終わりを告げに
アレッシオがまず失った記憶は『両親』だった。
父と母の名前が思い出せない。その存在を理解しているはずなのに、自身の両親の姿を思い浮かべても何一つ出てこない。
それでも自分には両親がいたはずだと記憶を辿ってみせても、出てくるものは真っ黒な映像だった。黒く塗りつぶされた顔、霞んで朧げになった顔、声、思い出。
何もかも正確に思い出すことが出来なかった。
それから徐々に記憶を失っていった。
部下の名前、顔。
幼少期の思い出、知り合いの存在。
自身が好きだった詩のフレーズも、ある時完全に記憶から失われていた。
失う直前まで覚えていたことも、綺麗にアレッシオから奪っていく。それはあまりにも無情な代償だった。
アレッシオは必死で聖具を外す術を探した。
まずアレッシオは、王城に隣接して建てられたトラウスト神殿の神官長、レイギウスに相談を持ちかけた。何故なら竜討伐で兜を王国騎士団に授けたのが、神官長だったからだ。
竜を討伐した後、兜を返還して欲しいと早々に頼まれていたが、そもそも外すことが出来ないという事情を伝えれば、神官長であるレイギウス自ら聖具の取り外しに注力してくれた。
アレッシオに向けて何か呪文のような事を唱えても、謎の聖水らしきものをかけても、更には魔法陣らしき床の中央に経たされて儀式を行われようとも、アレッシオから兜が外れることはなかった。
「本来であれば、其方の首を切り落としてでも聖具を返還願いたいところだが……そうもいかないからな」
などと、神官らしからぬ発言をする有様だった。
アレッシオは正直に自身に起きている状態を伝えた。記憶が抜け落ちていくことを、何処からか代償という言葉が聞こえてきたことを。
レイギウスはアレッシオの言葉を黙って聞いていた後、静かに溜め息を吐いた。深々と眉間に皺を寄せた険しい顔だった。
「サシャ殿。何故トラウスト神殿が竜討伐の折、其方ら王国騎士団に兜をお渡ししたのか……事情をお伝えすることが遅くなったことを、まずお詫び申し上げよう」
と、険しい表情のままにレイギウスはアレッシオに向けて頭を下げてきたのだ。
アレッシオは驚いて一瞬茫然としてしまったが、慌てて「顔を上げてください」とレイギウスに伝えるも、彼は暫くの間頭を下げたままだった。
「竜の討伐については一刻を争う事態でした。情報が騎士団に下りてこないことも理解しているつもりです。改めてご事情をお聞きしてよろしいでしょうか」
「勿論だ」
レイギウスが顔を上げると、改めて人払いをした。神官見習いたちが部屋を出ると、レイギウスは小さく咳ばらいをした後、とんでもないことを告げた。
「其方が身に着けている兜……聖具と呼ばれているが、実は呪具だ」
「……………………え?」
「正確にはどちらでもあるというべきか。神に纏わる物を聖具と呼ぶのであれば聖具ではあるが、その兜が生まれた経緯を考えると呪具と呼べるだろう」
「どういうことでしょうか……」
レイギウスの話は、神々の歴史にまで遡る。
デュランタ王国を含めたこのサーディリアン大陸では、唯一神デラを信仰している。
創造主にして大いなる生命の神、男神デラが大地を作った。そして我が子とする人間の他にも動物、植物、全ての生命を守護しているのだとされている。
しかし男神デラが守護していない生物もいる。それが、竜だ。
「誰もが空想上の生き物だと思っていたが、三百年以上前には竜もこの地に存在していた」
「そんな……三百年前なら……」
歴史書に残されていてもおかしくないはずだ。
レイギウスはアレッシオが何を言いたいのか理解していたのだろう。寂しそうに微笑んだ。
「三百年ほど前に、全ての歴史が改竄された……少なくとも私はそう考えている」
「レイギウス様……」
「他言してはならない。罪人として殺されたくなければな」
