見舞い
城内でアレッシオに再会していらい、時間がある時は見舞いに行くことにしていた。
タイミングによっては来客がいることもあり、時折待たされることもあったが、それでもミモザは構わなかった。何処にいるかも分からず、城門で待っていた頃に比べれば雲泥の差だ。
扉の先にアレッシオがいる。それが分かっているだけで、心の平穏が全く違った。
アレッシオが記憶を取り戻すことはなかった。
何度となく顔を合わせ、他愛のない会話を交わす。その流れは以前と全く同じだというのに、アレッシオの態度によそよそしさを感じた。
それでも構わなかった。申し訳なさそうにするアレッシオに対しミモザは首を横に振る。これから覚えていきましょう。過去を思い出せなくても、今一緒にいる時間が大切だと。
何度も何度も伝えた。
時折、そうした時間の記憶すら失ってしまうアレッシオに対して、だったらもう一度話せばいいのだからとミモザは笑った。
泣いたのは、事実を聞いた日だけだった。
毎日お見舞いに来るミモザの事を、アレッシオも記憶に留めてくれるようになった。彼はいつも自身が忘れてしまうかもしれない記憶を手に持ったメモに記している。そこにミモザの名が多く記されていることをミモザは知っている。それが嬉しかった。
そうして今日も、アレッシオに会いに行くのだ。
「こんにちは、アレッシオ様」
「ミモザさん……こんにちは」
怪我は治癒したものの、記憶を失ってしまう状態では執務をすることも出来ないアレッシオは、王城内で療養を理由に一室を借りていた。以前のように病室ではない部屋は広く、身体を動かしたりする広さもある。更に机も置いてあるため書き物などをするにも困らなかった。
手厚い待遇だとアレッシオは恐縮していたが、王国の危機を救ったのだから当然だと周囲に言われ、委縮しつつも部屋を借りている状態だった。
今、彼が外に出てしまえば竜討伐の英雄として民衆から声を掛けられてしまう。そうなれば記憶を失っている事実が何処から漏れるか分からないため、こうして大人しく過ごしている。その間にも神殿と協力して記憶を取り戻すための術を探しているらしいが、一向にアレッシオの記憶は戻らない。
それどころか、時折虫に食われたように記憶を失っていた。
「何を読んでいらっしゃったのですか?」
ミモザが部屋に訪れた時、アレッシオは何か読書をしていたらしい。読みかけの本に栞を挟んで小さな机に置いていた。
「詩集です。色々な作家の詩集を読んでいました。覚えているのもあれば忘れてしまったものもありますね」
「詩ですか!」
彼が花畑で読んだ詩を思い出す。
「アレッシオ様は以前、ヴィフォーの詩集が好きと仰っていました。覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。ヴィフォーが好きなことは覚えています。でも、どの詩が好きだったかまでは」
「世界賛歌が好きと仰っていました」
「世界賛歌……」
どうやら思い出せないらしい。
ミモザは「失礼します」と告げてから部屋に置かれている詩集の本を探した。目的の本を見つけるとページを捲り、目的の詩を見つける。
「こちらです」
ページを開いたままアレッシオの隣に立って本を広げて見せる。
「この詩を読んで下さいました。『私が歌を望む時 空は私を見るだろう。風は音楽を奏で 星は喝采の拍手でそれを讃える。嗚呼 世界とはどうしてこんなにも 美しいのだろう』……私は暗記していなかったのですが、アレッシオ様は覚えていらっしゃいましたね」
「良い詩ですね」
確かに自身の好む詩だと感じた。
「『血は地へ 始は死へ 終末は影となって隣人の如く訪れようと 私は歌を望むでしょう。嗚呼 世界のなんと美しいことか』」
ミモザが続けて読む姿をアレッシオは兜越しに見つめていた。
何度となく訪れてはアレッシオと話をしてくれる女性。始めこそ、何か目的がある打算的理由なのではないかと疑ったりもしたが、それは杞憂に終わった。
ミモザは心からアレッシオを心配し、記憶を失ってしまう自身を憂いていた。記憶を失いミモザのことを忘れてしまったアレッシオを責めることも落胆することもなく、「またもう一度覚えて下さい」と言ってくれた。
アレッシオは悔しかった。
(何故、僕は彼女を忘れてしまったのだろう)
これほど優しい彼女に、自分はどのような感情を抱いていたのだろうか。
彼女と出会ってからどのように過ごしていたのだろうか。
思い出せないことが歯がゆかった。
それでいて、記憶があった頃の己自身が羨ましくもあった。
ミモザにこれほど好意を抱かれるアレッシオ本人が羨ましいと。
(可笑しいものだ)
それは自分自身であるというのに、他人のように羨ましいと感じてしまったのだから。
「今のアレッシオ様がお気に召した詩はありますか?」
「自分が……ですか?」
「はい。一度読んだ内容でも、今読むと好みが変わっていたりしますから」
「そうですね…………」
暇を持て余し幾つか詩集を読んでいたアレッシオは、読んだ詩のフレーズを思い出す。
すると一つだけ鮮明に覚えている詩を思い出し、「ああ」と声を出してから机に置いたままの本を手に取った。
「さっき読んでいてとても良いなって思った詩がありました。これです」
「えっと……レイラブルの詩ですね」
目的の詩が書かれた箇所を開き、アレッシオがミモザに読めるよう広げる。
目の前に並ぶ文字の羅列をミモザが言葉に紡ぐ。
「『どれほど恋慕おうとも天に想いは届かないが、今手を伸ばす先に佇む貴女には届くことでしょう。この心の熱を何と呼べばよいものか。私は答えを知りながら応えに怯え天に囁く。神に恋を囁こうと、返ってくるものは何一つないのだ』。これは……恋の詩ですね」
ミモザの何気ない恋という単語に、隣に立っていたアレッシオの肩が揺れた。
「…………そういえばそうですね」
「以前もお好きだったのでしょうか」
「いえ。覚えてはいたのですが……どうしてでしょうね。今の自分はこの詩が気になりました」
紙に書かれたフレーズを優しそうに撫でてからアレッシオは本を閉じる。甲冑騎士は何処か落ち着かない様子でミモザを見下ろすと、「お茶でも飲みますか?」と誘ってくれた。
ミモザは笑って頷いた。
見舞いを終え、長い廊下を歩く。
体の傷が回復したことは本当に良かったと思うものの、記憶に関して何一つ改善が見られないアレッシオに対し、ミモザも不安を抱かないわけではない。
しかし、誰よりも不安を抱いているのはアレッシオだ。彼の前で自身が不安になるわけにもいかない。
(私にも何かできないでしょうか……)
俯き考えながら歩いていたためだろうか。
すれ違う女性の存在に気が付かなかった。
「あらぁ……貴女……エタンフィール嬢ではなくて?」
その、棘の含んだ声色にミモザは顔を上げて振り向いた。
視線の先には二人の女性がミモザを見ていた。どうやらその内の一人がミモザの名を呼んだのだ。
「……ウグイリー嬢。レイフォーグ嬢」
ミモザの表情が少しだけ強張った。
彼女達に会うのは数年ぶりだった。決して良い関係ではないことだけは分かっている。
何故なら彼女達は。
「キズモノのご令嬢が今更王城に何の御用?」
ミモザを傷物として揶揄し、蔑んだ女性の一人だったからだ。