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進めば背中を押してくれる  作者: 羽田 智鷹
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 木立を抜け、住宅街を疾走した。猫はここ周辺を知り尽くしているかのように迷いなく走り続ける。

 そしてついに猫と少年は赤や黄色に染まる山への入り口、とでもいうかのような鳥居のあるところに行き着いた。秋を感じさせる場所だった。数十分間猫を見失わずに走り続けた自分の身体能力に感心せざるを得ない。小柄で身軽な身体は急な方向転換にも対処でき、平衡感覚も優れ、狭い道も難無く走り抜けることができた。

 走っているときの爽快感からか、猫に最後までついていけた達成感からか、幾分だけ気持ちが晴れていた。鳥居をくぐって猫に続いて山に入る。

「運動部(仮)を見くびらないで欲しいよ」

 見えない誰か、この際猫にでも良かったが、叫びたい気分だった。

 

 山は閑散としていた。木々が生い茂り、落ち葉が足元に敷き詰められている。猫はもちろん、山奥には鹿や猪がいてもおかしくないような雰囲気を山全体が醸し出していた。

 自転車通学で遠くからは毎朝見ていたが、ここまで近くで見たことはなかった。丘の一部がそのまま山になるかのように繋がり、学校からそれほど遠くないところに位置していたが、人々は各々の生活に忙し過ぎて目もくれない。訪れる人は皆無だった。だから、辺境地にも思えるこの場所に行こうとする高校生すらいない。

「この雰囲気なら、無邪気な小学生の格好の遊び場になりそうなのになあ。」

 自分が小学生の頃は友達と、神社やら田んぼやらで虫取りをしたり木登りをしたり、一番ハマった秘密基地を作ったり。環境に遊ぶ内容が左右されるのが楽しかった。

 自分と小学生の年が言うほど離れていないのに、世代の違いを感じてしまう。科学の進歩は早く、人々はどんどんその波に飲まれ、過去の習慣をキレイさっぱり塗り替える。どの世代にとっても時間は忙しない。

 頂上までの道のりは長く、道中が剣呑に思われた。しかし猫は走りはしないがズンズン早足で進んでいく。落ち葉の影に隠れて丸太の階段が設置されていることに気づいた。


「この場所に、人が訪れることがあるのだろうか?」

 恐る恐る進んでいくと、今度は犬、いや……獅子・狛犬がいた。

 「徒然草で登場する”背向かい”の獅子・狛犬の配置ではないなあ」

 と先日の授業が頭によぎった。

 この話は、”背向かい”に置かれた獅子・狛犬が普通とは違う配置に気づいた上人が感慨深く思い、上機嫌で連れてきた人々にそのことを伝える。人々はいい土産話になりそうだと思った矢先に、上人がその配置が神社に深い由縁があるのだろうと思い込み、さらに事情を知りたいと思う。だから一番物を知っていそうな神官に聞いたところ、子供のイタズラだと知らされ、上人の心を踏み躙られたというものだ。

 僕はその神官が異質なものに感じた。他人の思い込みを正すことでショックを与えてしまうと解っているにも関わらず、平然とすんなり答える。上人が気落ちすると周りの人はあれ程感銘を受けていた上人がいたたまれなくなる。

 楽しげな参拝集団の熱気が一気に冷め、冷静になり心が動かされなくなる。神官は上人たちを失望させることで、集団の空気が悪くなるということを考えての行動だったのだろうか。


 人は相手が何をどう思っているのか知らないとどうも落ち着かない。だから視線で表情で仕草で相手の心を読もうとする。

 もし人思いの神官だったら、真実を上人には伏せ、楽しげな参拝ムードを守ろうとしたかもしれない。それはついていい類いの嘘だと思う。


 しかしそれはその場しのぎの現状回避である。その場で真実を平然と伝える、それは上人が後から気付いたときの大きな落胆を未然に防ぐ勇気ある行動だった、と僕は思った。実際の書かれている文章でのその場面は限りなく短いが、なぜか心に残っていた。

