ACT.03-50_Harpyia≒Tiphereth_Da'at?.[chapter.01~02]
1
『……ーん。「勇者」さーん。そろそろ起きた方が良い、のです。ここの人達、あまりねぼすけな人は好きではないのですよー』
幼い少女の声が脳内に響き渡っていた。
幼い少女。
先程の襲撃者。
黒いマントに身を包んだ『ピネウス=アンテピティス』の職人。
……敵?
「ぶ、はぁっ……!?」
ややあって。
彼女こと『勇者』は、飛び起きるように目を覚ました。同時に起き上がりこぼしの如く上体を跳ね上げるが、上手いこといかない。あげきる前に首の辺りに鈍い感触を感じ、その直後に後ろに向かって引っ張られる。ゴイン!! と真面目に後頭部を強打する音が周囲に撒き散らされるが……そのお陰か、今度こそ彼女は両目を見開いて気分すっきり気持ちの良い朝を……迎えている訳もない。
敵。
黒衣の襲撃者。
幼い少女の声をした『ピネウス=アンテピティス』の職人の台詞が、耳元で囁かれて……ッ!!
「……ッ!? くそっ!!」
「わ、わわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわ!? ちょ、ちょっと落ち着いて下さいなのですわたしは別に何もしないのです!! ほ、ほら本当ですから一回落ち着いて下さい深呼吸!! 深呼吸して一回体を落ち着けて欲しいのですー!! あ、あのですからわたしに向かってグーは勘弁して下さいなのですよー!!」
「……すー、はぁー……すぅー……、……ッ!!!!!!」
「ひゃっ!? ち、違いますわたしは敵じゃないのです!! お願いなのでお願いしますからそのグーは止めて下さい本当にお願いしますのですー!! い、痛いの反対なのですわーん!!」
ここまで思考暴走をやらかして、最後の一言でようやっと手を止める彼女。どうやら先程の襲撃者がよっぽどトラウマになったらしい。本能的に幼女の声に対して自己防衛行動に走る悪癖が染み付いてしまったようだ。何も世の中の全ての幼女があんな感じな訳がないのだし、そもそもクナブラ=クォド=アモル殿にはサリィナちゃんなんてあんな健気な女の子がいたはずなのだし……。
まず深呼吸。突沸を起こしかけた脳ミソを冷却し、どうにか極度の緊張状態に陥っていた自分の身体に制動を掛けていき……一連の流れに数分費やした後、声の主の方へと視線を投げる。
「……よ、よかった……何とか落ち着いてくれたみたいなのです……ふう」
彼女の隣にいるのは絵本に出てくるような屈託のない幼女……なのだが、問題は来ているものだ。
何か身に纏っているドレスがやたら薄い。ほとんど地肌が見えかかっているような、半透明のワンピースドレスだ。首から上の方も年相応の童顔+渦巻のようにカールが入った水色のショートヘアという組み合わせ。声変わりさえ起こす気配のないソプラノの可憐な声色に加えてこの外見ということで、見た目だけで判断するならむしろ教会領西側の妖精王国にいそうな印象がある。それぐらいの可愛さというかそんな感じなのだ。
ただし、それが余計にこの場所とのミスマッチを演出している。
蝋燭一本に照らされた小部屋。それも窓の一つもなく、ただ四方に冷たい壁が迫っているだけの小さな空間だった。どこかの水道施設のようにも見える場所だが、だとしても先程から鼻を突く生臭い異臭などある訳がないだろう。
「……、」
改めて、自分の身体に目を落としてみれば。
四肢を固める鎖付きの足輪腕輪はもちろん、それらの拘束具自体が石造りの床にボルトで直接固定されていた。しかもボルト本体も別の鉄板によって上から押さえつけられ床と完全に接合されている。何が何でも縛り付けておくという強い意志さえ滲み出てくるような強固さだ。
もちろん、本当にそれだけなら彼女の問題にはならなかっただろう。
上体を起こした瞬間、首の後ろを引っ張られるような感触があった。
通常の金属製拘束具程度なら素手で引き千切れる『勇者』を、どういう訳かこの場に留めている首輪だ。明らかに聖術魔術の類が絡んでいるような感じだが、彼女の第六感はエレメントの残滓を感じ取れない。寝起きで神経が鈍っているとかいう話ではなく事実そうなっている。
とりあえず彼女に分かるのはこれぐらいだ。
今の状況を把握するためには、まず手近な所から始めなくては。