アレッシオの手のひらは汗が滲んでいた。どうやら緊張していたらしい。
「話が飛躍したが、竜は数百年以上前には存在していたとされている。その頃も今と同様に討伐をしていたのかは定かではない。如何せん資料が何一つ残っていないのだから。だが、一つだけ記録が残されていた物があった。それが、其方が身に着けている兜だ」
レイギウスの視線が真っ直ぐにアレッシオを……兜を見ていた。
「その兜がいつから神殿にあったかは分からないが……兜と共に残されていた手記に、このような事が記されていた。『身に着けた者、神に代わり全てを守護する者となる。その力、竜に匹敵する』と」
「竜…………」
「何を意味するのか、歴代の神官長が調べ続けたが憶測しか生まれなかった。そのままに読んで受け止めれば男神デラの力を授かりし聖具と受け止めるだろう。だが、手記には続きがあった。『力を軽んじる者、その身を滅ぼさん。然るべき者は代償の後、真の守護者となりえる』」
「代償……」
脳裏に響いた声を思い出した。
誰の声とも分からず、それがアレッシオの話す言語であったかと思えば違っただろう。聞いたこともない言語だったが、確かにその声は「代償」と言っていた。
「代償を得た後に、真の守護者となる……その言葉を素直に受け止めるのであれば、其方は神の守護者になろうとしているのかもしれないね」
「真の守護者とは一体何なのですか?」
「さぁ…………他の書物でそのような言葉が遺されている物を見た事はない」
「そうですか…………」
知らずに自身が何かに成り代わっていくことを想像すれば、足元から体温が失われている気がした。
甲冑の男は僅かに俯き何かを悩んでいる様子を見せたが、少しして顔を上げるとフォレクスに向かい頭を下げた。
「自分は記憶を失いたくありません……一縷の望みでも構いません。この兜を外す方法を探して頂けませんか」
「…………勿論だ。神殿としても聖具を取り戻したい。其方には辛い思いをさせる……」
「いえ…………」
頭を下げながら、しかしアレッシオは心に決めていた。
記憶を全て失う未来が待ち受けているのだと。
ならばせめて、大切な記憶を失う時間を引き延ばすためにも、出来る限りのことをしていこう。そして、全て失った時、大切な人を悲しませないようにしようと……
それからの行動は早かった。
細かい事情は伝えなかったものの、同騎士団の団員には竜退治の後遺症により意識が混濁し、記憶が曖昧であるために名札を付けて欲しいと頼んだ。
アレッシオの両親には、領地で暫く過ごしてほしいと願った。それは、記憶を徐々に失っていく息子の姿を見せたくなかったからだ。
社交の場にもほとんど出なくなった。記憶が曖昧な中、正確に人の名前を呼べる自身がないからだ。
妹のナディアにも、彼女を覚えているうちに離れて欲しいと頼んだが断られた。
「誰がお兄様の面倒を見ると思っているんですか! それに、私王都から離れたくありませんもの」
気の強い妹に強く言われてしまえば、それ以上頼むことも出来ず。
結果、ナディアとアレッシオの二人で暮らす日々が続いた。
英雄と呼ばれるアレッシオと縁を繋ぎたい家もあったが、甲冑が外せないと分かると相談してくる声も多くなかったことは不幸中の幸いである。
しかし、独り身で記憶を失い孤独に終えようとする兄の姿を、妹は見てられなかったのだろう。時折彼女自身が両親を経由して縁談話などをアレッシオに持ちかけるようになったのだ。
アレッシオは苦笑した。妹の気持ちが分からなくもないからだ。
ナディアは少しでもアレッシオを孤独から引き離したいと同時に、不安なのだろう。自分もいずれ忘れられてしまうことを。全てを忘れてしまう兄を見ることを。少しでも多くの愛情を、アレッシオに覚えていて欲しいと。
気付けば三年が経っていた。