 ここの獅子・狛犬にはそんな人の善意を試すような過去がないかもしれないが、長い歴史を見守ってきたような存在感がある。


 しばらく進むと神社らしきものが見えてきた。普通山の頂上にある気がするが、訪れやすいように麓に作ったのだろう。立派な社殿が華やかな木々に囲まれ、所々木々の隙間から漏れる光が道筋を作り、幻想的で、静寂を守っている。

 猫は本殿らしきところまで行くとピョンと軒下に跳び乗った。猫の優雅な行動が景色に溶け込む。少年も猫の隣へ向かおうとすると、この場にいるのが自分たちだけではないことがわかった。


 艷やかな板目の床には他にも白や黒などの猫が所々寝そべり、その中で女の子がいることに……。

 学校帰りなのか、黒のタイツとブレザー、対象的な白のリボン。肩まで伸び切った黒髪のおさげ。そんな彼女の驚いたような目と視線があった。

 「ここは静かでいいところですね。」

 雰囲気からか夏目漱石のようなことを言ってしまった。彼女は無言のまま、少年から視線を外さない。彼女が起き上がらないのもあれだが、立ったままの状態だと上から彼女を見ていることになり、それは少し無礼なのでないか、と思った。先程までの競争相手の横に腰を下ろす。

 「その制服、ここらへんだと有名な岡塚高校のやつだ……。ここに来客が来るなんて……いやっ、あの高校にもそんな人がいるとはなあ」

 独り言のようにつぶやいた内容は少年にも聞こえたが、こことか、あのとかそんな言葉が何を指しているのか分からなかった。


 「僕はその高校の一年。朝宮って言うんだ。君はいつもここにいるの?」

 常に人の心を気遣うことができていた。ここでも名前はサラッと先手を取る。

「ここって静かでいいところだよね。僕のお気に入りの場所に少し似てるんだ。」

 少し興味を持ってくれたのか、上半身だけ起こしてくれた。さっきまでは風が冷たく吹きつけ、人にゆったりとされていなかったが、なぜかこの場所は暖かい。

 「……岡高生さんはどうしてこの場所に来たの?」

 自己紹介したのに「岡高生さん」なんだ……。

 「来たんじゃなくて、導かれて連れてこられたって言うほうが当たってるかな。帰り道で、そこの黒猫に意地悪されたんだ。」

 「……どんな意地悪をされたの?」

 「二回も僕に向かって走り、ピョンと跳び越えられたんだよ。僕は誰かに跳び越えられるほど棒みたいに突っ立っていたわけじゃないし、そこまで背が小さいなんて自覚ないんだけど……。…………それとも君が猫たちのトレーニングジムを開いているとか?」

 

 少女とは空気の差を感じて、少し耐えられなくなり軽く冗談を言った。苦し紛れだ。

 ふふふっ、と少女が笑った。僕が猫に跳び越えられたことにか、それともちょっとした冗談に対してかは分からない。とても少女らしい、柔らかなものだった。

 「それってほんと?」

 「会ってそうそう、嘘を言うわけないじゃん」

 笑って答える。

 「この子たちがそんなことするなんて初めてだよ。岡高生さんに何か惹かれたのかも」

 「そんなことないよ。跳び越えられたときになんか嘲笑われたように感じたもん。そんな感じだったから追いかけてきたんだけど……」

 「だからかあ、普段この場所には全然人が訪れないから。まあ、その分猫とか鹿とかいるけどね。」

 なるほど鹿がいそうな深い山だ。

 「ところで君はここでどんなことをしているんだ?」

 「あの頭脳集団と名高い岡高生さんからみると、私は何をしているように見える?」

 少年は探偵のような、考える仕草をしてみる。

 聞かれて改めてこの状況を整理する。物静かな神社で猫に戯れて、寝転がっている少女。人当たりがよく、伸び伸びとしている。となると、つまり

 「学校生活の疲れを猫で癒やしに来ている!!」

 閑散とした自然の中の神社、猫、寝転がる少女。現場の証拠が少ない以上、推測できることは限られてくる。その中でも最も可能性の高いものだ。

 「……残念。強いて言うなら、神社とその周りの自然の管理。だいぶ前にこの神社の神主さんから、神社が廃れてきて、参拝人も大分減ってしまったから、自由に管理人のやるようなことやってもいいよ。って言われたの。まあ、やることと言っても掃除とお供え物を本殿に時々持っていくくらいだけどね。」