「……とりあえず聞きたいんだけど、貴方は?」
「み、ミシェリナ。ミシェリナ=ディアントロスっていうのです。りーだーが付けてくれた名前なんですけど、ちょっと言いづらいっていうか……何だか上手く口が回らない感じなのです」
「りーだー? 誰の事?」
「りーだーはりーだーなのです。わたしたちのてっぺんに立ってるからりーだーって。他のみんなは『おやかた』って呼んでるのですよ」
「親方……『ギルド』の徒弟制の頂点……ってことは、貴方やっぱり『ピネウス=アンテピティス』とは無関係じゃなさそうね。でも見た感じはさっきの奴とは全然違う……こんなピュアで虫も殺さないような幼女じゃなかったわね。今から思うとあいつリスカが日常茶飯事になってそうな気がするし……」
「『りすか』って何なのですか?」
「……分かった貴方にはまだ早いネタだったわねごめんなさい」
この会話だけでも十分すぎるぐらいだ。
目の前で座り込んでいるミシェリナ=ディアントロスとかいう幼女はほぼ無害と言っても良い。こうして完全に縛られて身動きの取れない『勇者』が目の前にいるにも拘らず何もしてこない、むしろ他の職人との関係性も希薄であることが読み取れる台詞ばかり流れてくる。もちろん偽装である可能性も否定はできないが、少なくとも先程の襲撃者との繋がりはないと見ても大丈夫だろう。
それは良いとして、問題はここがどこかだ。
石造りの部屋であることからして人工物であることは確定。だが『ピネウス=アンテピティス』が捕らえたハルピュイアを入れておくために使う監獄ではないだろう。後で羽毛を毟り取るつもりならば、こんな狭くて暗いスペースでの保管はむしろ逆効果になる。夜間にも活動するとはいえハルピュイアは基本的に空を飛ぶ生物、それ故教会が保護に乗り出した時にも、特別保護区はある程度広さを持った区域であることが求められていたはずだ。
生かして保管するにもストレスで餌を吐き戻してしまっては元も子もないし、それを原因とする脱水症状や種々の感染症の危険性もあるだろう。当然、そんな状態の羽毛に価値なんて付く訳もない。そう考えても、ここはどちらかと言えば取った後の羽の保管庫の方が近いのではないだろうか。
(羽毛自体は放置してても別に腐敗はしないけど、むやみに湿気とか日光に晒しておくと痛んだり色落ちする可能性もあったはず……それを避けるためにこんなスペースを?)
蝋燭の明かりに照らされた床には何もない。羽毛の一枚どころか毛の一本さえ落ちていない、完全に何もない部屋だと表現しても良い位だろう。不気味な臭いだけが空気中に充満していて、それなのに床にも壁にも天井にも、それらしい死骸も血糊も存在しない。単に暗くて見えないだけなんて感じでもなさそうだ。
「……っていうかミシェリナちゃん、貴方はどこから入ってきた訳? ここ扉も窓も何もないようにしか見えないんだけど」
「アルクタンさんの『じゅつしき』で入れてもらったのです。えと、『勇者』さんを起こしてから……これ、渡すようにって言われてたのですよ。そろそろお日様も落ちてくる頃なのですし」
これなのです、とミシェリナが差し出してきたのは銀色の袋に詰められた……棒? 手に持った感じはかなり軽く、指で押すとサクサクした感触と一緒に表面が沈む。見た感じはどうもクッキーとも違うようだが……何か、こう……お湯を注ぐ前のカップラーメンに入っている卵のような感触だ。
明らかに教会領製ではなさそうだが、しかし魔族占領区にも多少なりとも顔が通じていて、なおかつ中心部でも流通しているカップラーメンを入手できた彼女もこんなものは見たことがない。中心部で新しい製品ができたとかいう話なのかも知れないが、今気にするべきはそんなことではなかった。
ザザッ、と。
半透明のドレスの少女の耳元で、短絡的な雑音が鳴っていたのだ。
『……時間が掛かり過ぎだ。親方は五分で連れてこいと言ったはずだぞ、ミシェリナ』
音自体はかなり小さく絞られている。聞く限りでは男の声のようだが……ミシェリナに対する口調はお世辞にも芳しいものとは言えない。事実、等のミシェリナは驚きに一瞬肩を震わせた後、口元を手で覆ってこう話し始める。
「あ、アルクタンさん……済みませんです。ちょっと『勇者』さんの目覚めが悪くて、できればもう少し時間が欲しいのですよ……『勇者』さんは、まだここがどこかも理解できてない感じなのです」
