鬼婆の剣 戦いのあと
幸四郎たちを見送ると、千代は、自分の内側の、さらにその奥に真摯に問いかけた。急速に存在が薄れていくその誰かに、必死で声をかける。
―――あなたは、誰・・・?
その誰かは一度振り返り、聞こえるか聞こえないかぐらいの、小さな声でつぶやいた。
・・・イトウ、ヤゴロウ。
かすかに、そう聞こえた。
千代は、もう一度呼びかけた。
が、そのヤゴロウと名乗るものは、千代のなかから去ってしまったらしく、何も返ってこなかった。
気がつくと、二郎が心配そうな顔で、千代のあいているほうの手を握っていた。何度も、千代の手を引っぱっていたようだった。
千代は、ため息をついて小さく笑い、二郎を抱き寄せた。
お助け金を決めた試合の数日後、千代の道場を、藩の重役を担っている母方の伯父が訪ねてきた。千代の婚約をまとめたのもこの伯父で、何かとおせっかいを焼いてくる。
祖父の部屋に案内し、茶を出すと、昼飯後に外に出て戻ってこない二郎を、探しに出た。放っておくと、陽が沈むまで、村の子供らと遊び惚けてしまう。
そろそろ、道場の後継ぎとしての自覚を持ってもらわないといけない。
遊び場所の見当はついていた。近くにある山沿いの竹林のなかの空き地にちがいない。村の子供らと、よく相撲や鬼ごっこをやっている。
歩いていると、すれ違った村の子らが、こそこそ小声で何かいっている。
千代は、昔から耳が良い。オニババ、オニババと囁いているのが聞こえた。振り返ってにらんでやると、ぎょっとした顔をして逃げてゆく。
あの試合の翌日から、千代のことを、影で鬼とか鬼婆とかいう輩が増えた。試合中の自分の顔は見られないからわからないが、そんなに怖い表情だったのだろうか?
千代にも乙女としての自負がある。並みの男より背が高く、男っぽいといわれるが、鬼などといわれれば、傷つく。ましてや、鬼婆などと、山中に棲む人食いのたぐいではないか。
祖父や二郎は、噂を聞いているだろうに、気を使っているのか、そのことが家で話題にのぼることはない。
いずれ、このような噂は消えてゆくのだろう。けれども、不快なことに変わりない。
長い生垣の角を曲がると、寺の門の前に、二郎と数人の村の子らが集まって、勢いよくしゃべっている。
二郎を中心に円陣のような形になっており、周囲を見ていない。
驚かせてやろうと、忍び足で近よった。
興奮した二郎の声が聞こえてきた。
「その時の姉上の顔、本当に鬼婆だった。――笑うと、口が裂けて牙をむき出したように見えて、眼はつりあがって、鬼婆もかくや・・・という有様だった」
「それで、それで、・・・どうなった?」
村の、確か源太とかいった小僧が二郎に続きをうながす。
千代は、愕然とした。
道場のあとの仕返しのことまで、噂になって流れていた。気がつかなかったけれど、誰か、村の者が見ていたのだろうと思っていた。無邪気に村の子らに話をしている二郎・・・こ奴が鬼婆などと、おおげさに振れまわっていたのだ。
千代の胸の内に、激しい怒りが湧きあがってきた。