 答えるときに少し間があったが、それよりも言葉が抽象的すぎて理解できない。

 「自然の管理っていうのは具体的に何をやってるんだ?」

 「ああ、実は私の父さんが獣医をやってるんだ。最近、犬や猫の平均寿命が十年を超え、まあ今は犬の方が長生きだけどそのうち猫が逆転するんじゃないかって言われてるねーー、ここらへんの野良猫は事故や病気で平均寿命が五、六年なんだ。私、遺伝のせいかもしれないけど、動物が好きなんだ。だから、塾に通わずに、ってまあ授業についていけてるからだけど、貯めたお金を使ってこの子たちの予防接種をしてあげてるんだ。それと体調が悪い子がいないかここで観察してるってわけなの。」

 この場所にいるからそんな考えが浮かぶのだろうか。他者に手を差し伸べる余裕は僕には無い。僕も一度も塾に通ったことはないが、それでも毎日が忙しなかった。

 

 人間が救おうと思えば救える命はたくさんある。しかし、家畜や実験動物など敢えて殺している。人間にとっては仕方がない犠牲なのだと社会が認めている。

 

 以前小学生の頃、生まれて数日の雀の赤ちゃんが巣から落ちているところを見つけ、保護しようとしたことがあった。

 突然の激しい雨風が収まり、太陽が水たまりをキラキラと反射する清々しい朝、校庭でチュンチュンと鳴き声が聞こえ、草影にヒナが横たわっていた。全身が雨に濡れて、がたがたと震えてはいたが、力強い鳴き声だった。傍の木を見ると巣が破壊されていた。

 友達を呼んだ。

 「皆でこのヒナを育てて、一人で生きていけるようになるまで育てよう」 

 この時は、皆で思いを一つに一生懸命頑張ればそんな理想が叶うと思っていた。


 こんな状況が初めてでまず何をすればいいのか分からなかった。ひとまず下駄箱で靴にハンカチを敷き詰め、ヒナを温めるため、そこへ置く。授業の合間の放課で下駄箱へみんなで見に行った。

 昼になるとエサが必要だろうと思い、必死にミミズを探して砕いて食べさせた。雨上がりだったため、地面は柔らかく、人数もそれなりにいたので、見つけるのに苦はなかった。

 しかし昼を過ぎると急にヒナの元気がなくなった。ぴょーと鳴く数も減り、次第に動かなくなっていく。本当はそばにいてあげたいのだが授業をサボるわけにはいかない。5限の授業が終わって見に行くとそのヒナは死んでいた。


 ある子はやーめたと言ってどこかに行ってしまったし、ある子は涙を浮かべながらヒナに謝っていた。

 僕は急にどっと疲れを感じた。朝、必ずヒナを元気にさせられると意気がり、必死になってできることをすべてした。それが無意味だったように感じた。虚無感。それが僕に充満していた。団結していた僕らが一気にバラバラに散っていく。団結した僕らが一瞬で解ける。そんなことをもたらしたヒナを嫌悪する気持ちすら僕にはあった。


 「お前が必死に生きようとしなかったせいで…………。何も言わずに僕らから遠ざかるのかよ。期待に報いようにしなかった姿勢がこの上なく嫌いだ。諦めなかった僕らよりも先に諦めやがって………。」

 悔しかった。これが自然の摂理なのかもしれない。弱いものは生きていけない。突然の雨により、ヒナは偶然にも死んだ。その時は、人間そこ丈夫であり、何かに守られ、安全な暮らしをし、偶然に死ぬことはないという固定観念を持っていた。

