ACT.03-25_At the ″their″ Cliff.[chapter.09]
9
マルティリャーナ教会立公園までは直線距離にして一キロも離れていない。
感じとしてはほとんど裏山のようなものだ。元々一つの市のようなサイズでしかなかったヴァティカンがローマを取り囲む程に拡大したからというのが主な原因でもあるが、もう一つはやはり外周を取り囲む城壁だろう。
これがヴァティカン市内とその外を分断する門であり、外部からの敵を迎撃するための城塞である。故に、それはより強固に、より巨大に作られなければならない。その強度は然り、魔術に対する絶対的な防御としても然りである。いつかの聖女ルティア=アントゥラーナ、の旦那様がこんな主張をして聖別されかけたという話は有名だが、それがかえってヴァティカンの内と外の区別を必要以上に明確にしてしまったということか。
接触に制限が掛けられているとは言え、感覚的にはお隣さんのような関係であるハルピュイアの異変に気が付けない。そんなアホな話が今まさに現実として牙を剥いている。
「はぁっ、はっ……くそ、あの野郎どこに行ったのよ……たかが数百メートルの鬼ごっこでここまで引き離されるなんて、あいつ本当に『ギルド』の職人なんてレベルなのか……?」
「……そういうことを議論する前に、まず『勇者』さんは私の体力について考えてみる必要があると思うんです……魔術で強化してても疲れるんですよ……」
「そういう甘っちょろいこと言ってたから引き離されたんじゃなくて? あん?」
「……ごめんなさい、です……ひぐっ……」
一睨みで涙目になるぐらいにはメンタルが弱いのなこの魔術師……という本音は言わないで置いた方が良いな、とは彼女の弁。
立体的な軌道に予測不可能な攻撃。なまじ一つの武器や戦術に拘っていないせいか、あの襲撃者はその辺の魔術師より遥かに面倒な相手だ。
先程はボロボロのバスタードソードを使っていたと思えば次の瞬間には放棄していたし、その後に出てきた簪やダガーナイフも数手で放り投げている。さらにナックルやガントレット、弩から何やらまで様々な武装をその場で調達しては使い捨てる戦術は全く先読みが効かない。一つの戦法に対して予測を組み上げた瞬間にもう別の戦闘パターンに移っているとなれば猶更だ。
結局ロクに姿を追えたのは一〇〇メートル程度。
そこからは音を頼りに追跡したものの、結局それも聞こえなくなって断念。
マルティリャーナ教会立公園まで辿り付きはしても、奴の痕跡も何も感じ取れないまま見失ってしまった。……当然、出出しとしては最悪の一言に尽きる。
「アイツは、明らかに私を狙った『ピネウス=アンテピティス』の刺客だった。ヴァティカンを……いえ、ラバロ門を出た瞬間に襲ってきたってことは、やっぱり私の位置がバレてる……? でも、だとしたら何で、ヴァティカンの中にいる間に襲ってこなかったんだろう……」
「人の目に触れるのを避けるためとかじゃないんですか?」
「……朝っぱらから堂々とエドワルドの雑貨店を襲撃してきたような連中が、いちいちそんな所まで気にするとは思えないのよね。本気でエドワルドと喧嘩をするつもりだって言うなら今更誰かに存在を知られることを危惧するとも思えない。っていうか教会の保護政策からしても、ハルピュイアの密猟って相当なハードルだよ? 違法『ギルド』でも中々手を出さない領分で好き勝手やってるんだからそれだけでも悪目立ちは避けられない。なのに教会に情報が入ってきてない、って言うのは気になるけどさ……」
頭の中で整理した情報を思い浮かべながら、彼女は『聖剣』の柄を撫でる。鍔部分を覆う、半透明の宝石のような部分には黄色の光。『ミーシャ』戦でも何度かこの光を見たことのある彼女だが、これの正体については彼女でも把握できていない。『聖剣』を管理していた教会が詳細を掴んでいない以上、何かの兆候と見て警戒するのが精一杯だ。
「でも、教会の情報も正確じゃありません。ハルピュイアの密猟を試みる『ギルド』の話ならよく聞きますけど、そういうのだって多種多様なんです。やたら目立ちたがる人達もいれば雑草に徹する人達もいる。一見して矛盾してても、実は合理的な行動を取っている『ギルド』だって少なくはないんですからね」
「……私は少なくともあの野郎が合理的な行動を取ってるとは思えないけど……どう考えてもあれ精神異常者だよね? ゲゥエアィイッヒッヒ☆ とか何とか気持ち悪い笑い声してたし」
純金の『聖書』を両手で抱え込むルーシーと、片手で顔を覆って俯く『勇者』。
辺り一面は完全な森だ。まさかヴァティカンの目と鼻の先にこんな生い茂った原生林があるだなんて教会のお偉いさんは想像すらしていないだろうが、月も出ていない夜では周囲は完全な暗闇と化している。一歩先どころか自分の手元さえ見えない、蛍の光のような『聖剣』の輝きが唯一の光源と言っても良いだろう。当然、こんな状況では襲撃者の追跡なんてできる訳がない。
彼女の第六感……『適合者』の持つエレメント知覚能力についても、どこまでも追えるような高性能な代物でもないのだし、今はアテにしない方が無難と言うものだろう。
「……まあ、あいつの介入があったにせよ。いいえ、その中で言ってた中身からしても、連中がここに何かを仕掛けた可能性は高いのよね。人間との関わりは極力避けるはずのハルピュイアが、何で私のカップラーメンにかぶり付く程に衰弱してたのか。食糧難が起きてたにしても本来はあり得ない行動なのに、どうして警戒することもなく私達と交流したのか……」
「それは良いんですけど、その、何ですか? かっぷらーめん? それってあの、魔族占領区の中枢近くでしか生産してないっていう一級グルメじゃないですか? あ、あの、できればそれの入手ルートとかを教えて頂けないでしょうか……?」
「……貴方まで餌付けされたいの?」
「……ヴィクトルへのお土産になるかなって、そんな感じ、です。す、すみません変なこと聞いちゃって……あの人生まれは悪くないって言うか所謂貴族階級なのに、どうしてかジャンクな食べ物ばっかり好きみたいで……」
「しょーもねえ知り合いがまた増えちゃったな……まあ良いや。入手は少し手間取ったけど在庫がまだいくらかあるし、そこにメモしたルートを使えば問題ないでしょう。それより、今は自分達の任務に集中。アイツが出てこないならリディアスが言ってきた調査は続行しなきゃならないんだからね」
「了解、です。じゃあ、私も少しお手伝いを」
