第13話 初体験
昨日が最後の夜となる事を伝えねばならぬ事が苦しい。荷物を置いている訳でもなし、長期滞在すると言っている訳でもなし、本来ならば昨日の夜でサヨナラで何も問題はないのだが……人情と言うか、どうしても直接会って伝えたいのだ。
痘痕顔の醜女にそんな事を思う日が来るとは思っても見なかった。
重い気持ちで川橋亭のドアを開ける。
受付で編み物をしている痘痕の醜女と目が合うと、パッと笑顔になるのが分かった。
「おかえりなさい! ご飯にする? お風呂にする? そ・れ・と・も……?」
彼女の顔からは相当の期待を感じた。「それとも」と言いながら捲りあげる裾からはツンと湿った香りがした。俺が“買う”とも限らないが、それを千秋の思いで待っていたのだろう。
「いや、実は今日は……その、別れを言いに来た」
「…………え?」
一瞬で真顔となった顔。
真顔となれば正に醜女だった。
や、やっぱり直接言わんでも良かったか……?
いや、まぁ。しかし、そういう訳にもいかんか。
「ああ、その……団長の宿に呼ばれてな。そんなに長い間一緒に泊まる訳ではないのだが、他の宿に一時的に行かねばならんのだ。だからその……挨拶だ」
醜女の唇が何かを言おうとしては辞め、キュッと結ばれるのを見た。
胸が苦しくなるほど、理由が分かった。
「だが、その……泊まらぬだけでその、……飯は食いに来るぞ。それから……それとも……まぁそんな所だ」
「と言う事は?」
彼女の顔はまだ厳しそうな、警戒してそうな顔をしている。
……この顔を笑顔にしてあげたい。
「銀貨しかないから、釣りとして銅貨3〜4枚ほど返してくれると助かる。向こうの宿代を払わぬ訳にはいかないからな」
机の上に置いた銀貨はコツという音を立てて俺の手を離れ、鈍色の輝きを放った。
「これ……良いの?」
「足りぬか?」
「嬉しい……こんな値段で売れたのは初めてよ」
「それは僥倖」
言い終わると同時に唇を塞がれ、呼吸を奪われる。
これは……!?
息が出来ない……!
窒息……窒息する……?!
なんと魔術的な体験だろうか。
オオネズミが呼吸を奪われた姿を思い浮かんでくる。
この、脳がとろける体験は……何なんだ!
ズゾ……ゾ……ゾゾッ!
上半身から血液が抜けていく音が聞こえる。
生命維持に支障が発生する様な血液の大移動。
ワニを見ても、即死の魔術を見ても動じなかった脚が……この脚が……震えて立てないだと……!
ガクガクと震える膝が身体を床に近付ける。
こんな、こんな事があってたまるか!
ギリギリと腰に力を入れ、ちょうど彼女と顔の高さが合う位置で踏み止まる。
気持ち良さそうに蕩けている潤んだ瞳。
……心臓が……跳ねた!
「……今日はお店閉めとこうね」
一瞬開いた扉。くるりと返した「空室」の表札は表から見れば「満室」となっているに違いない。
俺は……今日……。
俺は今日、どうなってしまうのだ!
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