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うつくしいねこ

作者: pinkmint

 なじみの雀荘で午前零時までプロ級のおっちゃんらと打ち続けた結果、相手を甘く見てぼろ負けした。

 タクシー代すら残っちゃいない。

 家はここから三キロぐらいの距離で、歩けないこともないが、雨はだんだん本降りになりやがる。九月も終わりの雨は結構冷たい。コンビニで傘でも買うかと、百メートルほど先のセブンイレブンの灯りを目指してふらふら歩きはじめたそのとき。

 足元で「み」と小さな声がした。

 かがんでみると、びしょ濡れのコンビニ袋がガサゴソと動いている。覗いてみると袋の中で、子猫がずぶぬれで震えていた。薄汚れていてよくわからないが、どうやら茶トラだ。見ればその鼻先に、申し訳程度の肉まんのかけらが残っている。

 捨てたやつが憐れんでおいてやったか、それとも自らこの袋を見つけてもぐりこんだのだろうか。

 猫は生後一か月未満ぐらいにみえた。とにかくがりがりにやせていて、目やにと鼻水で顔はガビガビだ。その小さな口いっぱいに、ぐしょぐしょになった肉まんの具をほおばっている。

 おれ、沙村哲夫は特に猫好きではない。あの無意味におっぴらいた、びっくりしたような目が苦手なのだ。が、おれはその口元を見てなんだか胸が熱くなった。誰にも愛されていないのに、こんなに汚くて貧相なのに、生きよう生きようと懸命に食い物を咀嚼するその細い顎が。

 だが家に持ち帰るわけにはいかない。麻雀とパチンコとゲームで芸術大学の四年間を無為に過ごし、なんとか卒業した今はへぼデイトレーダー兼闇系ルポライターというやくざな稼ぎで飯を食っている。そんな息子を、特に親父は忌み嫌っていた。顔を合わせるたび、むさくるしい無精ひげをそって会社勤めをしろ、できないなら家を出ろとわめくのだ。

 とっさに頭に浮かんだ名前は、宇津井マリエだ。

 同じ大学で暇つぶしに入っていたオセロサークルの元部長で、今は北欧系のデザイン会社に勤めている。卒業してからほぼ半年、相変わらず飲み友達として愚痴を言いあう仲だった。おれは元副部長。たいていのボードゲームではおれは無敵なのだが、オセロだけはまったく彼女に歯が立たなかった。

 彼女は頭もよければ顔もスタイルも抜群で、歯に衣着せぬ物言いで周囲の男どもは一歩退いた形で彼女に憧れていた。そしておれ。本音を言えば、真っ正直に惚れていた。自己嫌悪で一歩も動けなくなったようなとき、彼女の前に出て泣きごとを言うと、見事な言葉のビンタでカツを入れてくれる。大事な一種の覚せい剤だったのだ。

 だが当然覚せい剤中毒ライバルも多く、腐れ縁から踏み出すチャンスをつかみ損ねたまま卒業してしまった。今がそのチャンスじゃないか。

 確か「男は嫌いだが猫は好き」と前々から言ってたぞ。いつか猫を飼うために、卒業を機にアパートからペット可のマンションに引っ越したと。少なくとも今はまだ一人暮らしのはずだ。おれはポケットからスマホを引っ張り出した。

 意外なぐらい早く、彼女は電話に出た。

『沙村? なによ、こんな時間に。酔って家が分からなくなった?』明らかに迷惑そうなぽきぽきした喋り方だ。

「非常識でごめん。出てくれてありがたい。宇津井部長様にしかたのめない重大な件なんだ」

『元部長でしょ。一夜の宿ならお断りよ、漫喫にでもいって』

「死にかけのこねこちゃんと遭遇しちゃったんだよ。今足元にいる」

『なになになになに、ちょっと待って』思った通りの食いつきだ。画像見せてと言われて、そらきたと肉まんでほっぺパンパンにしている痩せた子猫の画像を送った。それからはとんとん拍子だった。