 自分は死と言うものが遠い存在のものだと思っていた。しかし中学生になっていつ来てもおかしくないということを知ったその瞬間、自分を恐怖が支配した。

 人も偶然に死ぬことがある。ヒナのように高いところから落ちる、交通事故、一本のナイフ。自分の意思の効かない心臓が止まれば全ては終わる。

 [生き物はかんたんに死ぬ]そのことが人間にも同じように通ずると気づいたとき、全身が震え、大きなショックを受けた。いつからか、高いところが苦手になっていた。

 

 残った友達とヒナを土に埋めた。そして全員で祈った。僕も悲しかった。理不尽な人生がただただ……。

 死んだあとには静寂だけが残る。死ぬ前には必死に足掻いても、死んだ後の物を見ると死がとても安らかで優しいものに思える。


「お前が元気に鳴いてくれたことで、僕らはお前を見つけられいろんなことを教えられた気がする。お前は恨むなら、自分がヒナに生まれてきたことを恨め。そして今度は人間に生まれてこいよ。」

 


 そんな思い出が蘇った。僕は動物が死ぬことを肯定し、実験動物にでさえ、それほど情が移らず、

 「自分が動物に生まれてきたことに後悔し、しょうがないと思え。そして次、人間に生まれてこい。」

 と思うようになっていた。


 しかし彼女は敢えて手を差し伸べ、彼らの寿命を伸ばそうとしている。命を取捨選択しないこと。身近の手の伸ばせる範囲なら、何でも救おうとしている彼女が急に輝いて見えた。

 「君は何でこの場所の自然を守ろうとしているんだ?」

 「神社は廃れてきても、ここにはたくさんの命があって、山はそれを育むかのように様々な顔をして守っているの。豊かな自然が私にいろんなことを教えてくれる。」

 会ったときは口数が少なかったはずなのに、今はとても滑らかだ。普段人が訪れることがなくゆえに、ここの素晴らしさを誰かと共有したかったのかもしれない。

 「私は命を選んではいけないと思うの。生きるためのやり取りは必然だけれど、誰にでも命はあり、誰もが大切にしないといけないと思うの。だって、私達が生きているのは今であり、この体であり、尽きたあとのことなんて分からないから……。救える命は救うべきだと思う。たとえ救えなくても、救おうと行動したことに意味があると思うの。後悔しないためにも……。まあ、半分くらい父さんの受け売りだけど。」

 彼女の目はキラキラしていた。

 「父さんって獣医なんだよね?」

 「そう。【どうなるか分からない未来に頼るよりも今現在を悔いの無いよう、自分の心と直感に従う勇気を持って生きろ。それが未来へつながるんだ。だから可能性になんて縋るな。自力で道を切り拓け】が父さんの口癖なんだ。まあ、動物の命に向き合って仕事してるわけだし、父さんの行動が彼らの命に左右するから、なんか力強いんだ。多分、実体験に基づいているからだけど。」

 心と直感。自分は本当に吹奏楽部に入っていたいのだろうか。避けてきた答えに心と直感はどう反応するのかわからない。今まで、何かを選択する時はそれによって未来にどう影響があるのか、可能性を考え、しっかり思案した上で選択してきた。それが当たり前だと思っていた。心と直感が反応しないのは、今の絡まった思考のせいかもしれない。

 彼女が次第に朗らかになるに連れて、僕は心が見透かされているようでヒヤリとした。彼女が得体の知れないもののように見える。

 「君はこの自然を守ることが心と直感で感じたことなの?」

 「勉強も大事だけど、同時にここを見守りたいよ。」

 彼女は、普通ではないらしい。つまり……、

 「君は実は神様かなにかだったりする?」

 ちょっぴり本気の、謎めかした口調で問う。

 「岡高生さん、何を言っているの、私はただの、中学三年生だよ。」


ーーーーーーーーーーーーーーーーー


 「…………えっ。ええーー!!」

 否定されるとは分かっていたが、その後の言葉が防御の緩んだ彼の心にストレートを入れた。

 彼女は僕とほぼ背が変わらないように見える。少しだけ小さいけれど、言動がしっかりしている。一人で決意したとおりの行動をしている。力強い。それに年上である僕にも普通に喋りかけている。だから、同じ高校生だと思っていた。もっといえば年上のような余裕すら感じさせる。

