彼が好き
言葉を正しく理解することが出来なかった。
兜を着けた男性―アレッシオが、自身に対して告げた言葉の意味を。
『どなたですか?』
それは、まるで初めて会った者に向けた問いかけだ。
「え…………」
ミモザは驚きのあまり声を発することが出来なかった。声が喉に詰まり、次に何を言えば良いのか分からないでいると。
アレッシオが納得したように「ああ」と告げた。
「すみません……どうやら貴女の事も忘れてしまっているみたいですね」
「…………忘れて…………?」
「はい。皆さんにお聞きして分かったのですが、自分はどうも記憶を失ってしまっているみたいなんです。だから、貴女の事も覚えていないみたいです」
申し訳なさそうに、けれど他人事のように淡々と甲冑騎士は告げる。
ナディアは声を殺しながら隣に立っていたミモザの手を強く握り締めた。その温もりのお陰でミモザは意識をどうにか保てる気がした。
真実をきちんと受け止められた気がした。
「…………そう……ですか」
「申し訳ありません」
「いえ…………いいえ」
ミモザは一歩踏み出し、寝台で座っているアレッシオの元まで近づき、彼の傍に寄れば笑顔を向けた。
「忘れてしまわれたのでしたら、改めてご紹介をさせてください。私はミモザ・エタンフィールです。エタンフィール子爵家の者で、アレッシオ様とは…………」
息を、呑んだ。
「…………始め、婚約の相談を頂きましてお話をするようになりました」
「婚約……」
甲冑の先で驚いた声色が漏れたが、ミモザは続けた。
「はい。ですが、お互いを知らない内に決めてしまうのはよくないと……まずはお話をして、決めていきましょうって話をしていました」
少し違う。
実際は、アレッシオが断ってきたのだ。
けれどそれを言ってしまうと、今の関係が終わってしまうような不安からミモザは言葉を飲み込んだ。
「…………だから……そう、私達はお友達です」
「友達……そうなんですか」
「はい」
胸が痛んだ。
嘘ではない。婚約をしていない。ただ、言葉にはないけれど確かに抱く想いはある。
アレッシオは少しだけ考える様子を見せてからミモザに向けて目を合わせてくる。ミモザからは見えない瞳が、まっすぐ自身を捉えているのだと分かった。
「覚えました……ミモザ・エタンフィール嬢。よろしくお願いします」
「…………はい。よろしくお願いします」
――ちゃんと笑えていただろうか。
分からないままに、ミモザはアレッシオとの会話を続けていた。
時間は有限で、暫くすれば診察の時間であるとアレッシオに呼び出しがかかる。
「ミモザ嬢とのお話、とても楽しかったです」
「…………また来てもいいですか?」
「よろしいのですか? 自分は貴女との事を全く思い出せないのに……」
遠慮気味に伏せるアレッシオの兜に細長い指が揺れた。
思い出す。無理やり外そうとして笑っていたアレッシオの姿を。
ミモザはひんやりとした兜に触れながら首を横に振った。
「私はアレッシオ様が大好きなんです……だから、貴方が覚えていなくても会いに行きたい。駄目ですか?」
「…………駄目じゃないですよ」
アレッシオの声色は優しく。
兜の中に在る眼差しはまっすぐにミモザを見つめていた。
別れを告げ、アレッシオのいた部屋を出る。
長い廊下の先でナディアが立っていた。
「……………………ミモザ様」
ナディアの気遣う声色を聞いた途端、ミモザの瞳から大粒の涙が零れだした。頬を伝い落ち、ぽつぽつと絨毯に染みをつくる。
けれど声は漏らさなかった。嗚咽を殺し、それでも勝手に流れ落ちる涙だけをそのままにミモザはナディアを見た。
顔を赤くし、悲しみを抱きながらも。
声を出してはアレッシオに聞こえてしまうかもしれないからと、彼女は声を殺して泣く。
「ミモザ様」
「……………………っ」
掌で顔を覆いながら、ミモザはナディアの前に立ち彼女の肩に額を乗せて泣き出した。一人では倒れそうなほど悲しく立っていられないから。
「……っう……」
けれど、声は決して出さなかった。
涙が止まらない。
声を殺して泣くミモザの背をナディアが優しく撫でた。
二人の姿を、窓辺から差す夕陽が優しく包み照らしていた。
「三年前の竜を討伐した時から、兄の記憶喪失は始まっていました」
茶器を手にナディアが語る。
廊下で静かに涙を流していたミモザとナディアは、落ち着いてから場所を移動し、王城内にある小さな接客室に案内されていた。
ナディアは幾度か使用したことがあるらしく、部屋は静かで使用人に茶を用意させれば部屋には二人きりしかいなかった。