『うわ、その子ギリギリじゃん、可哀想に。よく見つけたね、すぐ助けなくちゃ。沙村、実家がよいだよね?』

「ああ、オヤジは猫も髭面の息子も大嫌いだし母親は猫アレルギーだ。連れて帰ったらペアで保健所に放り込まれる」

『とりあえず猫連れておいで、タクシー代ならうちまで連れてくればはらったげる。すぐ来い、今すぐ来い。あ、コンビ二かどっかで子猫用の缶詰買ってきてよね。それとちゅーるがあれば絶対買って。あんた思ったよりいい男だわ!』 

 してやったりだ。おれは猫缶と猫を抱え、拾ったタクシーで猫ごと彼女のマンションに転がり込んだ。

 勿論彼女は歓迎したさ、おれじゃなくてびしょ濡れの茶トラの子猫をね。

 小刻みに震えている痩せた子猫を抱きしめてほおずりして、ふわふわのタオルで全身をふきながら呼びかけるのだ。よかったねよくがんばったね、もう大丈夫だよ、寒くも怖くもないよ。いっしょに生きよう。それを聞いてるうち、なんだかおれまで柄にもなく涙ぐんでいた。それを見て彼女は吹き出した。

「何その顔。第一あんたまで飼うって言ってないよ」

 でもあの目じりの涙見てあんたと暮らす気になったんだと、あとから聞いたんだなこれが。

 彼女の部屋は壁も床も白一色で、キッチンの壁にだけ青いタイルが市松に貼りつけてある、無駄のないモデルルームのような空間だった。窓辺には青い花を一筆書きで描いたようなカーテンが下がり、高い天井からは薄い金属で作った水仙みたいな形の灯りが6個、一列に下がっている。

 うみゃいうみゃい、とも聞こえる声で鳴きながら子猫が缶詰を食い始めたとき、彼女はぼろぼろと涙をこぼし始めた。周囲を見渡して、ダイニングテーブルの上の猫柄のボックスからティッシュを一枚引き出して渡すと、彼女は箱ごとちょうだいと言って抱え込んだ。そしてすびずば鼻をかむと、ゴミ箱に丸めたティッシュを放り込んで、子猫のそばにしゃがみこんだ。

「ずっと飼いたかったんだ、猫。こんな感じの」

 おれも横にしゃがみこんだ。そしてしばらく間が空いた。

「でもショップで固体販売しているのはいやだった、何十万も出さなくても、明日にでも殺されちゃう命がやまほどあるのにって思って」

 まあよく聞く話だと思いながら、うん、とおれは頷いた。

「でも、静岡の実家には気の荒い紀州犬が二匹いて無理だったの。

 うちの爺ちゃん、田舎でサルやイノシシと素手で戦ってたような人でさ、飼う意味があるのは番犬だけだって。その伝統で、オヤジも泥棒よけに気の荒い大型犬しか飼う価値を認めないの。わたしが小学校五、六年の時かな、庭でどこかのノラ猫が子猫生んだ時、オヤジはさっさと保健所に電話したの。泣いて止めても、わたしが責任もって育てるって言っても、だめだった。おっぱいに食い付いた子猫ごと、ママ猫は連れて行かれた。だからいつか、ちゃんとこの手で、捨てられた子を、育てて、あのときの……」

 それからの沈黙は結構長かった。もう一度ティッシュで鼻をふくと、彼女は続けた。

「でもさ。わたし酢豚は食べるし、ラムのステーキも好きだし。猫は可哀想だけど、肉を食べるのもやめられない。つまりわたし自身、人間と生まれた以上肉食獣はやめられない。だから思い出して泣いてみても意味ないって、自分に言い聞かせてきたんだ。でもだめだね、こうしてみると。この子の茶トラ模様、あの時のママ猫にそっくり」

「食っていいと思うよ、酢豚もラムも豚も牛も。それより猫の名前、決めないか」おれはそう言って、買ってきたコンビニ袋から缶ビールを取り出した。

「目の前で、今できることだけ、助けられる命のことだけ考えよう。名前付ければもう家族ってことだもんな」

「あら、気の利いたもの持ってきたじゃない」

「こいつもな」おれはつまみのでん六豆の袋を出して見せた。マリエはおれをダイニングテーブルの椅子に誘い、鳩やトナカイの描いてある取っ手付きのマグを二つ、テーブルに置いた。そして泡がふちすれすれになるまでビールを注いでくれた。

