から穏やかな空気が流れた。父の良いところはこうして周囲の人を和ませることが出来ることだ。彼の人当たりの良さで救われる者も多い。外の貴族からは平民上がりと蔑まれることがあっても、父はその言葉に傷ついていたとしても笑みを浮かべている。自身が傷つけば傷つくほど、言葉を吐いた者が悦ぶだけのことを知っているのだ。
「……ミモザ」
「はい」
「今日は午後からこちらの屋敷に来て下さいますから、それまで支度を済ませて頂戴ね」
「分かりました」
要件だけ告げればマーレアはフォークを進める。サラダを音もなく丁寧に食べる姿はまさしく貴族の鑑とも言うのだろう。
ミモザもそれに倣う。幼い頃から厳しく指導されてきたミモザの所作も美しかった。
父親が平民出ということで他の貴族に見下されないよう、誰よりも厳しくミモザに教えたのは母だった。厳しくて辛いこともあったが、それが全て母の愛情であることをミモザも少しして理解した。
音を立てずに食事を進める。
時々「美味しいです」と使用人に声を掛け、他愛のない父の会話に花を咲かせていれば母は仕事があるからと早々に席を立つ。
いつもの日常が広げられている。
(婚約候補、ですか……)
ふと、物思う。
ミモザの歳は二十一。当に婚約や結婚してもおかしくはない年齢ではある。
だが、今までミモザにこういった婚約の話は上がってこなかった。キズモノ令嬢の名は貴族の間で噂のネタであり、貴族間の婚姻に純潔を重んじるため断られることがほとんどだった。
それでもミモザのために、マーレアは婚約相手を探し続けていた。
幾度か見合いを行ったが、全て断られ続けてきた。勿論こちらから断る場合もあったが、大体は断られることが多かった。
大きくもない土地、平民である父の血を継ぐキズモノ令嬢に好奇心の視線は尽きないが本気で結婚相手に考える貴族などいなかったのだ。
だからこそ、今回の見合いにミモザは驚くしかなかった。
相手は爵位も高い伯爵家。何より王国騎士団の隊長という名誉ある職位の人物にして王都の英雄でもあるアレッシオ・サシャ。
(何かご事情があるのでしょうか)
夢を見る年頃を越えたミモザでも、自身に届く婚約話には大体理由があることを知っている。
素行に問題がある男性や悪癖を持つ者、借金を抱えている……なんて婚約候補もいたのだ。勿論母が一蹴したが。
だからこそ、この婚約話にもきっと何かしらの理由があるのだとミモザは思う。
理由はすぐに分かった。
見合いのために訪れたアレッシオ・サシャの姿を見てすぐに分かった。
「あ……初めまして。アレッシオ・サシャです」
低く物腰柔らかそうな、どこか控えめとも言っていい声色は透き通っていてミモザは好きだった。
ひどく長身で見上げる形となる彼の顔には。
しっかりと。
甲冑がはめ込まれていたのだった。