『そんな無駄口を叩いている間にも行動に移るべきだったな。……この件については恐らく親方から通告がある。心して待っておくことだ。前回に引き続き今回もこのような失態を犯したとなれば、親方はいつも通りの顔をしてはくれないはずだぞ』
「……すみません、次は気を付けるのです。ごめんなさい、です」
『謝罪している暇があるなら戻って来い。そこの酸素は有限ではない、あまり長話をしているとお前も持たなくなるな。特にお前は親方のお気に入りだ、下手に窒息死した暁にはどうなるか、想像だけでもしてみろ。親方の不興を買うのは俺達にとっても得策ではないんだからな』
そこまで言葉が続いて、ブツリと声が途切れる。
……今の会話の中にただならない意味合いが含まれていた。ここが外界から隔絶された閉鎖空間であること、彼女はミシェリナの迎えがなければそのまま酸欠で死んでいたであろうこと、まあ色々だ。彼女にもそれぐらいのことは分かるが……それ以上に気になったのはミシェリナに対する男の発言だった。
親方のお気に入り。
いつも通りの顔。
どう聞いたって平穏なイメージの沸かないフレーズだが、しかし当人たるミシェリナには特に動じる気配はない。耳元に掌を当て、離して、それを繰り返し……しばらくの空白の後、『勇者』の方へと視線を向けて、再び口を開く。
「……すみませんが、りーだーに頼まれているのです。『勇者』さんのお姉ちゃんを連れてリーダーの所に来るようにって、アルクタンさんから伝えられて。わたしも詳しくは聞かされていないので何が起こるのかは答えられないのですが……ごめんなさい、何も話せなくて」
「構わないわよ。今ので私が置かれてる状況とかも多少分かったし、それに……今の貴方の立場もそう。貴方の言ってるりーだーとやらが、私が今すぐ全身全霊でブン殴ってやらなきゃならないような奴だってこともね……」
こうなると同行していたルーシーの方も気掛かりだが、正直今の状況では何もできない。今日出会っていきなり殺害対象にされた『勇者』こと彼女より優先順位が低いことを祈るしかないのだ。ああいう発育の良いタイプは魔族占領区で言う所の薄い本のような乱暴を受けやすいタイプだから、という彼女の持論が、そんな警鐘を鳴らしてくる。
ともかく、今は少しでも情報が欲しい。
例え『ピネウス=アンテピティス』の思惑に乗せられているとしても。
全身を戒める各所の拘束具に触れて一つずつロックを解除していくミシェリナを横目に、彼女は短く息を吐く。
(……親方がここにいるってことは、この場所が『ピネウス=アンテピティス』の本拠地である可能性が高い。そういうことか……)
『聖剣』の感触はない。
やたら肌寒い感覚からして、鎧も剥ぎ取られている。
こんな状況で何ができるのかと聞かれれば、何もできないと答えるのが自然……いや事実か。当然、彼女としてもそれは承知の上だ。下手に行動に出ようとしてかえって自分の首を絞める羽目になるなんてのは避けたいし、この状態だと一刻も早くアストレア閣下やフィナンジュに連絡を入れるぐらいしか手がない。
そんな風に考える彼女の傍ら、ミシェリナは片手を床にかざす。
石畳から染み出すように溢れるのは、赤い魔法陣。
2
「……保護していた例のハルピュイアが、消えたですって?」
開口一番、リディアス=トゥベル=ボーンカッターはそんな一言を呟く。
深夜帯、アドレナリンだかドーパミンだかが放出されまくって一向にベッドに入ろうとしない子供達を寝かしつけるという重大な使命。アストレア閣下がいれば、あの豊かなびゅーてぃー☆ぼでーがすぐにでも解決してくれるのだが、生憎と閣下は『円卓執長』と一緒に『ピネウス=アンテピティス』の足取りを追っている最中だ。ここは小姓兼秘書たる自分が何とかしなければ……と気張って仕事を終えた矢先に、この報告だった。
本殿に侵入したプルーマ=ブラツィウム種ハルピュイア、消息不明。
『こちらでも何があったかまでは把握できていません。監視要員が交代する三分間の間に忽然と蒸発してしまったとしか……ですが、あの部屋はクナブラ=クォド=アモル殿でも指折りの結界強度を誇る教会重鎮用の寝室だったはずです。そう易々と抜け出せるものでは……』
「……だとすれば、考えられる線は一つだけですか」