記憶は緩やかにではあるが失われていったものの、アレッシオはどこか穏やかにそれを受け入れていた。
記憶を失えば失うほど、己に力が湧いてくることを自覚していた。なるほど、これが代償から得る力なのだろう。
有難い事に三年前に竜が現れて以来、王国は平穏な時間が過ぎて行った。力を使うこともないため、アレッシオが記憶を失う機会は多くない。
そんな折だ。
アレッシオに婚約者の話が持ちかけられたのは。
(ミモザさん…………)
最初こそ断るつもりで彼女の元に訪れた。
だが、ミモザは甲冑で現れたアレッシオに嫌悪を抱くどころか友人関係を築いてみないかと。
花畑で話した彼女との時間。
気遣いを感じられる優しい手紙のやりとり。
風になびく金色の髪、見上げるアイスブルーの瞳がアレッシオを見つめる。
その仕草、その視線一つがアレッシオの胸を高鳴らせ、喜びを生み出し。
(ああ……自分は、ミモザさんが好きだ)
忘れたくない。
忘れたくない。
けれど、いずれ忘れてしまう。
彼女の声も、顔も、名前も、全て忘れてしまうのであれば。
(終わりにしよう)
悲痛の決断を下したのは、妹であるナディアの記憶を失ったからだ。
大きな力を使っているわけではない。それでも、失っていくのであれば終わりにしなければならない。
この事実を知って悲しむのは。
誰よりも、ミモザが悲しむと思ったから。
だからアレッシオは、ミモザの住むノルド家へと向かっていた。
終わりを告げるために。
この関係に終わりを告げるために。もう、これ以上会うことは出来ないと。
(…………仕方ないんだ)
何度となく己に言い聞かせた。仕方ない、これ以上ミモザを悲しませたくない。忘れてしまう方が辛いこともある。彼女の幸せを想うのであれば。
理性で何度となく言い聞かせても…………それでも足取りは重く、心は苦しかった。
可能性はゼロではないだろう。もしかしたら兜を外す方法があるかもしれない。
これで、自分がミモザと二度と会わなくても、彼女は素敵な女性だ。いくらキズモノ令嬢と呼ばれていたとしても、必ず素敵な出会いがあるはずだ。
いつか誰かの妻となり、彼女は誰かを愛し愛される。
「…………っ!」
即座に考えを払い捨てた。想像でも耐え難かった。考えたくもなかった。
(自分以外の誰かと…………)
けれど、現実を受け入れなければならない。
(兜を着けていて良かった)
惨めな顔を、ミモザに見られなくて済むのだから。
ノルド家に辿り着くところで、ピアノの旋律が聴こえてきた。何処か、聞き覚えのあるフレーズにアレッシオは顔を上げた。
(この曲は)
忘れもしない、ミモザが花畑で歌っていた曲だ。あの時は鼻歌交じりだったが、今は彼女の歌声と共にピアノで伴奏されている。
透き通るミモザの声に、アレッシオの心が凪いだ。
ミモザの歌声に、先ほどまで荒んでいた心が静まっていくことが分かる。
流れてくる歌声に、ふと思うことがあった。
アレッシオの妹ナディアはオペラ歌手を目指しているのだ。
伯爵令嬢でありながら、王都のオペラホールで歌姫になり、多くの人々に歌声を届けたいという夢があった。だからアレッシオが領地に行くよう説得しても言うことを聞かなかったのだ。
「この歌をナディアにも伝えたら喜ぶかもしれないな」
そう、ぽつりと呟いてから。
アレッシオは息を呑んだ。
「……………………どういうことだ?」
当たり前のようにアレッシオはナディアのことを思い出していた。
あり得ないのだ。
何故ならアレッシオは、ナディアがオペラ歌手を目指していたことも、王都に残った理由も、何より自身の妹であったことも。
全て忘れていた筈なのだ。
何故、今突然思い出したのか。
分かることは、もう一度練習とばかりに流れてくるミモザの歌声は。
マーガレットの花々の中で聴いた時のように、美しい歌声であることだ。