『聖剣』はいつでも引き抜けるよう、意識は半々に分けつつ地面に屈む彼女。
で、ルーシーの方は黄金の聖書の記述を指でなぞり、掌サイズの小さな十字架を取り出してきた。それを宙に放り投げると十字架の下端が土に突き刺さった後、パタリと傾斜を無視して倒れる。その方向としては彼女が感じ取っているエレメントの残滓の流れと平行だ。
ハルピュイアが飛行の補助として使用しているというエレメント……『風』、だったか。既存の六芒四道説に当てはまらないアウトローではあるが、教会も流石に『聖なる獣』の使うエレメントまでもを否定することはできないらしい。前述のようにあくまで『火』『水』が合わさった複合エレメントとしてカウントする方針で通っている。
(……でもまあ、『風』もいずれ無芒唯道説みたくねじ伏せられるかも知れないわね。ハルピュイアがああして崇められているのだって、他の動物にはない習性と羽毛の美しさが原因みたいなもんなんだし。本来は脅威級に分類される魔獣、いつかは排斥される運命なのかもなあ……)
そもそもハルピュイアという名前自体が人間の都合で勝手に作られたもの。由来は『掠める者』、ギリシア神話に伝わる賢人ピネウスの食卓を荒らした人頭鳥体の怪物が元になっているはずだ。神話に出てくる連中だって空腹のあまりに人間の食物に手を出したのかも知れないし、そうでないのかも知れないが、どっちにせよ彼等はただ食事をしただけだ。そこに対して『掠める』もへったくれもあったものではないだろう。彼女としてはそういう発想の方が優先されてしまう。
「『ピネウス=アンテピティス』はここに何かを仕掛けた。アイツの言い分を信じるならそれは確かだけど……でも、一体何を? 食物になる動物が徐々に減少していくってことは、やっぱり食物連鎖の最下層に異常が起きてるって考えるのが妥当だけど……そうすると、やっぱり」
「土壌汚染、あるいは大気汚染、あるいは……そうした、小さくてデリケートな動物に対して大きなストレスを与えることで、弱小な下層から順々にということでしょうか……」
「でしょうね。毒を盛るって手もあるけど、ハルピュイアに対してならまだしもこの森の小動物全体に対してっていうのは考えにくいし。マルティリャーナは教会立公園の中じゃ小さい部類に入るけど、それでも面積で言えばヴァティカンの半分近くだしね」
地面を撫で、指に触れたものを摘まみ上げる。体長わずか数センチの昆虫の死骸だ。指先から流したエレメントの感覚で中を覗いてみるが、やはり毒物らしき反応はない。損傷具体からして捕食された訳でもないし、このサイズだと寿命ということでもないだろう。
他にもいくつか、中腰で移動しながらネズミやウサギ、リスといった小動物の死骸をかき集めていく。だがいずれも結果は同じ、外傷内傷その他諸々による結果ではない。明らかに何かしらの『圧』によってジワジワと追い詰められ、押し潰されるようにして死んだとしか考えられないのだ。
とすれば原因として考えられるのは、やはり……。
「……環境汚染によるストレス、それが誘発した変死。これが順当な所かしらね」
地面に指を這わせ、枯れた雑草を根っこから引き抜いて彼女が呟く。
ルーシーの十字架は相変わらず傾斜とは無関係にパタパタ倒れているが、全く規則性がない訳ではないらしい。移動しながら小動物の死骸を漁っているせいで分かりにくくなっているだけであって、エレメントの残滓の方は変わらず一定方向を指し続けている。
マルティリャーナ教会立公園の中央付近、ハルピュイア目撃情報及び被襲撃情報が最も多く寄せられている場所。平たく言えば、ハルピュイア達が主に住処として利用する一帯だ。
「こっちの『告解』も同じ反応が出てます。確認できるだけでも土壌汚染と水質の悪化、空気の成分にも奇妙なものが……人間には無害なもののようですけど、ハルピュイアに対してどういう影響を及ぼすのか……これは検査してみないと分からないですね」
「どっちにしても良い物な訳がないけどね、ルーシー。……それで、ハルピュイア達が作った『風』の反応はここからどれくらい離れてる?」
「直線距離で大体五キロ前後、フィグロネ地区の中です。他にも反応はいくつかありますけど、大きな流れはそこに集中している感じになってますね」
「……とすると、飢餓状態のハルピュイアの群れはそこに留まってる感じか。エレメントの流れからしてマルチリャーナの淵まで飛んで行った個体がいくらかいるみたいだけど、一つだけ外まで続いてるみたいね。これがあの子の痕跡?」
「淵まで来ればヴァティカンは目と鼻の先ですけど、でも城門を超えたとしてもクナブラ=クォド=アモル殿まではそれなりにありますよ。人の目に映らないように飛ぶのもかなり大変ですし……っていうか飢餓状態であの結界をぶち破るっていうのが奇妙な点ですよね。いくらハルピュイアの攻撃性がずば抜けたものだからと言っても、ロクにエネルギー補給ができない状態でそんなことができる訳はないと思うんですけど……」
「それができるから非公式の分類は脅威脅威級の魔獣ってことでしょ。そんなことよりも」
ヴァティカンの光が城門で遮られているせいか、暗闇に目が慣れ始めたのか、地面に沿って這うようだった彼女が腰を上げる。
蛍の光のような『聖剣』の輝きは黄色で変化がない。ルーシーが直視しても特に目潰しになっていない辺り、光度は相当落ちているようだ。
「五キロなら足でも何とかなる。とりあえずそのエレメント反応の濃い所まで向かうのが手っ取り早そうだね。ハルピュイアを直接検査するにも『ピネウス=アンテピティス』の奴等の動向を確認するにも、どっちみち目指す場所は同じなんだし」
「……今ハルピュイアの性格は物凄く獰猛だって言いませんでした?」
「そう返すと思ったから、ちょっと手は打ってある」
? と怪訝な声色の(微妙に透けてる)ルーシーに、彼女は鎧のベルトに挟んだものをチラつかせる。
鮮やかな色彩を放つ水色の羽。空力的な効率は決して良くないその形状は、どこからどう見てもハルピュイアのものとしか思えないが……そんなものを一体どこから調達したかと言えば、
「クナブラ=クォド=アモル殿に突っ込んできたあのハルピュイアの女の子から拝借したの。サリィナちゃんを通じてお願いしたんだけど、一枚だけなら別に構わないって答えてくれたからお言葉に甘えたって訳ね」
「羽、ですか? その感じだと抜いてからそんなに時間が経ってなさそう……ってことは臭いと色を顔パスの代わりにするということでしょうか」