『まさか……この、クナブラ=クォド=アモル殿に侵入者が?』
「実際にこんな事態になってしまった以上、事実だとしか言いようがないでしょう。ひとまず監視要員は全て大広間に集合。私が直接事情を聴きます。それと、今後七二時間は誰一人としてクナブラ=クォド=アモル殿から出してはなりません。宜しいですか?」
『……了解、しました。ボーンカッター様も、どうかお気を付けて』
「言われるまでも」
話を切り上げ、通信用の護符を貼り付けた木版をポケットに押し込む。
既に日付を跨いだ時間帯だ。夜の帝王だとか何とか言われるインキュバスの男の娘ことイェルク含め、子供達もよく眠っている。この騒動では彼等の安眠を阻害してしまうかも知れないが……胸を痛めている暇はあまりない。
保護していたハルピュイアが行方不明。
収容所はVIPクラスの重鎮用の寝室。
両者揃って厄介な話だ。侵入者という可能性に則るのであれば、修復中だった外部結界の隙間を縫って入ってきたというのが濃厚だが……修復中は一回四時間のローテを組んだ聖術師が監視を行っていたはずだ。交代時間中もいくつかの探知網を張って監視体制を強化していたが、報告を受けた現在までそれらに反応はない。
となれば、事態は非常にまずい。
(まさか、クナブラ=クォド=アモル殿に内通者がいるという事態が……万が一にもあってはならないことですが、しかしそれ以外にこの状況を説明できる可能性がありませんね……)
子供部屋を出、執事やメイドが慌ただしく走る廊下に足を踏み入れる。
内通者がいたとなれば、奴は必ずクナブラ=クォド=アモル殿を抜け出す。あのハルピュイアの強奪が目的ならまずそうするはずだが、それに乗じて別の目的を達成しようとしているならばさらに面倒だ。このクナブラ=クォド=アモル殿はアストレア=A=アストラーニュ司祭枢機卿の、陰陽の業績全ての記録……その証拠たる子供達さえ存在する場所。ここを探られでもしたらどうなるか、それは想像に難くない。
アストレアのどんな失言もポーカーフェイスで受け流してきたリディアス=トゥベル=ボーンカッターの顔には、そんな焦りが浮かび上がる。
だからこそ。
こんな事態を引き起こした相手は、その瞬間を逃しはしなかったのか。
クナブラ=クォド=アモル殿一回の廊下を過ぎ、扉を開け放った先は晩餐会場想定の大広間。要請を受け既に集まっていた聖術師達の注目が、一斉にリディアスの方へと向く。
求めるものは次の指示。あるいはその一言がこの事態を良くも悪くも傾ける。それ故に、彼等は一心にリディアスへと注意を注いでいた。
だから。
「補足。距離五……戦闘開始。『仮称』、エンゲージ」
その後ろから現れた影に対して、初動が遅れる。
襲撃者は背後から突撃していた。
それも足元から、まるで雨水が染み出すかのように。ずぅあっ!! と、無数の赤い水滴が宙に身を躍らせたと思えば、直後にそれらが一定の方向性を得て『空間を』流れ始める。ちょうとリディアスの側頭部を穿つようなラインで、だ。
しかし、
「……ッ!!」
わずかに首を振って、直撃を免れた。血のような赤い水は目標を失い、だが勢いを殺せないまま大広間の床に突き刺さる。リディアスと聖術師達の間の空隙に落ちた水はそのまま床の隙間へと流れ落ちようとするが、直後に莫大な『圧』でもって押さえられ、その場に縫い留められた。
聖術師の一人が一歩遅れて反応したようだ。彼の手には中空の金属の球体が握られているが、あれは重力操作を起点に据えた術式だ。効果自体は非常に強力なのだが、出力と反比例して範囲が狭まってしまうという弱点のためにランクは銀書記中層になっているのだったか。
「ボーンカッター様、お怪我は!?」
「私のことは良い、それより下がってください!! このタイミングで襲撃ということは、こいつは『ピネウス=アンテピティス』の職人である可能性が高い!!」
「……残念ながらウチの中では職人にも届いとらんがね、そいつ」
さらなる声が続く……が、それは抑えつけられた赤い水の方からではない。
上だ。唐突に大広間の天井にヒビが入ったと思った瞬間、通常の数倍はあろう速度の自由落下を伴って何者かが落ちてきたのだ。ちょうど赤い水を踏みつけるような恰好になったが、彼(?)には別段気にする素振りはない。いや、ただの水に対して感情を読み取れとかいう方が無理難題なのでこういう表現にならざるを得ないのだが……少なくともリディアスの目にはそう映った。