「これ、陶器だよな。ジョッキ? マグ?」

「ビールジョッキよ、アラビアの」

「へえ、そういわれてみれば中近東の香りが」

「フィンランドのブランド名よ。このお皿もね」そう言いながら、ピンク色のデイジーが描いてある白い皿にマリエはでん六豆をざらざらとあけた。

 なんとなくしおたれてビールに口を付けるおれの目の前で、マリエは楽しそうに言った。

「名前つければ家族、か。じゃあ、はやいほうがいいわねえ」

 おれは大口でガリボリとでん六豆を咀嚼した。子どものころから結構好きな菓子なのだ。アラビア様の皿とは合わないにしても。で、問わず語りにおれは語りだした。

「おれさ、虫とか爬虫類とか飼うの好きだったんだ。でも瓶に入れて飼いだすと親が気味悪がってすぐ捨てちまう。でさ、小四のころかな、年の暮れにオヤジの取引先か何かから生きたイセエビが二匹届いたんだ。いや、二尾か?ま、どっちでもいいや」

「へー、伊勢海老、豪勢ねえ」マリエは羨ましそうに言った。

「でさ、おふくろは生きてるものはさばけないって、オヤジが帰るまでそのままにしてたんだよ。発泡スチロールの、トロ箱っていうの? あれに入れたまま。あいつら箱から出ようとごそごそしやんの。出たいとか自由になりたいとか食われたくないとか伊勢海老でも考えるんだろうな、と思ってたら切なくなってさ。おれには二つ下の妹がいてさ、二人で話し合って、こっそり蓋開けて二匹とも廊下に出してやって、それから風呂で泳がせてやったんだよ。ちゃんと水に塩入れてさ」

「へーえええ?」

「名前もつけたんだよ。伊三郎と勢次郎」

「安易だね。ていうか、なんか侍みたい」

「だって見た目が全身鎧だらけで強そうだろ。人間相手じゃ何の役にも立たないけどね。で、何食うかわからなかったから鰹節ぶちまけた。そしたら帰ってきたお袋が悲鳴上げて、悪ふざけもいい加減にしなさいって頭はたかれてさ。オヤジにも、鰹節と伊勢海老がはいった風呂になんか入れるかってどやされた」

「そりゃそうだわ。人間お吸い物だものね」マリエは吹き出した。

「そもそもこれから食うものに名前付けて餌やるとか、悪趣味だって。名前は家族にだけつけるものだって。そんなに可哀想ならお前らは食わなくていいって」

「で、どしたの。食べなかったの?」

「うん。意地で、飯抜き」

「妹さんは?」

「台所のドアの隙間から、オヤジが生きたまま殻剥いて刺身にするとこ見てたらしいけど、伊三郎も勢次郎も最後まで動いてたよって言ってさ。食いたかったかって言ったら半べそで首振ってた。それで、子ども部屋で一緒に塩ピーナツ食ってがまんした」

「いい話だね、てか、妹さんよく見てられたねえ」

「オヤジ、それなりにこりたらしくてさ。取引先に、生き物を送ってくるのはなるべく勘弁してくださいって手紙送ったらしい」

 それからぐっとビールを開けると、おれは言った。

「猫の名前、ナナコにしないか」

「ななこ? なんで?」

「妹の名が菜々子なんだ。肺炎で、七歳で死んだ。生まれつき心臓に障害があって、三歳ぐらいまでしか持たないって言われてたんだ。でも伊勢海老に名前付けて泳がせる年まで頑張った。それで、なんか……」

 そこまで言って、おれは慌てて手を振った。

「やめよう、何言ってんだおれ。縁起でもないよな、今のは聞かなかったことにしてくれ」

「なるほどね、いいんじゃない」マリエはあっさりと答えた。そして座布団の上で色鉛筆を転がしている子猫の背中を撫でながら柔らかく笑った。

「野良の寿命は、だいたい三年だって。まずは、七年。猫のナナコを、名前の年まで生かそう。それからは幸せの延長期間。それをつくってあげるのは、わたし。というか、わたしと沙村君の義務だよ」