「兄が最初に忘れたのは両親です。どれほど過去の話をしても、実の両親だと説明をしても、兄は全く思い出せませんでした。まるで記憶という本のページを破られたように、両親の記憶だけが綺麗になくなっていたのです」
「そんな…………」
アレッシオの事を考えると胸が痛んだ。
優しい彼だ。きっと両親が悲しむ姿を見て、自身の記憶が無いことに苦しんだだろう。
「母は悲しみ、父は母を心配し領地で静養することを決めました。兄もそれには賛成しました。幸いだったのが、兄は両親のことは忘れていましたが、自身がサシャ家の嫡男ということは覚えていましたので……母と顔を合わせても悲しませることを分かっていたので、自分だけが王都に残ると言いました」
「ナディア様も領地へ?」
「いえ、私は王都で叶えたい夢があったし、兄のことが心配だったので残りました。兄は私のことは覚えていてくれたんです。その時は…………」
「その時は……」
ナディアは顔を歪ませた。それは涙を堪えているように見えた。
「数日前、兄は私の記憶を無くしました。突然のことです。朝までいつもみたいに名前を呼んで、行ってきますと言って出かけて。帰ってきたら……何も覚えていませんでした」
ミモザが先ほど受けた心の痛みを、ナディアは既に受けていたのだ。だからこそミモザに忠告したのだろう。『酷く傷つけることになる』と。
「兄は、自分が少しずつ記憶を失うことは知っていました。いつ何がきっかけで記憶を失うのか……どれほどの不安だったでしょう。神殿で相談したり、どうにかして兜を外す術がないか探していました。けれど、何も答えは見つからなかった…………」
「そうなのですね…………」
ミモザは、王都に行けば何か彼の兜を外す術がないかと期待をしていた。
けれど考えてみれば、ミモザが行動するまでもなくアレッシオが動いていることは当然のことだった。まるで受け入れたように、諦めているようにアレッシオが見えたのは、長い間解決方法を探し続けて……そして見つからなかったからなのだろう。
「ああ、でも……」
「?」
「兄が言っていたんです。『ナディアとの思い出を一つ思い出したんだ』って。忘れていたのに不意に思い出したことがあったと」
「思い出した……?」
「家族で出掛けた時に、私が転んで泣いていたのを見て兄が抱っこしてくれたことがあって。その時の両親の顔や、私の事を思い出したって。それって私でも覚えてない記憶なんですよ?」
クスクスと嬉しそうに笑うナディアの瞳から一筋の涙が零れて行った。彼女は取り乱すことなくゆっくりと涙を拭い笑ってみせた。
「泣いていた……そういえばアレッシオ様仰っていました。ナディア様の泣き声が怖かったって。幼い頃に怪我をなさったナディア様を見て怖かったことがあるって」
「兄が……?」
「はい」
「私の思い出を……」
ナディアは少し考える。
「今まで、兄が記憶を思い出すことって一度もなかったんです。ミモザさんと出掛けた日以来、一度も無かったので。神殿の方に相談しても前例もないから分からないって言われて」
「神殿?」
「トラウスト神殿です。兄が着けた兜は元々トラウスト神殿にあった神具だったので、兜を外すために協力頂いています」
王都から離れて暮らしているミモザでも名前は知っている。
トラウスト神殿。デュランタ王国が信仰する神デラを祀り、デラに仕える神官が多く存在する。
「……今の兄は、竜を倒すために力を使ったことによって、兜に対し代償というものを払っているそうなのです。その代償が、兄の記憶なのではないかと」
「そのような事が……」
「ええ。夢物語のようですが、兄に起きている事は全て真実です。だからこそ、私は兄の……アレッシオ兄様の記憶を取り戻したい」
ナディアの目元をよく見てみれば泣きはらした跡があった。けれどその瞳に翳りは無く、彼女が何も諦めていないのだと分かった。
それはミモザにとって何よりも温かく心強かった。
「私もです。私も……アレッシオ様との思い出を取り戻したいです」
「ミモザ様」
「ナディア様。私にもお手伝いさせてください。私……」
想いが溢れ出す。と、同時に一つの言葉が出てきた。
「私、アレッシオ様が好きです」
溢れ出てきた言葉を素直に言葉にしてみれば、心にストンと納得がいった。
アレッシオ自身にも伝えた、彼が大好きだという言葉もまた真実だった。
たとえ記憶を失ってしまったとしても想いは何も変わらない。
思い出す甲冑の騎士。
素顔も分からない彼に、いつしか愛おしさが増して。毎日会いたいと願うようになって。
ミモザは微笑んで、そしてもう一度告げた。
それは自身に言い聞かせるかのように。
「私……アレッシオ様が大好きです」