右腕から胸にかけて禍々しい刺青を入れた上半身を晒し、下には切り裂かれた後だけを残すズボンを着た青年。その刺青は途中から血のような赤色に変色し、右手の指先……いや、正確に言えば爪と皮膚の間から染み出している。あたかも刺青そのものが体外に露出した血流のようだ。
「……『仮称』はあくまで徒弟だよ。元々は人間だったようなんだが……肉体を『水』のエレメントに変換する術式を扱えるようになったは良いものの、元に戻る方法を忘れちまったっていう曰く付きでな。そのお陰で与えられた名前が『仮称』って訳だ。職人に格上げする価値もねえ、その一方で使い方次第じゃ無限の戦闘パターンを与えてくれるって意味でな」
「貴方方の出目はどうでも良い。何をしに来た、とだけ聞きましょうか」
「そこで話をすり替えてねえで名前ぐらい聞いてくれよ。『憤弩』ケリュニ=ド=ゲメール、そこのそいつと違って『ピネウス=アンテピティス』の正式な職人。んでもって目的は……そりゃ当然ここに逃げ込んだハルピュイアの回収に決まってるわな。あと内通者も」
「自分から堂々と言う辺り、余程の自信があるようですね。そして内通者の存在さえ否定しなかった。このクナブラ=クォド=アモル殿に外から密偵を送り込むとは……この間のジュディチュム=イノミェ=デイの連中による電撃査察の際に紛れ込んだクチですか」
「期待してくれてる所済まねえんだがそれとは関係がないっつーか、まあ無関係でもないんだよ。っつっても別に教えるつもりはないんだがな、枢機卿閣下の小姓さんよお?」
「ならそれでも結構です」
薄ら笑いを浮かべて右手を振る男だが、リディアスはそれ以上まともに取り合わない。
クナブラ=クォド=アモル殿に密猟系『ギルド』の一団が侵入した。今は非常事態の極みだ。ここに集めた聖術師はそれなりに腕の立つ者ばかりだが、リディアスとて彼等に任せて自分だけ本命を追う……という真似には走らない。
むしろ。
今この場で叩き潰して、目の前の問題を一つ片付ける。
「……私にまともな殺し方を選ばせただけ、満足してください」
懐に手を突っ込んで取り出したナイフを構え、突き立てる。
アストレアの小姓であり、同時にクナブラ=クォド=アモル殿の非常事態指揮官としての役割を兼ねるのがリディアスだ。当然、このような事態に際して特に動揺することもその相手を仕留め損ねることも許されない。例えアストレアがどれだけ寛容な微笑みで失敗を許容したとしても、結果としてアストレアを守れないのでは全く意味がないからだ。
それ故に無駄は省いた。
鋭利な両刃のナイフ、心臓や眼球や肝臓といった敵対者の急所を確実に抉り取るために作られた、リディアス含めた執事やメイドが常備する支給品。これ一本をもって確実に襲撃者を仕留めることを第一とする。
対する相手は、『勇者』からの報告にあった『静狂』のような挙動は取らない。その場に立ち尽くし、ただ赤い水の滴る右腕をゆっくりと上げていた。刺青のような血流のような何か……主張に則るのならば『自らの形を失った人間』が、腕全体から滝のように滴り落ちる。
聖術によって抑え込まれていたはずのそれが、何故か男の右腕から。
「そりゃお互い様」
リディアスの言葉を聞いて、逆にせせら笑うかのようだった。
むしろこういう奴との戦いはやり慣れていると、そう言いたげに。
「仕事熱心なのも結構だがよ、『そういうの』はもう何度も見てるんでな。こちとらも『憤弩』だ、悪いがあんたの思い通りにさせる訳にはいかねのよ!!」
吠えて、拳を握って、そして開いた直後だった。
ッッッボン!! と、空間が爆ぜた。それに押され、巨大な手にはたかれたようにリディアスの足取りがズレる。必殺の一撃を叩き込めたはずが、それとは全く関係のない方向へとナイフの軌道が変わってしまう。変えられてしまったのだ。男の身体にはかすりもしないように。
「……チッ」
「舌打ちとは行儀の良くないことだ。あんた、見た目はそれだが案外育ちは悪いんでねえの?」
故に刺突は諦め、左腕を曲げる。
逸らされたなら逸らされたなりに手はある。身体全体に加わった圧力を逆に利用し、それを回転運動のエネルギーへと変換したリディアスはその場でカポエラかポールダンスのようにぐるりと回り、突き出した左肘を叩き込む。