「大まかに言っちゃえば大体そういう感じね。調べた所によると、どうも一部のハルピュイアの群れには人間との交流の証……心を許したっていう証明として自分の羽を送る個体がいるらしいの。しかもその群れはごく最近までヴァティカンの対岸にあるコルス島に住んでいた、そうよ。今は教会の異端盗伐の影響で数が減ってるらしいけど、何匹かはヴァティカン近くの営巣地まで渡ってきたっていう記録も見つかってるっぽいし」
つまり、この羽は群れに関わることを許された者の『免許証』だ。ハルピュイアは基本的に空を主な領域とする生物であるが故に、飛行に関わる羽は極力傷付けないようにしている。いくらエレメントによる補助があるとしても、やはり揚力による飛行を用いた方が体力消費は少なくて済むからだ。
それをわざわざ引き抜いて渡しているという事実自体、ハルピュイアに認められたことを示すもの。ここの群れにコルス島の個体が混ざっていれば、あのハルピュイアと『勇者』との関係性を感じて攻撃してこない可能性もない訳ではないのだ。
「……でも、掛けとしては結構危険ですよ。ハルピュイアの寿命は人間の半分以下、それに食物連鎖の頂点にいるとは言っても近年は密猟で数が減っています。コルス島の個体が生存しているかは正直怪しいですよ……」
「ないよりかは断然マシってやつよ。私もハルピュイアの恐ろしさは経験がないって言えば嘘になるんだしね……それじゃあ、そろそろ行きますか」
「……オネガイデスカラドウカハルピュイアダケニハデクワサナイヨウニ……」
「何でルーシー急に片言でガクブルしてんのアンタそういうお年頃なの?」
補足しておくと、リディアスが渡してきた履歴書にはガッツリ一六歳(満)と記載されていたので多分その通りなのだろう。実際に経験した彼女だから言えるが、思春期の女の子は時に思いもよらない行動を見せるものなのだ。
そんな余興はともあれ、二人は暗闇の中で足を進める。
しつこく言うが、マルティリャーナ教会立公園はヴァティカンの約半分とも言われる面積を誇る自然保護区。ヴァティカンの目と鼻の先にあり、ラバロやティボリ、サンタンジェロ=ロマーノなど有数の街が配置された中心に位置するために『陸の孤壁』とも言われる。本来はここも教会によって都市として開発される予定だったのだが、調査のため踏み込んだ円卓騎士の一団がハルピュイアに襲撃されたという事件を受け、急遽自然保護区に指定されたという経緯がある。周辺が街だらけなのはそのせいということらしいが、にしてもハルピュイアのことを考えた割には違法密猟系『ギルド』は野放しにしているのも怠慢ではないだろうか。
(ま、そういう話は『ミーシャ』の時も同じだったっけな)
羽のパスポートがどこまで通用するか分からない以上、過信は禁物だ。足音を立てないよう踵から靴底を下ろし、姿勢もなるべく低く中腰。肩掛けマントのルーシーはフードを深く被って顔を隠しているようだが、果たしてどの辺まで通用するのかは分からない。
……その、何だ。とにかく自己主張の激しい胸元を真っ白な布一枚で隠すのはかなり無理がないだろうか。というか先程から背中に柔らかいものがぶつかる感触がして気になることこの上ないのだが……同性にやったって意味はないぞ、多分。
「(あ、あの、できればもう少しだけ歩幅を大きめにしてくれませんか? 体が当たると前の紐が切れてめくれてしまいそうで)」
「(だったらアンタはそのデカい脂肪分の塊をどうにかしなさいよ何でヴィクトルとかいう彼ピッピじゃなくて私に当ててんのよ!? 色でも売ってるつもりか!?)」
「(で、ですからもう少し速めに歩いて頂けると……その、ヴィクトルは歩くのが少し早いので合わせていたらこんなことになっちゃってまして……)」
「(……リア充が……)」
「(な、何か言いましたか? ちょっと紫色のオーラが出てる気がするんですけど?)」
他人の惚気話程聞いていてイライラするものはないとしかと思う彼女だった。
夜の森は暗いが案外物音は多いもの。虫の音水音鳥の声、あるいは夜行性の魔獣の鳴き声。ハルピュイアの主な餌となるネズミとかだったらこの辺には結構いるはずだ。
だが今に限っては、それがない。
食物となる動物の激減、それによるハルピュイアの食糧難。『ピネウス=アンテピティス』の仕掛けた『トラップ』が、彼等をそこに追い込んだ。
だから、か。こんな彼女達の小さな声でも聴覚に突き刺さる程、辺りは静かだ。
(こうも音がないと、普段意識しない物音でも背筋にクるものね……これって自然状態と比べると相当ヤバいってことだろうし)
こうなると自分の心音さえ耳を貫くようだった。
食物連鎖の頂点に立つだけあってハルピュイアの五感は非常に鋭敏だ。何キロも離れた得物の血の臭いを嗅ぎつけるとか、自分の背後数百メートルの密猟者の吐息を感じ取るとか、言われようと言うか噂話は様々だが……それでもほぼ全てのの密猟系『ギルド』がハルピュイアの狩猟に失敗して返り討ちに会っているということは、あながち間違いでもないのかも知れない。
プルーマ=ブラツィウムは特に性質が猛禽類に似た種。
どんな獲物だろうが瞬時に発見し、視覚では捉えられない程の高速で突撃、コンマ数秒も使わずに仕留めるという離れ業は、とても並大抵の感覚を持った生物ができるものではないのだ。
(……ということは、私達の存在も既に知られてても良い頃なんだろうけど……それにしても反応がない。察知できても迎撃できない、つまりそこまでに衰弱してるのか……あるいは、……)
斜面を登り、下り、それを何回か繰り返した。
途中で目的地を見渡せる場所があったのでそこも利用してはみたが、やはり夜の暗さのせいか正確な状態までは分からない。と言うか夜闇に加えて草木の多さが凄まじい。ヴァティカン外周から一キロも離れていない、その上周囲を別の都市に囲まれた場所だと言うのにこの鬱蒼とした感じは、もはや異質とも言いたくなる不気味さだ。
相変わらず足元は泥や枯葉で満ちていて、音を立てずに歩くのが困難。この泥炭さえ『ピネウス=アンテピティス』による汚染を受けていると考えると、彼女もルーシーも背筋がぞっとしてくる。
「(土壌汚染、水質汚濁、空気の変調……って言ってたわね。それ、具体的には分からないの? 人間には無害でハルピュイアの餌になる生物にだけ害を与えるっていうトラップは)」
