鬼婆の剣 試合直前
試合当日の朝は、生ぬるい風の吹く曇り空で、千代の道場の行く末を、天にいる誰かが案じているようだった。
「いよいよじゃの……」
祖父は、すでに起き上がって着替えていた。
「無理をしないでください。……負けませんので」
千代は、試合じたくをしながら決然とした声をあげた。
泣いても笑っても、今日が終われば結果はわかる。
いまだに、気持ちの奥底には、もやもやとした不安がうごめいている。試合が始まるまで、この不安が消えることはないだろう。
それでもよいのだ。
どのような心持ちであっても、試合のときには消えるよう、そう修業してきたのだから。
相手方もいくら強いとはいえ、同じだろう。
いや、相手方の心持ちを詮索しても、しかたがない。
かならず、勝ってここに戻ってくる。
――千代は決然として前を向き、道場を出た。
試合場所は、藩の侍たちが、昔から、城内にて鍛錬を行うときに使っている稽古場だった。下級藩士たちが全員入れるという、だだっ広い板間で、試合場を囲む縄が張られているほかには何もない、殺風景な道場だった。
二郎と森幸四郎と一緒に、稽古場に入ると、千代は大きくため息をついた。
大事な試合前なのですから、少しでも体力を蓄えてください、そう言い張って、荷物を持ち運んでくれた幸四郎から、木刀を受けとる。
千代には、特別に別室が用意されていて、そこで道場着に着替える。
着替えを終えると、両手で木刀を振り、気を引きしめ直して試合場にもどった。
木刀を腰に据え、試合場の板間に裸足でたたずむと、深く息をはいて、できるだけ肩の力を抜いた。今から力んでいると、試合まで持たない。もう一度、深く息を吸い、ゆっくりとはいた。道場の板間と同じ足裏の冷たさが、ここちよい。
試合の始まるぎりぎりの時刻に、相手の師範代がやってきた。
城内の知り合いの部屋で着替えたのだろうか。すでに道場着を着こんでおり、試合場に入るやいなや、鋭い眼光でにらんできた。
思っていたほど大柄ではない。が、首回りや腕周りの並はずれた太さ、厚い胸板やがっしりとした腰周りは、長年の鍛錬によりつちかってきたものだと、ひと目でわかる。
やはり、尋常な相手ではない。
千代は、ぐっと歯を噛みしめた。試合は、なるようにしかならぬ。曾祖父の言葉を思い浮かべる。ああしよう、こうしようと思っても、相手は思う通りには動いてくれぬ。
千代は、肩を上げて限界まで息を吸い、肩を下げながら、溜めこんだ息をはきだしていった。全身の力が抜けてゆく。ただただ、無心にて備えるのみ。
試合の見届け人が、千代と相手を呼ぶ。もう備えは済んだか、試合を始めてもよいか、穏やかな声で尋ねる。
千代も、相手の師範代も、備えは終わったとこたえた。




