10.なにがお嬢様だ その9
「おい」
セバスチャンさんの後について、豪奢で落ち着かない廊下を歩いていると、不意に男から声をかけられた。
振り向くと、年のころは将仁さんとそんなに変わらない、だが近寄りがたい雰囲気を持っている男が立っていた。屋敷のほかの人と違い、上下ともゆったりしたトレーナーを着ている。
ゆうべ覚えたことを思い返すと、思い当たるのが一人いた。
「筧?」
たしか、こいつの名前は「筧 迅」、近衛クローディアにボディーガードとして雇われているんだったっけ。しかし同じ家に住んでいるとは意外だ。
と、その筧が、なぜか俺にずんずん近づいてくる。
そして、俺の腕を掴むなりこう言った。
「根津、俺はこいつに話すことがある。少し時間を取らせて欲しい」
一体、何事だろう。将仁さんは彼とはトラブルを起こしていないと思うんだけど。
「3分だな。それ以上は駄目だ」
「判った」
セバスチャンさんの答えを聞いた直後、筧は俺のことを引っ張りセバスチャンさんから引き離す。
「正直に答えろ。そうすれば危害は加えない」
一体なんなんだと聞こうと思ったときには、俺の喉が鷲づかみにされていた。今はまだ指先が僅かに触れている程度だが、すぐにも握りつぶされる位置にある。
「危害って・・・・・・」
「貴様、何者だ」
一瞬、背筋が冷たくなった。バレるはずはないと思っていたのに。
「何者って、俺はさな・・・・・・」
「とぼけるな。真田将仁は右利き、お前は左利きだろう」
ごまかそうと思ったが、首に触れている筧の指が動いた瞬間、全部吹っ飛んでしまった。
指の動きは痙攣した程度だが、殺気とでも言うんだろうか、全身が凍りつくような冷たい雰囲気を、筧の指から感じたからだ。もしかして、本当に人を殺したことがあるんじゃないかと思ったぐらいだ。
それに、何かをしたわけでもないのに、利き手のことを見抜いているし。
「わ、かった、確かに、俺は、将仁さんじゃない。身代わりだ」
「本人はどうした」
「昨日、けがをして、病院に行っている」
「けが?」
「不良とケンカして顔が腫れた」
そこまで答えると、何か納得したらしく、筧は何の前置きもなく首から手を離した。
「入院するほどなのか?」
「や、それは診てもらってからの判断」
「そうか。お前が倒れたら俺も困るから、大事にしろと伝えてくれ」
眉ひとつ動かしはしなかったが、その瞬間、筧の雰囲気が少し柔らかくなった。
「それからこれは、身代りであるお前への忠告だ。この屋敷は、お前にとっての敵地。不用意な発言をしないよう、注意することだ」
そしてこう警告してくれた。最初は恐ろしかったが、この筧という男、以外にいい奴かもしれない。
「3分だ。話は済んだか」
その時、セバスチャンさんが、腕時計を見て声をあげた。
「ああ、済んだ。手間を取らせたな」
「終ったのなら問題ない」
二人はそんなそっけない挨拶を交わす。そして筧は足早に立ち去り、俺とセバスチャンさんだけが残された。
「では、参りましょう」
「あ、ちょっと待ってください」
とっさに俺はセバスチャンさんに声をかける。
「何でしょう」
セバスチャンさんがすっと振り向く。俺が一応は客人だからか、そのへんには気を使っているのだろう。だがその表情はあくまでも事務的だ。
「さっき、筧さんに“ネズ”って呼ばれてましたが、あれってあだ名か何かですか?」
だが、そんな質問を投げかけると、セバスチャンさんは微妙に苦笑した。表情は全く変わっていなかったのだが、なんとなくそんな感じがした。
「私の、本名ですよ」
そして、そんな意外なセリフを吐いた。
「私の本名は、根津健介。セバスチャンは、お嬢様が私を呼ぶときの呼び名です」
「え、なんでセバスチャンなんです?」
「近衛様御付の執事になったとき、お嬢様が仰いましてね。執事の名前はセバスチャンだと。以来、お嬢様の前ではセバスチャンで通しているのです」
「はあ・・・・・・苦労、しているんスね」
「慣れてしまえば気になりませんよ」
そしてセバスチャンさん、改め根津さんは、表情を引き締めた。
「余計な話をしてしまいました。では参りましょう」
「はい」
根津さんにそう促され、俺は控え室とやらへ再び歩き始めた。