「(ストレスを与えるだけなら簡単です。でもハルピュイアとその餌にだけってなるとかなり難しいですよ。汚染された環境でも生きていける生物は結構いますし、そういった環境で掃除屋としての役割を持ったものだって少なくありません。……皆さんが嫌いなゴキブリだって自然界じゃ貴重な環境保護員なんですからね)」
「(となると、複数の要因が絡んでる? 単なる汚染物質だけじゃない、魔術なり聖術なりが存在してるのか……でも私にはそういう『跡』は察知できてないし……)」
「(……ですね。『告解』もさっきからだんまりです。汚染されてるって言っても具体的な要因が分からないのでは結論も出せません。もう少し証拠なりが欲しい所ですけど……二人だけでここを調べ尽くすのは無理ですし……っと)」
そんな折、ふとルーシーが小さな声を上げる。
カツン、という音だ。いつもなら聞き逃してしまいそうな程弱いものだが、澄み切った森の中ではやたら大きく響く。それこそ心臓が縮こまるような感覚さえしたが……大丈夫だ。今の所他者の気配はない。
「(どうしたのルーシー?)」
「(……何でしょう。今、何かにつまづいたような……音からして鋼でしょうか? でもこれ……形からしても武器じゃ、ない?)」
そんなことを言いつつ、白フードのルーシーはその場に屈む。
その地面から突き出すように、何かがはみ出していた。見た感じは錆だらけの全長二メートル程度の鋼材という印象だが、表面は荒々しく抉れたり裂けたりしている。端の方には何かが突き抜けたと思わしき大きな穴まで開いていた。
埋まってからかなりの年月が経過している……と見るにも不自然か。教会がここを開発しようとして地質調査を敢行した際、中止を通達されてそのまま放置された、と考えるのは難しい。この鋼材に付いているのは、あからさまな破壊の後だからだ、
とすると、これは『ピネウス=アンテピティス』が絡んでいる?
「(でもこれ……H字の鋼材なんて何に使うんだろ? 別にモズのハヤニエみたくここで保管しておくつもりじゃあなさそうだし……ここに拠点を作ってたにしても、ついうっかりでクナブラ=クォド=アモル殿の結界をぶち抜くプルーマ=ブラツィウム種のハルピュイアの襲撃を防げるとも思いにくい……もしかして、これはそういう類の『トラップ』?)」
「(中に毒物を入れておいて、あえてこれを攻撃させることでハルピュイア自身にばら撒かせる、といった感じですか? でも、先程も言いましたけど毒物を利用した汚染は考えにくいんですよ。ハルピュイアの餌だけに通じる毒なんてそれこそ錬金術の領域ですからね)」
「(じゃあ、これは何なんだろう……見るからに『ピネウス=アンテピティス』の仕業っぽいものではあるんだけど……)」
この損耗具合からして、まともな使い方をされたとは思えない。
だが外見的には、武器として使われた形跡もない。第一これでハルピュイアを殴り殺すにしてもリーチが短すぎる。あの頭のイカれた襲撃者や『静狂』の得物ならあり得るにしても、連中の実力からして自分の武器をここまでボロボロにされるとは考えにくいのだ。
だとすれば。
『それ』は既存の使い方からは逸脱して扱われていたか。
あるいは、彼女等の想像を超えた『何か』の産物なのか。
応えは、直後にやって来た。
うぅる、うるるる……と、まるで肉食獣が唸るような声が。
彼女等の背後から、明確に響いてくる。
「(……ッ!?)」
「(……ッ!!)」
侵入に気付かれたのか。
狩り物の羽の通行証は無意味だったのか。
あまりの空腹が、彼等から理性を奪っているのか。
とにもかくにも、彼女は自らの自衛本能に従い、とっさに『聖剣』に手を掛けようとして……思い留まる。
ここで武器を向ければ、間違いなくハルピュイアは敵意ありと見なすはずだ。性質が獰猛とは言え非常に高い知性を備えた魔獣、それがハルピュイア。時には人と積極的な交流を行い、ごく稀に人間との間に子をもうけることもある彼等であるならば、この段階で手を引けばそれ以上の攻撃は行わないはずだ。
だがここまでの間、一切気配を見せなかったということ自体が既に死亡フラグか。
プルーマ=ブラツィウム種の性質は猛禽類に似ている、というのは先述の通り。その狩りは特に夜間、ミミズクにも似た自らの存在感を見事に消し去る狩りの仕方が特徴的となる。
エレメント操作による浮遊も羽ばたきによる飛行も行わず、ひたすら相手の注意から逃れて背後を突く、というのが最もよく知られた方法だ。かつてハルピュイアの昼行性説を鵜吞みにして群れの夜討ちを画策した多くの『ギルド』がこれによって壊滅させられ、ほとんどの者は死体さえ発見されずに命を落としている。それが嫌だと言うならば、そもそもハルピュイアを下手に刺激しないように努めその場を立ち去るのが鉄則だったのだ。
気付かれない内に、という条件付きで。
「(……ヤバい、これは本当にヤバいやつだ……ッ!!)」
結局防御行動に出ることはせず、背後に感じた気配を頼りに上体を折り曲げる。そこから遅れることコンマ一秒、背中に回した鎧のベルトが切られた。恐らく後ろの指の爪が掠めたのだろう。獲物の近くまで降下してから両足で掴み上げ指の力だけで頸椎をへし折る、猛禽類特有の狩りの方法だ。
ほどなくして自分の目に映ったハルピュイア。夜の暗闇のせいで分かりにくいが、それは鮮やかなマリンブルーの羽を持つ個体だった。プルーマ=ブラツィウム種特有の尻尾のような風切り羽、それに人間よりもやや小さな耳の後ろから生える飾り羽も含め、この一瞬の邂逅だけでも目に焼き付けられる美しさがある。脳ミソに直接刻みつけられるようなと言うべきか、意識に突き刺さっていくようなと言うべきか、表現を挙げるなら枚挙にいとまがないことだろう。
そんな余裕が彼女にあれば。
背中側からの急襲。恐らく獲物に気配を悟られないよう、ここまで羽ばたかずに滑空してきたのだろう。『風』のエレメント操作の痕跡はそれまで感じ取れなかったばかりか、今この時になってようやく流れが掴めるようになってきた。それも決してハルピュイアの通常飛行の時とは違う、流量としてはごく僅かだ。
「『勇者』さん!! この……ッ!!」
「ばっ、馬鹿魔術は使うなルーシー!!」
とっさに反応して黄金の聖書に指を走らせようとするルーシーは、首に左腕を巻き付けるようにして抑え込む。むがっ!? と奇妙な声と一緒に自分の脇の辺りに感じた柔らかい感触は今は気にしている余裕がなかった。サイズが負けてるとは言え今は事態が事態だ。
(クソッ、何でこのタイミングで……まだ目標地点までは距離があるんだぞ。飢餓状態だっていうならどうしてこんな場所にハルピュイアが飛んでるのよ!?)
