月華姫⑦
しばらくの無言の後、口を開いたのはエトワールだった。
「んんっ、ごめん。それで、セレーネに最初に言っておきたいことがあって」
「何かしら?」
エトワールは折角赤みの引いていた顔を再び朱に染めた。
少し間を空けて、セレーネの目を見る。
「好きです。政略的な意味で縁談を受けたのも勿論あるけれど、私はここで初めてセレーネを見たときからずっとセレーネだけを想ってきた。今すぐ貴女の気持ちを求めることはしないけれど、いずれは私に振り向いて欲しいと思っている。だから……単なる政略結婚の相手じゃなくて、一人の男としての私も見て欲しい」
庭園を案内したとき、彼の瞳に感じた熱は本物だった。
真っ直ぐに言われたセレーネは、嬉しくて、嬉しくて、笑みを浮かべずにはいられなかった。
「時間なんて要りません。私もエトワールを愛しているわ。初めて見たときからずっと好きで、でも貴方が王族ではない以上結婚の目はなくて、だから諦めていたの。でも今回、貴方と結婚できる機会ができてしまった。飛びついたわ、嬉しくてたまらなかった。ね、エトワール、これは政略結婚だけれど、恋愛結婚でもあるみたいね」
ゆっくりと言葉の意味を理解して、エトワールは息を長く吐いて完全に顔を覆った。
「ごめん、嬉しすぎて、今は顔を見せられそうにない」
その言葉に悪戯心が湧いてしまったセレーネは、エトワールが顔を覆う手をそっと外した。
小悪魔のような可愛すぎる顔を見せられたエトワールが口をへの字にする。
「可愛い顔でそんな可愛いことをしない方がいい」
「え?」
「私は今君に口づけしたいのを堪えるので必死だ」
セレーネの顔がじわじわと赤みを帯びる。
ぎゅっと目を瞑ったセレーネは、私も口づけがしたいと言ってしまいそうなのを王女の鉄の忍耐心をフル稼働して耐えた。
「私もしたいけれど……そ、それは、婚姻してからで……」
耐えたつもりだったのにぽろっと本音が出た。
「分かっている!だから今我慢しているんだよ……」
セレーネもしたいのならいいじゃないか、という悪魔の囁きをエトワールは元王子の鉄の忍耐心で抑え込む。
お茶会開始から十分も経たぬ間に、セレーネとエトワールを隔てていた距離と年月という壁は、完全に取り払われた。
⁑*⁑*⁑
「セレーネ、どうだった?」
惜しみながらお茶会を終えたセレーネの元に歩み寄ってきたのは王太子だった。
「お兄様!」
「おや?嬉しいことでもあった?」
「え!?」
「顔が笑っているよ」
王太子がくすりと笑う。いつもの微笑みを作れていると思っていたセレーネは、自分の頬が知らず緩んでいたことに気付いて顔を赤らめた。
今日は顔が赤くなる回数がすごく多い。
「あの、ね。エトワール……アルヴィエ公爵も、私のことが好きだって言ってくれたの」
「それは良かった!ああ、非公式の場なら名前で呼んで構わないよ」
「では、そのように……。良かったって、お兄様は知っていたのでしょう?エトワールの気持ちを」
「はは、お見通しか。そうだね。見れば分かる、彼はなかなか分かりやすい」
それにあちらの第二王子からも教えてもらったからね、と王太子はウインクする。
「私だけが知らなかったのですね」
「まあそうだね」
むうっとセレーネが頬を膨らませる。王太子がその頬をつついた。
「それでもセレーネが望まなければ彼にやるつもりはなかったんだよ」
「そうなのですか?」
「勿論。あんな遠いところに可愛いセレーネをやりたくないに決まってるでしょ?父上なんて、セレーネのいない場でずっとぐずぐず言っていたよ」
思い出したのか王太子が笑った。しかしセレーネは視線を床に落とした。
「命令だと思っていました……」
確かに、エトワールと結婚しろという直接的な命令はなかった。エトワールと結婚するか、と訊かれただけである。だがセレーネは、その問いは形式的なものだと思っていたのだ。例えエトワールを想っていなかったとしても、否を唱えることなどできないと思って頷いていただろう。
父は国王で、自分は姫。そう父王に説教したのは記憶に新しい。
「ははっ、父上が命令するならその前にセレーネを説き伏せてセレーネの納得の上で命令するだろうね。セレーネはまだ父上の愛情を分かっていないね」
ぽん、と王太子がセレーネの頭を優しく叩く。
折角セットしてもらった髪が崩れてはいないか、とセレーネは髪を確かめた。崩れていなかったので一安心だ。
その様子を見ながら、王太子は続ける。
「父上はセレーネの想い人がアルヴィエ公爵だとすぐに気付いたんだって。でなければセレーネに彼との婚姻の話をしなかった。まあ気付いていなかったとしても私が父上に教えただろうけど」
王太子も第二王子も乗り気だった。最初から破談になることはない縁談だった。
それを王太子は父王には言っている。よくやった、と父王は彼を褒めた。政治手腕にではなく、セレーネの父親として。
「最初は想い人という訳ではなかったのです。確かにエトワールは私の初恋でしたが……私はエトワールとは結婚できないと思っておりましたから、気持ちを抑え込んでいたというか。彼への気持ちを抱えたまま他の人に嫁ぐ気は流石にありませんでした」
「でも今は好きなんだろう?」
セレーネはちらりと王太子を見て、頷いた。
「相手がいない状況で、逢ってしまったから。きっと私かエトワールに相手がいれば、蓋が開くことはなかったと思います。でも、違ったから、欲が出てしまったみたいです」
言いながらエトワールと再会したときのことを思い出す。
正直、最初見たときは気付かなかった。黒髪で見目の良い男なんてこの大陸の貴族にはそこら中に転がっている。けれど彼はエトワールと名乗った。
エトワールはセレーネを覚えていた。会いたかったと言ってくれた。自分と同じように。
「セレーネの一目惚れを最初から教えてくれていれば、理由を作って婚約させてあげられたのに」
「私は王女ですから」
王太子が苦笑するが、セレーネは首を横に振った。
どれだけ愛されていても、王族というものは国のために利用される運命だ。『道具としか思われていない』などと言う者は、まずは自分が王族であることと王族の意味を理解すべきだ。
セレーネは運が良かった。両親にも兄達も、セレーネを王女である前に娘として、妹として考えてくれる。けれどそれはセレーネが王女としてまともに育っているからこそだ。愛を無償のものと考えて増長していれば、きっとすぐに切り捨てられていただろう。父はともかく、兄達には確実に。
「作れる理由がある相手ってことは、国の利益になるってことだろう?それが小さいか大きいかは別として、利さえあれば誰とでもいいんだよ。セレーネが幸せになれるっていう条件は絶対だけれど」
「ありがとうございます、お兄様」
最大利益を考慮するならば、隣国だった。
それほど大きな国ではないが、昨年かなり有用な製品が生み出されており、婚姻が成れば技術、製品ともに融通するという条件を相手から提示してきていた。
ただ、仕事はできるが少々女性に甘いきらいがあり、妻になれば大変だったかもしれない。
「セレーネ」
「はい」
「もしも、少しでも嫌だと思ったらすぐに帰ってきなさい」
「駄目ですよ、お兄様」
「彼と使用人しかいない無人島だというじゃないか。不便だろうし……」
「エトワールがいるなら大丈夫です」
ほわりと笑ってみせたセレーネの顔は間違いなく幸せそうで、王太子は返事をせずに微笑みかけた。




