08.慣れというのは恐ろしい その5
今日の3時限目は理科。隣のA組と合同の移動教室だ。
ふと、昨日は大人しかった近衛お嬢様のことが思い出される。A組は、あのお嬢様と自称ボディーガードの迅がいるクラスだ。まあ理科は物理・科学・生物・地学の4分野に分かれていて、教室もそれぞれ別になっているから、一緒にはならないだろう。
と、思っていたら。
「あぁら、真田さん。あなたも物理を専攻していらっしゃるの?」
物理学教室に、なんとあのお嬢様がいた。この前同様、取り巻き数人を引き連れてだ。
このお嬢様がいるってことは。軽く教室内を見回すと、少し離れたところで迅のやつが妙にごついナイフで鉛筆を削っているのが見えた。やっぱりボディーガードだからお嬢様のそばにいるってわけか。
「ちょっと、この私が話しているというのに、余所見をするとは失礼ではなくって!?」
ヒステリックな声に気が付いて振り向くと、お嬢様が口元を引きつらせながら俺を見ていた。
こういうのに深く関わったら大変そうなので、ここは軽く流すことにする。
「はいはい、授業が始まるから手短にな」
「うっ、それなら手短に言いますわ。あなた、私の下僕になる決心はつきまして?」
一瞬ひるんだお嬢様だったが、すぐにポーズを取り直すと、閉じた扇子の先を俺に向けてそんなことを言ってくる。こいつはまだあきらめてなかったのか。
「じっくりと考える時間を差し上げたのです。そろそろお判りになったのではなくて?」
「あー・・・・・・忘れてた」
「・・・・・・え?」
「そんなこと考えるほど暇じゃなくてね」
あいかわらずの人を上から見下ろすような物言いにかちんと来たので、俺はそう答えてやった。
「あ、あなた摂家たる近衛の家を敵に回すおつもり!?」
「何が近衛だよ、摂家とか清華家とかそんなもん鎌倉時代のほこり被った骨董品じゃねぇか。この21世紀にそんなもん何の役に立つよ?」
「あら、少しは勉強されたようですわね。でも、あなたと私では、私のほうが社会的地位が高いことには変わりがありませんのよ?」
「地位が高いのはお前の親だろう。お前はその七光りで偉ぶっているだけじゃねえか」
「くっ・・・・・・」
さすがに返す言葉がなくなったらしい。お嬢様は言葉をつまらせ、俯いてしまった。こんな姿はクラスでも見せたことがないらしく、A組の取り巻き連中もどうしたらいいか判らずおろおろしている。
・・・・・・ちょっと、言い過ぎたかもしれない。目の前でそんな態度を取られると、さすがに罪悪感が頭をもたげてくる。
だが、謝ろうと思ったところで、お嬢様は予想外の動きをした。
「・・・・・・ふ、ふふふ、ふふふふふふふふっ」
なぜか、突然低い声で笑い出したのだ。追い詰めすぎておかしくなったか?と思ったら。
「おーっほっほほほほ、なかなかおっしゃいますわね!この私にそこまで口ごたえする殿方には、久しぶりにお会いしましたわ!」
突然の高笑いと共に、そんなことを言い放ちやがった。かと思うと、俺を真正面に見据えて、
「判りました。それならば、私が全てにおいてあなたに勝っていることを証明して差し上げますわ!あとで吠え面かかぬよう、せいぜい精進なさることですわね!」
扇子をびしっとこっちに向け、そう宣言しやがった。軽く流すつもりだったのが、いつのまにかむこうは本気になってしまったようだ。
「ふーん、全てにね・・・・・・」
俺は、そんな熱くなっているお嬢様のことをちょっとからかってみたくなった。
ちょっと近づくと、目の高さをお嬢様と一旦同じにし、その顔を覗き込む。
「・・・・・・な、なんですの」
俺が何がしたいのかがよく判らない、といった様子のお嬢様は、微妙にうろたえたような表情を浮かべる。
そこから顔を上げ、自分本来の高さに目線を持ってきてから、俺はこう言ってやった。