そんな彼女達の目の前で、一匹のハルピュイアがホバリングしていた。一撃で仕留められなかったことで苛立っているのだろうか、平常時ならばまず出さないだろう低い唸り声が喉笛から鳴らされている。音としてはネコ科の肉食獣と言うべきか……よく彼女が耳にするソプラノの歌声からは程遠い威嚇の声だ。
立ち去れ、などと警告しているのではなく。
お前を殺す、という死刑宣告を下すかのような。
本能的でありかつ理性的。これこそ空腹のハルピュイアにもたらされた狂気ということなのか。あるいは『ピネウス=アンテピティス』の仕組んだトラップは、ハルピュイアの理性さえ塗り替えるような効力を持っているのか。
推測はいくらでも浮かび上がるが根拠は得られない。彼女は『聖剣』を、ルーシーは黄金の聖書を構えて防御態勢を取ってはいるが、正直これは良くない兆候だ。
「ここで刃を交わせばハルピュイアに敵対心を向けられる……そうしたら一巻のお終いじゃない。マルティリャーナのハルピュイアが総出で私達を殺しに出てくるかも知れないわね」
「……サラっとどころか堂々とスゴイことを言ってますけどね『勇者』さん、その、実際問題このハルピュイア私達をエサだと思ってません!? ってことは……連鎖反応的に他の個体も餌を求めて飛んできたりしませんかね!?」
「そうならないように何とかやり過ごすしかないでしょ、とりあえずは!!」
地面を蹴る、つまり逃げる。
どの道ハルピュイアとまともにやり合えば生存率はウナギ上りの逆向きに低下、指数関数的に死亡率が跳ね上がっていくものなのだ。相手は黄金柏葉以上の円卓騎士であっても真っ向から虐殺できる魔獣、『聖剣』への依存度の高い彼女が太刀打ちできるとは考えられない。
詰まる所、ここは『逃げ』に徹するのが定石。
空を飛ばせれば最強と称される程に高い飛行能力を持つハルピュイアはそれこそコウモリのような高等飛行も可能だが、彼等が飛べる範囲にも限界はある。極端に入り組んだ地形、翼面積よりも狭い場所が延々と続く岸壁沿い、そして翼を畳んでも通過できない小さな穴などいくつかある。人間に比べれば小柄と言えても体格そのものは人間寄りである以上、そういった盲点を突くことだって不可能ではないだろう。
「ルーシー、近くに駆け込めそうな洞窟とかは!?」
「少なくともマルティリャーナ教会立公園にそういうものがあるという話は聞いたことがないですよ!! 『ピネウス=アンテピティス』の連中がそういう類のキャンプを作ってるとかなら話は別ですけど、今から探して間に合うと思いますか!?」
「だからそういう悲観的な発想が駄目なのよ!! だったらあのハルピュイア説得して何とか食べられないようにしてみる!? どう考えても食欲で脳ミソ沸騰した教会領随一の美しさを誇る魔獣サマに鳥葬されてジエンドでしょうが!! まだ私一八なんだよこんな所でグロい変死体になって発見されたくないよお!!」
「わわわ私だってまだヴィクトルにさよならのキスさえしてませんからね!? 死にたくないのは誰だって同じですし私だってまだ一六歳なんですから!!」
「よし分かった今の発言は覚えとけ!! 二つも年下でそんな胸してやがって半分ぐらい私に分けろっての発育良好のルーシーチャァァン!!」
……背後からハルピュイアが追ってきているのに愚痴ばかりが飛び出すのは、恐らく現実逃避ということで間違いないだろう。
むしろ、この絶望的な場において目を背けたくならない方がどうかしているか。
ぶぁぁさっ!! という羽音が耳に入ったことも、多分その要因の一つだ。
彼女とルーシーの真上から飛来した別の影。同じくプルーマ=ブラツィウム種のハルピュイアだが、こちらは羽の色が違う。ダークブルーを基調に、先端近くがくすんだ黄色のグラデーションになっているのが特徴だ。風切り羽や飾り羽もやや短く幅広い所を見るに、恐らく雄のハルピュイアだろう。強靭な身体もより鋭く尖った鉤爪も、後ろから追ってきている個体をさらに超す脅威だ。
(まさか、これも織り込み済み……ッ!? あえてこっち方向に逃げさせて仲間のいる方に誘導したって訳なの!? 空腹で頭が回ってんだか壊れてんだか分からないけどこれは……!!)