だが響き渡った鈍い音は、男の肋骨が折れた音とは違う。
音源はリディアスの肘だ。男の指先から流れ出た赤い水が、雪の結晶を模したような形の盾へと変貌し、それが男の胴体を防いでいたのだ。一見して無機的な形の盾ではあるが、その表面は脈動するかのように波打っている。そればかりか表面から小さな乱杭歯さえ生やし始め、リディアスの肌へと徐々に噛み付いていく。
歯の一本一本それ自体は非常に小さい。にも拘らず皮膚を掴み上げる力はあたかも万力のようだった。腕全体に力を入れて引き離そうとするが、赤い水が離れることはない。
「……本来こんなチカラはなかった、つまりは『水』が扱えるだけのただの人間やってはずなんだがな。『憤弩』としてのチカラは『仮称』と組んでから現れ始めた……っつーのとは違うな。むしろ『仮称』が進んでこの戦法を使うように言ってきたんだったな」
「元の身体を見失った人間を、自分の能力として取り込んだとでも?」
「ご明察。あんた案外察しは良いタイプか?」
そして男の方も見逃すことはなかった。
余ったもう一本の手で大広間の天井を指差し、その直後、床に大きな染みが現れる。
集まっていた聖術師達の足元を覆い尽くすかのような赤色。当然、床下に通っている配管が破れたなんて都合の良い話であるはずがない。
むしろ、この状況で別の要因を探し出す方が困難に近いか。
「……エレメントとしての『水』は物質的な水とは別物だが、その特性は限りなく水に酷似したものとなる……聖術師なら知ってて当たり前の知識だよな?」
パチン、と指を弾く音がした。
それが合図となり、水たまりのような赤い『水』の表面が波打ったかと思えば、直後に無数の串が天井に向かって突き抜ける。赤い、まるでかつての残虐な処刑方法を再現するかのような棘の嵐だった。それもただ足元から現れるのではない、一本の串からさらに何百何千という串が踊り出で、それ自体が意志を持っているかの如く身をよじる。
それはただの刺突に留まらない。
ある聖術師は全身に串が絡み付き、その上で表面から現れた別の串によってメッタ刺しにされ。ある聖術師は両足首を掴まれそのまま後頭部を床に殴打され、ある聖術師は全身の穴と言いう穴から入り込んだ『水』によって呼吸そのものを阻害されていく。いずれも周囲の聖術師同士でフォローし合って何とか凌いでいる状態だが……到底長続きはするものではない。相手が明確な形を持たない『水』でしかない以上、聖術抜きにして相対することはまず不可能なのだから。
リディアスとて黙って見ている訳ではない。すぐさまもう片方の手を振り抜き、燕尾服の袂に手を突っ込み、そして口を開く。
ただの言葉ではない、力ある言葉。聖術の基本たるは聖書の言葉の詠唱。これもまた聖術師が修道会に入信して最初に教えられる基本だったか。
「……第一は生の理、第二は栄光の廃、第三は主の信奉!! 我が身に纏わる魔の者よ、速やかにその手を放せ!! 我が道に彼の者の入る間隙はあらず、この身は堕ちる能わぬものなり!!」
「……っ!? 聞いただけでも分かるなそいつはヤベえヤツだってよぉ!?」
ッギン!! という甲高い音があった。リディアスの肘を加えこんでいた赤い『水』の盾が、その言葉を境に弾かれる。いいやそれだけではない、雪の結晶じみた形状のそれに亀裂が入った、と認識した瞬間、盾は派手な音を立てて砕け散ってしまったのだ。
男は再三盾を作り直そうと虚空を握り込むが、予想に反して何も現れない。自分の手を握った感触だけが虚しく返ってくるだけだ。自分の足元に広がる『水』さえ沈黙し、こちらの指示など一切聞いていないかのように口を噤んでいる。
得物が封じられた。
恐らく、男は直感的にそう判断するのが精一杯だっただろう。
「大方その通りですね……このような長々しく仰々しい詠唱は、大体クソ面倒でクソタチの悪い術式と考えて下さって間違いないかと思いますよ」
そして、リディアスはこの隙を見逃さなかった。
懐に突っ込んだ手を引き抜き、その形を拳へと変え、全身全霊の力を注ぎ込んで男の顔面へと叩き込む。 響いたのは頭蓋骨が陥没するかのような鈍い音だった。華奢で小柄なリディアスが放ったと言われても到底信じ難いような音響だったが、こうして多くの聖術師が目の前で目撃している以上、今後は紛れもない事実として扱われることだろう。実力はあるクセに腹黒な思考ばかり回して自分は表に出てこない……なんて悪い噂にされなければ良いのだが。