 そう言われたときのおれの気持ちを分かってもらえるだろうか。

とにかくダリアかシャクヤクかよくわかんない花びらの多いでかい花がその瞬間、頭の中にぱあっと咲いたんだ。

 翌日の月曜日、おれとマリエはリュックに子猫を押し込んで近所の動物病院に向かった。視線の焦点があっているのかどうか怪しくなるぐらいの爺さんがやっているボロイ病院だが、評判だけはいいらしい。

「よしよし、痩せてるねえ。怖いことはしないよ」爺さんはそれはそれは優しい声をしていた。猫はすぐ爺さんの指先にじゃれて遊び始めた。診断の結果猫は雌で生後三週間ぐらい、蚤の糞ありということで、目ヤニ用の目薬をさしてノミダニ用のスポット薬をもらい、ワクチン注射をして、虫下しを処方された。ついでに子猫用の缶詰をくれた。診察料八千円。払いは割り勘にした。おれはぼやいた。

「結構するもんだな」

「まあ動物病院としては常識的な値段だよ、あのお爺さん良心的だわ。よかったねナナコ」おれのリュックを覗いてマリエは言った。おれは真っ先にゼニカネの話をした自分を恥じた。

 猫用トイレ、砂、シーツにキャリー、とりあえず必要なものを二人で駅前で買った。帰宅してリュックから出すと、ナナコは四肢をゆっくり四方に伸ばして欠伸をした。そしてあちこちふんふん匂いを嗅いだあと、オレンジの座布団の上で丸くなった。マリエはダイニングに立ち、ノンカフェインの晩白柚茶をいれてくれながらぽろっと言った。

「知ってると思うけど、わたし男に興味ないんだ。別に同性に興味があるって意味じゃなくて、仕事一直線。あんたはただの猫の恩人」

「ああ、わかってる」おれは多少がっかりしながら答えた。

「でね、わたし日中家にいないし沙村君がナナコの世話係としてここにいてくれるならそれなりに助かるんだ。沙村君はロフトわたしは下のベッド。それでいいなら持ち物はロフト空間に運んでいいよ」

「うん。有り難い」

 その日からなし崩しにおれとナナコとマリエの同棲が始まった。

 出来過ぎな話だが、これが沙村哲夫の現実なんだから仕方ない。

 おれは「美女と同棲します、探さないでください」と書置きをして両親が留守中の家から必要最小限の服を持ち出した。有り難いことに全然探してもらえなかった。

 彼女はおれの存在を無視するかのように、好きな時に服を脱ぎ着していた。一応ロフトの上部には急きょカーテンが取り付けられていたが、ちょいとめくればおれの寝床から丸見えなのだ。

 マリエはいつも茶色っぽい髪をくるくるとアップにしてお団子に丸めていた。すると白くて細いうなじがあらわになる。透き通るような、肌と同じ色の下着をいつも身に着けていて、一瞬全裸と見間違えてドキッとする。どんな下着CMのモデルと比べても遜色のない美しいなよやかな曲線が視線の先にある。その髪をばさりと背中に下ろす、毛先が白い背中で美しく跳ねる。眼福この上ないが、あとはひたすら我慢大会だ。

 男に興味ないから逆に平気なんだろうか。着替えながら、マリエは突然言った。

「あんたの肩毛が前から気にいってた。ザワールドイズマインのモンちゃんみたいでさ。それ、貴重だから剃んないほうがいいよ」

 多分覗いてるのばれてて言ってるな。おれはカーテンにそっと背を向けて自分の肩毛に触れてみた。生まれてすぐは先祖返りと言って方から背中にかけて長い産毛が多くの赤ん坊にあると言うが、おれはこの年になってもまだまだ残っていたのだ。だが、マリエの言葉でぱっと目の前が明るくなった気がした。それこそ、飼いならされた雄犬みたいにね。

 ちなみにザワールドイズマインというのは前代未聞の殺人鬼が地球人全員破滅させるレベルで大暴れする超バイオレンスマンガで、モンちゃんの外見は一言で言って原始人だ。肩にも胸にもわっさわさ毛が生えてる。暴力的で性獣で、とにかく人としてのタガを全部外したような男だ。だが一つだけ怖いものがある。それが、犬なのだ。よぼよぼであっても小さくても、犬を見ると逃げ回る。

「モンちゃんか。まあ、嫌いじゃないな」おれは冷静を装いながら言った。そしてなんだかんだ、けっこう幸せだった。

 なに、お預けを食らったままの犬が幸せなわけないって?