 中学三年生と言えば、秋のこの時期、受験勉強の真っ最中ではないのか。

 「君、高校受験あるよね?」

 「うん、あるよ。」

 さも当たり前のことのように、平然と答える。

 「勉強の方は大丈夫なの?」

 「ちゃんと勉強しているに決まってんじゃん。ここで、問題集を解いたり参考書を読んでるよ。」 

 少女が初めにいた社殿の奥の方を見ると、筆記用具や問題集が重ねてあった。机や椅子も置いてある。

 ここ数年、塾に入っている人が格段に増えていると中学の先生が言っていた。親の意思なのだろう。進学校に入るには塾に通わないと、と親の間で共通認識になってきている。

 しかし僕は塾に通わなかった。塾は多額のお金が必要だし、何より学校と同じ内容を勉強するということでどちらかを疎かにしてしまうと思ったからだ。学校の授業とテキストだけでも十分試験に対応できる。今思うと中学の授業はそこまで難しくないから、世の中に中学生のための塾が必要だと思わない。

 不思議なことに塾では新しい人間関係は作られる。僕は高校になって、知り合いがほとんどいない新天地になり、人間関係がリセットされ、新たに友達を作ることを楽しみしていた。

 進学校だから塾に通っていた人はとても多い。だから塾で知り合ったという生徒たちで、クラスはすでに人間関係が出来上がっていた。だから、友達作りには苦労したものだ。

 「塾に通っている人は多いの?」

 「すごく多いよ。もう皆、勉強や受験の話ばっかりだよ。」

 「去年中学三年生だった僕からすると中学三年生で勉強しすぎるのも後悔するよ。全力で勉強することはいい事だらけって訳じゃないと思うよ。個性って言うのは勉強じゃないところから生まれてくる。実際、僕も少し後悔してるし……。」

 中学三年生が一番一年が短く感じた。高一になったら、活動範囲が広がり、かつてのクラスメイトがバラバラに散ってしまう。だから、各行事を大切にする。高校生になったら急に近く感じたが、中学三年生はまだ大人になるのが近くないという感じがして、純粋に行動できた。友達ともお互い気を使わなくても良かった。そんなかけがえのない時間を塾通いや勉強漬けで潰してほしくない。高校受験なら、勉強漬けにならなくてもなるとかなっただろうと、今は思う。

 「ふーん。岡高生さんなのにそんなこと言うんだ。なんか意外だな。普通の人なら、もっとちゃんとした環境で勉強しろ、とか時間を有効に使え、とか言うのに。」

 「それは多分、さっき君が言っていたように、皆が今現在を疎かにしているんじゃないのかな。受験にむけての連続する通過点としか今を見ていないから。でも、僕は中学三年生という一年がとても儚くて、大切な時間だと思う。そんな一年を勉強だけで終わらせない方がいいと思う。だから、中学生をどう過ごすかなんて答えはないと思う。だから君の言っていた、直感がそう言うなら、岡高生の僕は君を否定したりしないよ。」

 最後の一言を特に強く言った。

 人生は花火に似ている。よく言われることだが決してさび付かない言葉だった。一瞬にこの上ない美しさを見せるが、次の一瞬には消え、次の花火の魅力が上書きされる。儚いゆえに一瞬がとても輝いて見える。

 人はものを記憶するのが苦手だ。なぜなら、物をしっかり見ているようで見ていない。しっかり心に刻んだはずの記憶もいつの間にか薄れ、消えていく。言葉では言い表せるのに実際に絵に描くことができないように。人は細部を見ていない。核となる部分だけを覚えるので、時間が立つに連れて記憶の核が誇張され、核以外が改ざんされる。