「まず、背の高さは俺の勝ち、と」
その瞬間、自分がからかわれたと判ったらしいお嬢様の顔が、一瞬にして真っ赤になった。
「そ、そんなの卑怯ですわ!統計学的にも生理学的にも女子より男子のほうが身長が高いのは、当たり前ではありませんの!」
「当たり前だって言うなら最初からやらなきゃいいだろうが!言っとくが俺はお前の下僕なんか死んでもご免だからな!」
「きいいいいいいっ!せっかく譲歩してあげたというのになんという礼儀知らず!それでもサムライの子孫ですの!?」
「人のことが言えるか!お前こそ」
軽く流すつもりが、いつのまにかこっちも本気で反論してしまっていた、その時。
ひゅっ。
俺とお嬢様の間を、何かが空を切って飛び去っていった。
そして、その何かが飛んでいった方を見て、俺は言葉を失ってしまった。
視線の先にあるのは、廊下側にある漆喰塗りの壁。そして、そこにさっきまで無かったはずの何か細い棒のようなものが突き刺さっている。
それは、鉛筆だった。先を削っただけの何の変哲も無い鉛筆が、漆喰の壁に突き刺さった状態で止まっているのだ。
飛んできたほうを見ると、そこには迅がいた。削っていた鉛筆が1本なくなっている。ということは、迅の飛ばした鉛筆が、硬い漆喰の壁に突き刺さったということだ。
ということは。人間に当たったら痛いじゃすまないぞこれは。
「お、おま・・・・・・」
「先生が来ている」
だが、それをやった迅は、気持ち悪いぐらいに静かに、教壇のほうを見ろと眼で促してくる。
教壇には、確かに白衣を来た物理の先生が、出欠簿を手にして困ったようにこっちを見ている。
「えー、そろそろ始めたいのですがー・・・・・・よろしいでしょうかー」
先生が、めがねの向こうから訴えるような視線をこちらに投げかけてきて、我に帰った俺はあわてて席についた。どうやら、先生の所からはあの鉛筆が見えていないらしい。
「覚えてらっしゃい」
お嬢様は、そういい残し、自分の席へと向かう。その時になってはじめて、俺のまわりに野次馬が出来ていて授業が始められる状況になかったことに気付いてしまった。
内申書に悪く書かれたりしないだろうな。まず考えたのはそんなことだった。
まもなく野次馬やお嬢様の取り巻きどもが席に着いて、ようやく授業が再開される。
その授業中、お嬢様こと近衛クローディアという人間が、確かに「勝っていることを証明する」と自分で言うだけあると思ってしまった。
「えーではー、近衛さんー、この問題を前に出て解いて下さいー」
授業中、先生に指されて前に出て問題を解いたとき。
「はい。ここでこの積分値を代入すると・・・・・・」
お嬢様は、教科書も参考書も、自分のノートすら見ずにすらすらすらっと複雑な問題を解いて見せたのだ。さらにその説明も、教壇に立っている物理の担当教諭以上に流暢で判りやすい。
少なくとも、勉強はできるようだ。
また、これは後で迅から聞いたんだが、あのお嬢様は自分のクラスであるA組内に確固たる基盤を作るため、昨日1日かけて色々と手を回していたらしい。昨日、俺にちょっかい出してこなかったのはそのためなんだそうだ。
おかげで今、あのお嬢様を敵に回すと2年A組の大半を敵に回すことにもなりかねないらしい。
ただ、以外なことに、一番そのお嬢様に近いはずの自称ボディーガード、迅の奴は他のクラス男子ほど「クローディア万歳」ではないようだ。
一見ただの高校生だが雰囲気がただ者じゃない、言ってしまえばボディーガードとして雇われている時点で俺たちと別モノとさえ思えるこの迅という男だが、どうも自分を雇っているお嬢様のワガママにはかなり苦労させられているようだ。
「お嬢が飽きるまで、ヒステリーは軽く受け流しておけ。正面から構えようとしても疲れるだけだ」
そう言う迅の顔は、微妙に疲れているように見えた。