まあ、このような発想に至っていられるのは当のリディアスだけだが。
男の方はどうかと言えば、ろくに防御することも敵わずに鉄拳の直撃を食らっていた。足で衝撃を抑え込むこともなく、勢いを殺しきれずに大広間の床に激突する。同時に四方八方へと飛び散る赤い『水』はまるで血飛沫か何かだ。
「教会の保有する聖書において」
しかしリディアスは、それを見ても表情を変えることはない。
握ったナイフにこびり付く『水』を払い落とし、もう一度逆手に握り込んで男へと向ける。
「『救世主』たるイエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、聖霊によって四〇日間の荒野の放浪へと出されています。その間、彼は三度悪魔による誘惑を受けたものの、結局三度とも主への信仰心を示す言葉により撃退し、最終的に退却へと追い込んでいる。これ以降悪魔はイエスの前に姿を現すことはなく、イエスもまた悪魔の姿を見ることはなかった……というのが聖書の記述です。さて、ここまで説明すれば私のしたことも分かるのでは?」
「……三度の誘惑を一回に集約して跳ね退けるかよ……聖術ってのも結構解釈次第ってヤツか……? 教会の下でド真面目に研究に勤しんでるように見えて実は結構ひねくれてんだろ……」
「私達に限った話ではないかと思いますがね。教会のすることはいつもこのような感じです。自分達の中から異端分子を作り出すことはザラ、教会とは全く無関係の立場にあるリヴェルニア独立同名連合の祖たる国家群にさえ異端審問がどうこうとか良く分からないことをしでかしている。正直、教会の人間たる私でさえ、自分のいるこの場所に正当性があるのかどうか疑ってしまいますが」
「……自己満足の自己否定してくれんのは勝手だね。最初から最後までムカつくガキだったが……実力だけは本物ってタチか? ったく親方の野郎、これぐらい教えといて欲しかったぜ。まあそれはそれで構わねえんだが……」
男は右手の刺青から赤い『水』を染み出そうとして……しかし反応はない。荒野の誘惑を試みた悪魔が退却を余儀なくされたのと同じく、リディアスの詠唱がこの場の『水』の動きを封じ込めたのだ。完全な退却とまでは行かなかったようだが、その代わり『水』となり自分の姿を忘れた人間が『リディアスを含めたこの場の人間』に対する攻撃能力を失うように仕向けたのだろう。『水』はただの水となり、男の命令に対して何の反応を見せることはない。
相手は武器を失った。
同時、それまで聖術師達に突き立っていた串も消える。互いに治癒の術式を掛け合い傷をいやした後、各々の獲物……直剣や斧や十字架、あるいは杯や硬貨袋を手に、クナブラ=クォド=アモル殿大広間の床に倒れ伏す男へと滲み寄る。
男にとっては、恐らく一巻の終わりという具合なのだろう。
そのはずなのに、何故か彼は笑っていた。
「……ぶっちゃけよお、誰だと思う?」
「誰がですか」
「教えてなかっただろ? 内通者が誰かって話だよ」
ぴくり、と。
訝しげにひそめられたのは、リディアスの眉だった。
内通者。
以前ジュディチュム=イノミェ=デイ修道会が行った、クナブラ=クォド=アモル殿の電撃査察の時に紛れ込んだ、というのがリディアスの予測だった。普段は子供達の保護施設としての顔を持つこの場所については、それこそ円卓騎士団や他の修道会による異端盗伐の被害者の子供達も結構な数がいる。
ただの異端というレベルから魔族の少年少女まで、つまり見つかったら軽微な制裁で済むレベルから保護していたという事実自体が修道会を揺るがしかねないレベルまで。発覚時のヤバさについては非常に幅広いことこの上ないが、一つ確かなのは『教会の人間、特にジュディチュム=イノミェ=デイの連中に見つかると死ぬ』という事実だった。それ故査察者の人数から詳細な調査方法まで、事前にくまなく確認した上で隠蔽を施していたのだが……全く抜けがなかったかと言われれば完全には肯定できない。外部の人間が紛れ込んだとすればその時だろうが……しかし男は首を縦には振らない。
というか、得物たる赤い『水』を失って何故、こいつは笑っている?