もう四の五の理屈を並べている場合ではない、か。
自然と『聖剣』を握る力が強まる。だがどうしても引き抜けない、それもまた事実だった。一度彼等を斬ってしまえば、すぐにでも増援のハルピュイアが飛んでくる。それは『勇者』たる彼女でも数分相手ができるかどうか、そんなレベルの話だ。
こういった優柔不断が寿命を縮める。上空から飛来した雄のハルピュイアが彼女等の進路を塞ぐように降りてきていた。そのまま鋭利に尖った鉤爪を掲げ、彼女の頭蓋骨さえ砕かんばかりの威力さえ伴って振り下ろす……最中、だった。
鈍い音が。
その雄のハルピュイアの脇腹に、彼女達を追っていた個体の鉤爪が、突き立てられる。
「え?」
「……は?」
直撃を免れたはずの彼女とルーシーは、怪訝な声を上げずにはいられなかった。
前提を見直してみれば、あの雌のハルピュイアは自分達をターゲットとして追跡し、今ここまで背中を狙ってきたはずだ。マルティリャーナ教会立公園の食糧事情からしても目の前のか弱い獲物を逃すはずがないし、むしろこれを見過ごせば次のチャンスは永久に望めないかも知れないのに。。
何故か、その鍵爪は。
同族である雄のハルピュイアに向かって、深々と刺し込まれている。
「ヴぃ、ヴぃいぃいいいあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!???」
ハルピュイア特有の甲高い鳴き声が水っぽく変質した、サイケデリックでグロテスクな断末魔が彼女等の耳を切り裂く。頭蓋骨を開けられて直接脳ミソをかき混ぜられているような錯覚さえ伴う程の嫌悪感に苛まれて、それでも彼女は見据えずにはいられなかった。
遅れて噴き出る真っ赤な血を見ても、表情一つ変わらないばかりか、同じ種の仲間を殺したことに対する反応など何も起こさない。あたかも、これが普通の狩りと同じものだと言わんばかりであった。
「……な、……」
しばらくの間、彼女は『聖剣』を掴みながらも口を塞げなかった。
雄のハルピュイアが地面に落ちる。もう一体はその雄の首を掴み、爪を喰い込ませ、へし折り、その傷口に顔を突っ込んでいた。急に我に返ってパニックになったとかいう話でもないようで、そのまま犬歯を肉に食い込ませ、上体の力を使って強引に引き千切る。その途端に滝の如き勢いで真っ赤な血液が噴き出し、顔面や羽毛をびちゃびちゃに汚していくが、そうであってもなおハルピュイアは反応らしい反応を見せることはない。
それどころか近くの彼女達へと向けられたプレッシャーは、こんな意味を持っているようにさえ思える。
近寄るな、これは私の獲物だ。
お前等に分けてやる分なんか残っていない、と。
「何、を、」
共食い。
そんな言葉が、真っ先に彼女の頭の中を埋め尽くす。
「……、してるんだぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
今度こそ『聖剣』を振り抜いた。ただし使うのは刃の部分ではなく逆の柄尻だ。捕食に夢中でこちらへの注意が薄いハルピュイアの頭部に対し、思いきり叩き付ける。ぐらりと頭が揺れたもののそれ以上はなく、その痛みさえなかったかのように再び雄のハルピュイアに噛み付いていた。
ぐちゃぐちゃ、べちゃべちゃ。首を裂き、胸を割り、腹を抉り、臓物を引きずり出してその中に頭を突っ込み、ひたすら肉という肉を食い千切っていく。その度に凄まじい量の血液が噴き出し、至近の彼女にまで生暖かい感触を撒き散らしていた。
ならばもう一度、ハルピュイアの頭を掴んで柄尻で一撃。今度こそ脳震盪を起こして横向きに倒れていったが……これにて終了などという生易しい話ではないだろう。
共食い。
繰り返すようだが、それが彼女の目撃した現実だ。
「……嘘、でしょう……ハルピュイアが、いくら空腹だからって自分達の仲間を殺して食べるだなんて……ねえ『勇者』さん、これって、きちんと、夢の中ですよね……っ!?」
「ルーシー、現実逃避なんかしても余計辛くなるだけだから止めといた方が良いよ……まずは直視して、処理するのはその後!! ……それにしても、共食いか。くそっ!!」
太古の地球に生息していたという肉食の蜥蜴とか、あるいは現代の教会領にも生息するサルの類なんかには、食料となる獲物が枯渇した緊急時に仲間を殺して捕食する習性を持ったものも存在しているらしい。前者についてはかなりの昔に絶滅している+情報源が魔族占領区の奥の方なので事実かどうかは分からないが、それでも共食いという行為自体は決して珍しいものではない。
しかし、ハルピュイアについては事情が大きく異なるのだ。
「仲間内の……群れの中の絆を何よりも大切にするハルピュイアなら、生息地の食糧難においても共食いになんて走る訳がない……一体何をどうしたらこんなことになるのよ……」
「環境汚染によるストレスは獲物になる動物に対してのはずですし、あるいはハルピュイアの行動パターンを書き換えるような別のトラップが用意されていたとしか……」
「考えだけなら妥当かもね。だけど……『ピネウス=アンテピティス』が単にハルピュイアの密猟をしているだけなら、普通はこんな手段は取らないはず。血で汚れた羽は価値を下げられるものだし、捕食のせいで状態も悪くなるし。どう考えても密猟目的じゃない……しかも」
普通なら、通常なら、いつもなら。
そういったテンプレートが、いとも簡単に捻じ曲げられている。
自分がこんな状況の中で発狂していないことが不気味に思えてくる程に狂った状況だが、悲劇はそこで終わらないものらしい。
あれだけ静かだったマルティリャーナの森がざわつく。争う音、悲鳴、血の臭い。それらに導かれた無数の影が、彼女とルーシーの資金で蠢く音が響いていた。
わずかな光を反射してギラリと輝く瞳が、瞳が、瞳が。人間二人ではなく血まみれの肉塊と化した雄、そして彼女に気絶させられた雌のハルピュイアに対して視線を注いでいた。
そればかりではない。彼女が感じ取った『風』のエレメントの流れからしても、視線同士でも既に噛み付き合いが始まっている。ある個体は目を啄まれ、ある個体は番を成しているはずの隣のハルピュイアに食らい付き、ある個体はそれを背後から襲って漁夫の利を得ようと動いている。
もはや群れの秩序も序列も絆もあったものではない、鮮血と暴食にまみれた地獄としか言いようがない光景が……そこに、ある。
「……あれだけ理性的な魔獣って言われてるハルピュイアを、ここまで本能に駆り立てることができるだなんて……よっぽど強力な洗脳とか、認識改変でもしてないと辻褄が合わない感じじゃないか。どう考えても自然に収束するようには思えないわよ、少なくとも私には!!」
「あ、あの『勇者』さきゃっ!?」
笑い転げている自分の膝を押さえるルーシーに対し、その白いフードを掴んで地面に伏せさせる。すぐ真上を通過したハルピュイアの両足に『聖剣』の腹を叩き付け、バランスを崩した所に握った左拳をブチ込んだ。この個体は口にやたらドロドロしたした長いモノ……つまり腸を咥えている。空腹状態で中がほぼ体とは言え、内臓などとても良い味のするものとは思えない。
やはり普段ハルピュイアが餌とするものとは程遠い……なんてレベルではないか。例えハルピュイアが雑食であり、彼女が目撃した個体が、クナブラ=クォド=アモル殿の子供達用のソーセージをつまみ食いしていたとしてもだ。
飢餓による暴走では説明が付かない。認識改変、習性変換、それこそハルピュイアをハルピュイアたらしめる記号の崩壊とでも呼ぶべきなのか……?
