月華姫②
「セレーネが参りました」
「入れ」
ドアの中から威厳のある渋い声が答えた。
セレーネはドアを開け、礼をして中に入る。同時に声の主は部屋の中の人間を全て追い出し、セレーネと二人きりになった。
ドアが閉められた瞬間、声の主の相好が崩れる。
「可愛いセレーネ、こちらへおいで」
「お父様、私は既に成人を迎えた身、そういったことはもう」
「そんなこと言わないで!それに、誰もいないときはパパって呼んでって言ってるじゃないの」
「それももうそろそろ」
「そんな!」
セレーネにお父様と呼ばれた男、すなわち国王は、その表情を悲壮なものへと変えた。
念のために言っておくが、仕事をしているときの国王は先程の威厳たっぷりの声に似合った威厳たっぷりの姿であり、その仕事ぶりは丁寧かつ速く、施策は素晴らしいものばかりで誰もが賢王と呼ぶような男である。
「それでお父様、お話とは」
「硬い!パパ!」
「……それで、パパ。話って何?」
セレーネが尋ねると、国王はずーんと沈んだ暗い空気を醸し出した。
「実はね、セレーネ。縁談が沢山届いているんだ」
「ああ、社交界デビューしたものね」
「うん、もう断れない。そろそろ婚約者を決めなきゃいけないんだ」
セレーネは王女だ。結婚は避けられない。
「分かった。相手はパパが決めていいよ」
「勿論しっかり絞り込むけど、最終的にはセレーネが決めなさい。パパは論外な男を絞り込むくらいしかできないよ」
国王は寂しそうな顔でセレーネの頭を撫でた。
「なら、一つだけ。私は外国に嫁ぐわ」
セレーネがそう言うと、国王が愕然とした表情を浮かべた。
「どうして!国内の貴族に嫁げばいいじゃないか」
「今の高位貴族で年齢が釣り合う人は血が近すぎるわ」
次代ならともかく、今は王家と血が近すぎる。血が近すぎる者と結婚し子を作ることはあまり良いことではない。
「そんな……パパと離れるのが嫌じゃないのかい?」
「嫌だけど、血が近いのはよくないってパパも知っているでしょう?」
「そうだけれど……」
国王が瞳を潤ませる。流石にセレーネもうんざりした。……なんてことはなく、セレーネは父親のことが大好きなので寂しがってもらえるのは単純に嬉しかった。
「ならせめて隣国でいいかい?」
「パパに選んで欲しいわ」
「分かった。絶対にセレーネが幸せになれるような男を選ぶよ」
「うん、お願い」
セレーネが微笑んでみせると国王はでれっと表情を崩した。
「じゃあ私は戻るね」
「戻らなくていいよ、もうすぐ夕飯だしここにいたらどう?」
「でもパパの側近の人の邪魔になるわ」
「セレーネがいるくらいで仕事が捗らなくなるような者ならば側近から外すといつも言っているだろう?それにパパはセレーネがいてくれる方が仕事が捗るってセレーネも知ってるでしょ?」
「仕方ないからいてあげる」
可愛いセレーネのウインクを見て、国王は笑み崩れたまま戻ってこられなくなってしまった。
そして、この可愛い娘を預けられるような男が果たしているだろうかと悩むのだった。
その夜、セレーネはエトワールと出会ったあのベランダに出た。
数十はある客室の、一番端の部屋、そのベランダ。
「ひゃっ」
冷たい風が頬を撫で、セレーネは首を竦める。
まだ春は遠い。丈の長い夜着の上にもこもこの上着を着ているとはいえ、風が吹けばやはり寒い。
しかし、セレーネは部屋に入ることなくあの日と同じように手すりから身を乗り出した。
金属製の手すりは冷え切っているが、分厚い上着のおかげで冷たさは感じない。
「ベガ、デネブ、アルタイル」
セレーネは教えてもらった星の名を呟くが、見上げる夜空にその三つの星は見当たらない。、
「ああそっか、夏の大三角」
季節が違うから、見えなくて当然。
セレーネは少しがっかりした気分になって腕に顔を埋める。
「エトワール」
セレーネは星を教えてくれた少年の顔を思い浮かべようと試みたが、ぼやけたように靄がかかって思い出せない。
セレーネの年齢では、経った年月が長すぎた。
「髪は、黒」
あるいは、黒に近い暗色。
彼の髪は闇夜に完全に同化していた。
「瞳は……」
全く浮かんでこない。
しばらく唸っていたセレーネだったが、やがて諦めて溜め息を吐いた。
「黒髪はよくあるからなぁ」
この世界に髪色は沢山ある。
赤髪もあれば、青髪もある。銀髪や金髪、桃色や水色などのパステルカラーもある。
ただ、それぞれの国で多い髪色というものがあり、例えばこの国だと金髪が多い。セレーネはプラチナブロンドで、王族に多い色だ。
しかし、黒髪に限っては、どの国にも一定数いる。したがって国を絞ることができないのだ。
(またね、って言ったけど。もう二度と会うことはないのかしらね……)
セレーネは自らの髪色と同じ色に輝く月をぼんやりと見つめた。
(はぁ、今更何考えているのかしら。もう散々探したというのに……)
セレーネの口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
結婚の可能性があるのは、隣国の高位貴族か、その他の国の王族のみ。全て探した。
「もうそろそろ忘れなくちゃ。……忘れなくちゃ」
再びセレーネを冷たい風が襲う。
吐いた息が白くなるのを一瞥し、セレーネは踵を返した。
その顔には既に常の微笑みが浮かべられていた。
⁑*⁑*⁑
一週間後。
「パパがある程度絞っておいた。この中から選んだらどうかと思うんだ」
セレーネの前に並べられたのは、釣り書きが三枚。
三人とも隣国の王太子。
それぞれ異なる趣だがみな整った顔立ちをしている。
「黒髪の方はいないのね」
独り言のつもりの極々小さな呟きは、運悪く国王に聞こえてしまった。
「うん?黒髪がいいのかい?」
「え?いえ、そういう訳では」
「でも黒髪の奴はいないと」
ぐっとセレーネは押し黙る。
「もしかして、好きな人でもいるのかい?」
「それは違います」
かつては、恋をしていた。
でも今はもう違う。
幼い頃の淡い初恋は、もう消えてなくなった。
否定したセレーネだったが、国王には通じなかった。
「セレーネ。もし好きな人がいるのなら言ってごらん」
「好きな人は、いません。ただ、知りたいのです」
「うん?」
きっとこの人に訊けば分かる。
セレーネはそう理解していたが、何も言わずに微笑んで首を横に振った。
結婚できないのに正体なんて知ったってどうしようもない、とセレーネは思っています。