旅立ちの剣 追跡者
暗い部屋だった。
ろうそくが一本、冷えた土間の上に立てられている。そのそばに、ひとりの男が右ひざをたて、左ひざを土間についた姿勢で、待っていた。顔を下に向け、汚れた土間の一点を見つめている。
やがて、ひとりの侍が、袴を土間につかぬよう両手で持ちあげながら、ゆっくりと歩いてきた。かがんで、男の様子を確かめると、男の正面側にまわった。
侍は、男に顔をあげるよう、身ぶりでうながしたあと、口を開いた。
「また、脱藩したようじゃな」
侍は、苦々しげに、
「藩を出る前に止められなかったのか?」
と、うずくまる男を責めた。
「何分にも、人が足りませぬ。坂本某の脱藩以来、脱藩者が、さらに増えておりまする」
男は、侍に届くか届かないかの小さな声で、淡々とこたえた。
侍は、よりいっそう苦々しげに、
「わかっておる。今のご時世では、脱藩者の取り締まりに、あまり人はさけぬ。藩内のよそ者にも、眼を光らせねばならぬのだ」
男は、無言で侍を見あげている。
侍は、舌打ちをした。男とは、十年以上の付き合いだった。何をいっても堪えぬことは、わかっていた。こちらが、容易に罰っせぬことも見通しているのだろう。
「追手をかけよ。四国の山中であれば、他藩の領地でも、切り捨ててかまわん。藩の外でも追手がかかるとなれば、脱藩を思いとどまる者もいよう……」
「はっ。すぐに手練れのものを選び、あとを追わせましょう」
なんと、乱暴なことを……。他藩で人を殺すなど、わが藩の者だとわかれば、隣藩から強い警告を受ける。そのときに責めを負わせられるのは、この侍ではない。我ら、命じられ動いた者たちなのだ。
男は、一瞬怒りが湧いたが、それもすぐに静まった。我らは、百年以上も従って生きてきた。いまさら、逆らうこともできぬ。黒船が来て、世の中は変わりつつあるといっても、ここ四国の田舎では、何の変化もない。地にはいつくばって生きてきた者は、やはり、同じように生きていくしかないのだ。
侍が去ると、男も立ち上がった。
ふっと、ろうそくの灯が消える。人の気配が消え、いつまでも続く闇が残った。夜明けは、なかなか来そうになかった。