「……の、こんなの……普通じゃないなんていう話じゃないですよ……」
完全に足の力を失ったルーシーがへたり込んでいた。
そのすぐ隣で、胸に風穴を開けられた雌のハルピュイアが、複数のハルピュイアに肉を啄まれていた。まだ多少の動きがある所を見るに、恐らくはまだ感覚が残ったままの状態だろう。それでいて抵抗の声が上がらないのは、既に喉を食い破られているからかも知れない。
「……ハルピュイアがハルピュイアじゃない。あの子は抜け出してきて正解だったってこと……? だとしても、こんなのは、どうかしてるわよ!!」
ゴキン!! ゴッ!! と、立て続けに『聖剣』を振るう彼女。何度も何度も柄尻で頭を打たれているにも拘らず、多くのハルピュイア達は痛みに絶叫を挙げることもない。眼中にないと言うかそもそも彼女もルーシーも見えていないような、とにかく反応に乏しいのだ。これでは目の前に別の食糧を投げた所で意にも介さないことだろう。
彼女が一匹一匹殴り付けルーシーが体を張って羽交い絞めにするも、効果はないに等しい。
一匹を押さえている間、別の数匹が仲間の死骸に食らいついている有様だからだ。
「ぐちゅ、ぎゅるちっ!!」
「がぁあっ、ギィイ!!」
「ヴぁあああああああああああああああああああ!!」
珍しく高度な知性を持った魔獣。
そんな教会の言い分なんて、一切合切通用しない光景。
死骸に噛み付き、骨を折り、血を啜り。それを別の個体が背後から襲い、背中を袈裟切りに裂いていく。その傷口に頭を突っ込んだハルピュイアの首を、また別の個体が噛み砕いてへし折っていく。
結局、その繰り返しなのだ。
どれだけ阻止しようが、二人だけではどうにもならない。
「……くそっ!!」
もう増援が教会の意向がとか気にしている場合ではない。とにかく一度に全てのハルピュイアの意識を刈り取りでもしない限り、このスパイラルは留まる所を知らないのだ。この際は多少の骨折や裂傷、打撲は気にしている場合ではない。
『聖剣』の柄尻だけでなく、鍔や刀身も恐らく無意味。そうなれば残っているのは聖術魔術エレメント操作の類だけか。『風』による上昇気流の発生を利用するハルピュイアにとって最も苦手なのは……同じ『風』で空気の流れを阻害するか、あるいは『水』で一時的にでも酸欠状態に落とし込むか、精神干渉系術式で強制的に意識をシャットダウンするぐらいしかない。
少なくとも、彼等を殺さずに無力化するにはそれしか手がないのだ。
(リディアスめ……こういう所まできちんと説明しないってアンタどこまで腹黒〇事なのよ!! っていうかこれどう考えてもアモル=クィア=クィスク修道会だって掴める情報だよね!?)
「ルーシー、ちょっと手伝って!! 聖術でも魔術でも何でも良いから準備、今すぐこいつらを鎮めるわよ!!」
「し、鎮めるって……私の『弥撒』に『贖宥状』を加えた術式だと相手に主の教えを理解できるだけの知性と理性がないと使えないんですけど、この状態のハルピュイアに効くかどうか……!!」
「何でも良い、少しでもあいつらの動きに干渉できるならそれで構わないの!! とりあえず『水』の爆撃で窒息させてみる、貴女はハルピュイア達の動きを何とか抑えなさい!! 良い!?」
「……で、でも……本当に、それで大丈b」
「良いッ!?」
「ぴぃ!? は、はいです分かりましたです『弥撒』で何とかしてみますぅ!!」
彼女の怒声に少々ビビったのか、ルーシーが二回りぐらい小さくなって跳ねた気がした。ついでに白いフードもめくれて頭が露わになったが、どうも左耳の後ろにポニテが二つ纏めてあるようだ。何かフードのシルエットが膨らんで見えると思ったらそういう理由らしい。
ともあれ、彼女は改めて『聖剣』を握り締める。
ここにいるハルピュイア達全員を覆うように『水』を落とす。口で言えばかなり大雑把に聞こえるかも知れないが、この斜面の形状とハルピュイアの配置に上手いこと合わせるのは至難の業だ。温度、密度、水量……そういった条件が少しでも狂えば、体は強靭だが水生ではないハルピュイアは簡単に死に至る危険性がある。
(これはヤバい奴ね……本当にッ!!)
意識を『聖剣』に集中。そこを起点に、力を纏わせるようなイメージを作り……瞬間、それをなぞるように無数の水滴が生じ始める。判然とした力場であるエレメントが形作った、水に限りなく近い特性を持ちながらもそのものではない『水』のエレメント。直接的な操作は安定性という弱点を指摘されることもあるが、イメージ通りに動いてくれるという点もあり、使い慣れた彼女にとってはむしろこちらの方が扱いやすくて良い。
できれば、こんな用途には使いたくはなかったが。
(マジでこれ以上死なないでよ……じゃなきゃ、あの子に見せる顔がなくなっちゃうから!!)