「ジュディチュム=イノミェの行動に紛れ込んだって推測は悪くないな。もし『ピネウス=アンテピティス』にその程度のオツムしかなかったら実際そうしてたよ……。けどそんな偽装はどうせ長続きしねえ。アモル=クィアの実力なら潜入者を焙り出すぐらい簡単にできんだろ?」
「こちらの話はどうでも良い。言い出したからには素直に喋ってもらいたいものですね……貴方の言う内通者が誰なのか。もし話せないと言うなら、脳ミソを直接漁って情報を抜き出しても構わないのですが」
「そういう怖い手は使わねえ方が良いと思うけどな? 『ピネウス=アンテピティス』もそこまで馬鹿じゃねえ、触れられちゃマズイ情報があれば思考回路に『爆弾』でも仕込んでおくさ」
「……本気で臨むつもりですか?」
「そりゃ遠慮しておくぜ。あんたみてえのにガチで頭の中まさぐられたら精神どころか脳ミソ丸ごと焼け付き起こしそうだしな」
……ただ、と男は一区切り入れて、
「この時間が命取りになったな……聖術師を信用してんだか何だか知らねえが、わざわざ死に際の捨て台詞を聞いてくれて礼を言うよ。マジモンでアリガトウ、って感じだぜ……」
「……どういう意味で?」
「内通者ってのはなあ、単に俺達と通じてるってだけの意味じゃねえのさ。ソウダロウ? ただ取引交わして紛れ込ませても必ずボロが出る、なら他にどういった手があるか。ついでに、ここに逃げ込んだハルピュイアを探し出すのにうってつけな人材ってのはどういう奴なのか。ここまで教えて分からねえようじゃ完全にアウトだが……まあ良いさ。肝心なのは誰にもバレねえこと、あんたみたいなクソ外道にプランを先読みされて丸ごと潰されるような展開を全力で避けることだからなぁ……」
すっ、と指を上げる。
リディアスの後ろに控えている聖術師を指していた。別の術式を使うつもりか、と一瞬身構えるリディアスだったが、彼の予想に反して何も起こらない。足元に染みのように広がった赤い『水』にも、男の指先や腕の刺青にも、何もだ。
いいや。
この場合、肝心なのは男ではなく示された聖術師だったのか。
それとも、彼の後ろに隠れた別の誰かだったのか。
「……全くいい仕事だぜ『影候』。ま、そいつ一人をゲットするだけにしちゃ大掛かりな陽動だったが……これも親方の指示だからな。駒は駒らしく何も考えずに動くのが道理ってモンだしよお……」
あるいは。
その『影』そのものを、指摘していたのか。
刹那の出来事だった。
男の言葉が終わると同時、水っぽい音が響き渡った。それに合わせて聖術師の一人が膝を追っていた。脛が床に付くと同時、彼の姿が……『揺れる』。まるで蜃気楼か霞のようにシルエットが崩れたかと思えば、そこには……全く別の誰かが立っていたのだ。
全身は黒い煙のような何かで覆われていて姿形もはっきりしない。ただ外見的にそう見えているのではなく、実際そうなっているのだ。リディアスの瞳には霧とも炎とも見えるし、そうではない別の何かにさえ映っているが……一つはっきりしているのは、彼が小脇に抱えているものだった。
サリィナ。
このクナブラ=クォド=アモル殿で保護されていた少女の一人。
「回収成功、ってヤツだ」
パチンと指を鳴らせば、その影はたちまちに消える。
ただし、脇で抱えた少女も一緒に。炎の燃える様子を早回しにしたかのように、床から天井へと立ち上っていく『影』は、そのまま何の痕跡も残さずに消失してしまった。
「……まあこっちが内通者って呼んだけどよ。内通者ってのはさぁ、必ずしも敵対組織と密通を図っている者のことを指すモンでもねえんだよな。そもそも『通じてる』って所に自己の意志が絡んでるか、それは全てのケースにおいてはっきりとはしねえモンだ」
「……、貴方は、何を考えているのですか?」
「さてねえ? そういうのとは無縁な足りない脳ミソしかねえ俺に聞くのは勘弁してくれよ」
いや、それに留まらない。
気が付けば、リディアスの背後にいた聖術師達はことごとく消えていた。
元々立っていた場所には誰一人として残っておらず、その代わりとして焼け付いたかのような影だけが。それらもまた一瞬の内に立ち上り、霧や霞のような人型として床を踏み締める。それぞれの手に握られているのは片手剣や聖書や杖や十字架、つまりそこにいた聖術師達と同じものだった。強いて言えば、それぞれの得物を持つ手が左右反転していることが数少ない違いだが……何はともあれ、楽観視できる材料は一つもない。
残ったのは自分だけだ。
相手の狙いが何であれ、こうなった以上は当初の責務を果たし抜くのが小姓の務めというものなのだから。
「ま、面倒な仕事はもう終わったんだ。『水』が使えねえのは結構痛かったが……別に俺のチカラは『水』の直接操作だけじゃあねえからなあ。少しばかり試運転に付き合ってくれァ、腹黒〇事のクソガキさァん!!」