星守り公爵①
エトワール・アルヴィエ。
それが、天体望遠鏡を覗き込んでいる男の名前だ。
そして元々の名前はエトワール=ラスペード。グランルンド王国からは遠く離れた島国であるラスペード王国の第三王子だった過去を持つ。
彼は16歳で成人を迎えると同時に王位継承権を放棄し、公爵位とアルヴィエという姓を得た。ただその領地はごく小さく、島が一つだけ。納税が不要である代わりに領民は彼と使用人とその家族だけ、税収もない。
その一方で収入は莫大。王宮から王子時代と同等の金額が支給されている。
何故、このような現状となったのか。
それはひとえにエトワールが異才であったからだった。
エトワールの仕事は、領地経営でも王宮への出仕でもない。
天体観測だった。
具体的には、天体観測によってこの先数ヶ月の気象情報や災害発生の危険を予測すること。エトワール自身が開発した技術――とされているが、実際は彼が持つ『星詠み』と呼ばれる特殊能力だ。ごくごく稀に、ラスペード王家に星を読める能力を持つ子が生まれる。そして、エトワールがそうだった。
昔から夜空を眺めるのが好きだった。だから、エトワールにとって毎日星を読むことは苦痛ではない。
王に命じられ、エトワールは日々夜空を見上げている。
そしてエトワールはいつしか星守り公爵と呼ばれるようになっていた。
自身のことにも頓着しないエトワールが唯一欲したのが、昔出会った女の子。
ほんの数分の邂逅だったけれど、エトワールは彼女が欲しくて堪らなかった。
だが、それを父に言うことはなかった。あまりにも高望みが過ぎるとエトワール自身が理解していたからだ。
目的はもう忘れてしまったが、グランルンド王国を訪れ王宮に宿泊したとき、ある夜にただ一度だけ目にし言葉を交わした彼女の正体を、エトワールは知っていた。
大国グランルンド王国の月華姫。絵姿と全く同じ、いやそれよりも美しい容姿だった。
いずれ臣下に下る小国の第三王子と、大国の唯一の姫。結婚できるわけがなかった。
だから、王族だと明かすことも、しなかった。
⁑*⁑*⁑
セレーネの成人記念を兼ねた誕生日パーティー。
ラスペード王国からは、第二王子が訪れている。
婚約者も妃もいない第二王子が向かったが、彼が姫を射止めることはないだろう。彼女は王妃になる女性だ。
けれど、それで良かったとエトワールは思う。兄と姫が並び寄り添っているのを見るのは辛すぎた。
毎年国に届き、国がそれを複写して貴族全員に届られる、各国王族の絵姿。
月華姫セレーネの絵姿だけエトワールの執務室の棚の中にあることを知っている者は、誰もいない。
そして、時折エトワールがセレーネの絵姿を見つめていることも。
あのとき、姫は『またいつか』と言った。
その『いつか』が来ることは、あるのだろうか。
「しばらくは、異常なし。ただ、この星は……ちょっと不安定だな。今週中には分かるだろうか」
昨日の夜には安定していた星が、今は不安定になっていた。
安定するかもしれないし、何かが起こるかもしれない。
何に、あるいは誰に関することなのかも、まだ不明。自国に関することかもしれないし、どこかの小国の王族に何かがあるのかもしれないし、何も分からない。
エトワールはその旨を便箋に記載し、封をして使用人に託した。
翌日の夕方、王宮から手紙が来た。
承知したという返答と、あとは何か欲しいものはないか、お金は足りているか、などエトワールを気遣う言葉が並んでいる。
エトワールは無人の島に家を与えられたが、それは決して疎まれてのことではない。もっとも観測しやすい地点を尋ねたときに、エトワールがこの島を希望したからだった。
むしろエトワールは、末っ子であることも作用して、かなり愛される存在だった。そしてそれは、今も。
「もう二十歳なのに」
不機嫌そうにそう零すエトワールの表情は、嬉しそうに緩んでいた。
六日後、注視していた星の内容が分かった。
自国のことではないし、それほど重要なことでもない。というのも、隣国で小規模の地震が起こると読めたからだ。小規模ならば国内で対処できるだろう。
直接出向く必要もなさそうだ、とエトワールが便箋を取り出したそのとき。
「エトワール」
突然声を掛けられ、エトワールはびくりと肩を揺らした。
元王子であり現公爵であるエトワールを呼び捨てにできる者は、この国では四人しかいない。
そのうち、この声は。
「兄上!?」
兄である第二王子が、そこに立っていた。
「どうしてここに。先触れは頂いておりませんが」
「直接こっちに来たんだ」
言われてみれば少し埃っぽいかもしれない。
「取り敢えず、入浴していって下さい。食事はどうされますか?」
「なら頼む。というか、今日は泊まっていいか?」
「勿論です」
確かにもう夜遅いし、今から王宮に送り届ける訳にもいかないだろう。
「使用人たちに説教はしてやるなよ、俺が驚かせようと思って黙っててもらったんだ」
あんまり驚いちゃくれなかったがな、と第二王子は口を尖らせる。
説教だとちょうどそのとき考えていたエトワールは、分かりましたと頷いた。
第二王子から黙っててくれと言われて断れる者はいない。
「ん?これ何だ?」
「あっ!それはっ」
エトワールの静止は間に合わず、第二王子はそれを開いた。
「……これ」
出しっぱなしでしまい忘れていた、セレーネの絵姿だった。
「いやこれは、その、ええと、兄上がセレーネ殿下のパーティーに出られるということでしたので!どういう方だったかと思いまして」
説得力のある理由だった。だから、本当なら第二王子はそれを信じていただろう。
――それを述べているエトワールの顔が真っ赤でなければ。そして、その口調が動揺したような早口でなければ。
「……そうか」
全てを悟ってしまった第二王子は、けれど何も言わずに絵姿を閉じた。
エトワールが理解しているのと同時に、第二王子もきちんと理解していたから。
実らぬ恋に身を焦がす弟に憐憫を感じながら、第二王子はエトワールの方に向き直る。
「実物はもっと美人だったぞ!それじゃあ風呂に案内してくれるか」
「……はい」
すっかり萎んでしまったエトワールの背を、第二王子は苦い顔をしながら追った。
執事に後を託し、水音が聞こえる風呂を後にしたエトワールは、自らの執務室に入るなり扉にもたれてずるずるとしゃがみこんだ。
「ぅあー……」
第二王子が気付かないふりをしたことに当然気付いているエトワールは、羞恥で体を熱くした。
今日に限って出しっぱなしにしていた自分が憎い。いつもはしまうことを決して忘れないのに、どうして忘れてしまったのか。いや忘れていた訳では決してない。だってつい先程まで眺めていたのだから。
実物はもっと美人だったらしい。
もう一生目にすることもできないであろう女性だ。
美しく育っていくセレーネに恋慕の情は募るばかり。
彼女を妻にできなくてもいい。
せめて、もう一度話したい。
叶うことのない、泡沫の夢だ。