 人生には出会いと別れが絶えず繰り返し、出会いが強烈なほど、記憶が書き換えられる。高校に入って、中学と全く違う環境になり、人間関係も一変し、多くの情報が入ってくる。すると中学までの記憶が上書きされていった。中学生は花火のように短く、思い出が儚く薄れていくが、その分充実していたという実感は確かにある。時としてその実感は虚しさへと変わるから人は新たな思い出を作ろうと必死になる。

 失ってから気づくというのは、日々の有り難みをわかっていない証拠だ。未来は現在の積み重なりであり、現在の選択で未来は簡単に変わりうる。

 高校に入って、中学までの記憶が薄れ行くのは人にとって必然なのかもしれない。しかし、失うとわかっているからこそ、今がとても愛しく大切に思える。

 「たとえ今の記憶が消えていくと分かっていても、今、この瞬間を直感の思うままに過ごせたという実感が人生を豊かにさせると思う。」

 「岡高生って話に聞いていたよりも、勉強だけの脳じゃないんだね。イメージが少し変わったかも。」

 「そんなことはないって。こんな事考えてるのは僕だけかもしれないよ。授業中、気付かないうちに考え事してるし。みんな考え事をする暇もないほど、忙しそうに見えるよ。」

 考え事をしていると、教師の話が耳に入ってこなくなるのでやめようとは思っているが、気づかぬうちに何かを考えているのが僕という存在だった。

 

 市街地の方から五時を知らせるチャイムが鳴る。最近は日が暮れるのが早い。冬が近いと言うことなのだろう。彼女は積み上げてあった問題集や参考書を片付け始める。

 今日はいつもより充実していた気がする。立ち上がると数匹の猫が寄ってきた。その中にあの黒猫はいなかったが、やつは視線だけはこちらに向けていた。君たちに会えたことを感謝するかのように頭を撫でる。猫たちは快く受け入れてくれた。

 僕も神社を出ようと歩き始めると、少女がすっと僕を追い越した。

 「今日はありがとう。ここに訪れてくれて良かった。久しぶりに思っていたことや溜め込んでいたことを素直に言えた気がする。いろいろ楽しかったよ。」

 顔がほころんでいた。

 「こちらこそ、色々と日頃の疲れが取れたし、何より君の考え方や視点が面白かったよ。」

 部室に篭って一意専心に練習するよりも、得たものが多かった気がする。世の中には多様な考えがあり、外に出なければ、そんなワクワクな体験ができなかっただろう。

 今日一日の行動ーー特に部活を辞めるときっぱり伝え、今まで知らなかったことを知った。ーーの選択が、僕の将来を変える分岐点になったかもしれない。やっぱり未来は流動体であり、どうなるか分からない。

 少女と山の出口というような場所へ向かう足取りは軽かった。

 「君は初めてこの場所に来たときは、どうしてここに来ようと思ったの?」

 「今日あったばかりなのに、乙女の秘密を聞いちゃいます?お主なかなか大胆ですよ。」

 と、口調を変え、戯けて笑う。

 流石に突っ込み過ぎたかなと少し恥じた。

 少女は真剣に考え込む仕草をするが、前すぎて忘れちゃったと言った。

 あと一つ、これだけは聞いておきたいことがあった。出口がすぐそこに見えている。

 「君はいつもこの場所に来てるの?」

 少女はまた少し考え込むような仕草をして、答えた。

 「また、来てみれば分かるよ。」

 そう言って破顔一笑すると、走って外の世界へ飛び出していく。


 空を覆っていた小なりの雲をだいぶ高度を下げた太陽が紅く染める。風のない穏やかな夕暮れだった。

 自分の周り人々が何かに取り憑かれたように急いでいたので、自分も取り残されないように必死だったあの時と過ごしている時間帯は一緒なはずなのに体感が違った。こんな色濃い時間を過ごしても一日の時間が長く感じた。

 そんな開放感に浸りつつ、少女の背中が見えなくなるまで見送った少年も帰路の途についた。

 

 

 

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