 いやいや、たとえていうなら、普通の幸せが肉厚なハンバーガーなら、おれの幸せはピクルスやレリッシュや粒入りマスタードをたっぷり挟んだバーガーのようなものだ。酸味は食い続けているうちにうまみに変わる、なくてはならない誇りという名のスパイスにね。自分は特別だ、何せほかのやつと違い信じられている、そして彼女の何もかもを見ることを許されているという、それこそ、飼いならされた雄犬の誇りだよ。に、変わるはずなんだ、多分。

 さて。茶トラのナナコだ。こいつはもう、やりたい放題だ。

 眠るのは壁際のマリエのベッド。彼女の寝息を吸って甘えた声を出す。いつもびろーんとしたTシャツに短パンで眠る彼女のへそのあたりからごそごそと入り込み、おっぱいの谷間あたりで甘い声を出す。

 癖のある長い髪に絡みつきながら耳を舐め、「ううん、もう、そこはダメ」と甘い寝言を引き出す。首元から出てくると今度は毛布に潜ってフトモモや尻あたりをくすぐってウロウロするらしく、

「そおんなとこがすきなのか、メスのくせに、このスケベナナコめえ」という眠そうな声が聞こえてくる。

 おれが懸命に、ダニー・トレホのドアップとか江頭25時の尻とか瀬戸内寂聴の説法とか次々脳内に展開してると、マリエがいきなり寝言を叫んだ。

「行け、ナナコ。モンちゃんあたしと一緒に、地球をぶっ壊すんだっ!!」

 蹴りだされたナナコが小さな足音を立てて、とんとんとんとんと、ロフトへの階段を上がってくる。

 おれが毛布を引き上げると、遠慮がちに、音節で表現できないぐらい高い声をそっと出して入り込み、胸のあたりでくるっとまるまって頭をおれの胸に押し付けるのだ。

 ふっくらといい具合に肉がついて、マリエに毎日拭かれている目からはもう目ヤニは出ていない。ナナコは今や、ふわふわの上等な毛玉だ。すーすーと、鼻息が胸にかかる。

 その全身からは、もちろん、マリエの香りがする。彼女の肌の、髪の、体臭と混じったボディクリームの香りが。

 おれは毛玉を抱きしめて思う。なんてお前は、手触りのいい、ふんわりとうつくしい生き物なんだろう。その小さい頭の中には、たぶん、言葉を伴わない、絵の具を溶かして混ぜたような夢が詰まってるんだろうな。

 さっきまで酸味マシマシだったレリッシュが一度に爽やかな甘味に変わる。

 と思ったらいきなり腕を甘噛みして後ろ足で蹴り蹴りしてきた。ひーやめて、という悲鳴をおれは喉の奥に押し込んだ。

 そうして朝になるといつの間にか、ナナコはマリエの布団の上にいやがるんだ。

 こいつめ。

 だが彼女ほど偉大な存在はいない。上と下を行き交いながら、言葉に変えることのできない溜息や体臭や寝言や夢を、長い尻尾をゆらゆらさせながら運び続けているんだから。


 おれは腕のひっかき傷にばんそうこうを貼りながら、心の中で呟いた。

 今まで切ってた肩毛を伸ばすことにするぞ。

 ナナコ、お前に負けず、ふさふさになってやるんだからな。

 とにかく、元気で長生きしてくれ。

 そしていつか、マリエとおれと一緒に、地球をぶっ壊そうな。




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[一言] ごぶさた、でもない速かったですが相変わらずの剛腕、ご健勝お喜び申し上げます。 うつくしい。とは見栄え以上に心が曇りないってやつなんだよなー努力や投資で変わらない資質なんでは?なら無い者は涙と…
[良い点] あああ、この物語本当に大好きです!ナナコとマリエと沙村の三人、何気なく性格が似ていると思っています。この景気の良い話の流れにあれよあれよ、と読まされます。ナナコちゃん大好き。地球をぶっ壊す…
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