手にした『聖剣』の重みが変わる。
それを感じ取った彼女は、あたかも弩の引き金を引くように、銀色の刃に纏わせた高密度の『水』を一気に開放する。
はずだった。
「はァーい『勇者』ちゃん☆ こォーンな夜遅くまで密・猟・幇・助オツカレサマでーッす☆」
その前に、脳裏を掻きむしるような嫌悪感さえ伴った声が、響いていた。
彼女のすぐ近く、耳元で。
「ゲゥエアィイッヒッヒ☆ やーァっぱ予想通りの展開っていうかそんな感じねえ。流石にお人好しも度が過ぎる『勇者』ちゃん、ハルピュイアの内紛も共食いも見過ごせるタチじゃあなかったって訳かヨ」
だが、とっさに振り返ってもそこに人影はない。
かと言ってエドワルドのような『声だけが聞こえ、姿はない』というものではないらしい。
瞬間的に声の主が移動していた。彼女の頭上を飛び越えるような恰好で、背後から真正面へ。『聖剣』の柄を抑え込むように握り、彼女の右手に爪をねじり込むかのような握力を掛けながら、さらに言葉を続ける。
「でもさァ……駄目です駄目だよ駄目なんだよ『勇者』ちゃん。ここがどこか忘れたっていうのはちょっと常識外れっつーかアレだね、完全に馬鹿っつーかアホだな。俺っち達がどこで何をやってるのかはもう『勇者』ちゃんだって熟知してるっつーのに、なアんで本来の目的を忘れてこっちに走ってるんかねえ? まァ? そういうチョッピリ抜けてるトコも悪くないから好きっぽいけどねえ? ギュイィイアッハッファ☆」
「……ッ!?」
「あと特にその顔ね☆ 痛いでしょ? 痛くてタマンネエよなあ? でも大丈夫、じきにそれも快感になってくるからさァ。初体験の時とかに破れてメッチャ痛えけどハジメテを一番好きな奴に渡せてウレチイとか? まあそういう感じの快感ってヤツだよ。『勇者』ちゃんはこういう痛みはお嫌いかにゃーん? キッヒッヒヒイイ☆」
神経を直接引き裂かれるような激痛に顔を歪ませ、再び真正面を振り返った時だった。
黒衣の襲撃者。全身を黒い布で覆い尽くしあちこちに傷跡と縫い目を晒す『ピネウス=アンテピティス』の誰かが、すぐ目の前に立っている。
『勇者』の鼻先数センチの位置取りで、恐らく目と目が合っているような視線の高さ。それ故に金属同士を擦り合わせるような聞き心地の悪い笑い声が嫌に響き、彼女の聴覚をダイレクトに刺激してくるが、それをいちいち気に掛けている暇はないようだ。
「ゆ、『勇者』さっ……な、何g」
「うっせえいちいち俺っちの楽しみを邪魔すんじゃネエよ戦力外ちゃん。おらっ☆」
台詞だけなら実に拍子の抜けたものだった。だがどういう魔術を使ったのか、直接手を触れることもなくルーシーの身体がくの字に折れ曲がっていたのだ。
ズンッ……!! という重々しい音が後から遅れて耳に入って来る。それだけでルーシーの前身から力が抜けていくのがはっきりと見えた。両手で抱えていた黄金の聖書は地面にぶち当たるまえに小さな粒子となって霧散し、瞬く間に空気中へと溶けていってしまう。
反撃どころの話ではなく、そもそも何がどうなっているのか、それさえ把握できないままに意識を奪われているようだった。
そのまま地面に転がる。白いフードが取れた茶髪の少女を横目に、黒いマントの襲撃者はなおも彼女を離さない。
「さァーって、久しぶりだねェ『勇者』ちゃァん? つってもまだ数時間も離れてねえ訳ダケドナァ、チョーっとここで問題でも出しとこうか? 『ピネウス=アンテピティス』はハルピュイアの密猟を専門にする『ギルド』ですが、さてあれだけ獰猛で攻撃的なハルピュイアをどうやって仕留めるのでしょうか、ってさァ。正解者には豪華特典として壮絶な痛みを伴う処女膜引っぺがし体験をプレゼントしてやるぜ☆」
「……アンタ、あの子達に、何をしたのよ……ッ!!」
「ゲゥエアィイッヒッヒ☆ 残ァん念、そりゃ不正解だぜ☆ 質問してるのは俺っち、テメエは質問されてる側なんだよ。質問に質問で返すのはルール違反だってこと、分からねえって言わせちゃってからサクッとぶっ殺しです☆ ま、その前にちょっとした雑務っつーか俺っちの専門外な仕事をしなきゃあならねえんだけどな☆ ヴィェッファ☆」
ただ声を聴いているだけなのに、胃袋の底からせり上がって来る酸っぱい感覚は留まる所を知らない。
本当にこれが人の口から出ているのか。人の形をしておきながら、実はこの襲撃者は全く別の種族なのではないか。そんな妄想が脳ミソの奥から湧き上がるように溢れていくが、そこまでが限界だった。
衝撃。
心臓をそのまま握りつぶすような圧力。
ゴドンッ!! という音が後からやってくるのを聞いて、自分の胸に鉄拳がめり込んでいるのを辛うじて視認して……その直後に、視界が端から真っ黒に染まっていく。
(ま、ず……からだ、が……)
『聖剣』を握っていた手が、虚しく開いていく。纏わり付いた『水』のエレメントが霧散していく。
ルーシーはどうなっていたのか。この襲撃者は何なのか。ハルピュイア達を豹変させていた『トラップ』の正体は。未解決の問題は山ほどあるのに、いずれにも明確な答えは用意されない。いくら頭の中で正解を模索した所で、答え合わせをしてくれる者などいなかった。
『……そう言えばァ、あのハルピュイアは今頃どうしてんのかねネェ……俺っちの仕事はこれで何とか完遂っぽいけど、あっちも結構忙しそうなんだよナァ……ま、職人としての腕はあッチの方が上なんだから心配する必要もねえカ』
そんな中。
膝を折り、力なく地面に伏せた自分を上から見下ろす声が、こんな言葉を漏らす。
黒い布で表情さえ見えない、それでいて敵意を遥かに超す殺気を漂わせる何者か。『ピネウス=アンテピティス』の一角たるその襲撃者は、こんな一言を呟いていた。
『じゃあ、あッチはあっちで任せるとシて……俺っちもメンドクサイ仕事を終わらせるか。失敗作っつー扱いだからあんまり期待はしてなかったけどヲ、「氾昂」も意外と使えるモンだねェ。なあ、オデュッセリアの親方ちゃん?』
水っぽい音響の連続。
つんざくような絶叫の数々。
柔肌に生暖かい感触を覚えながら、意識が途切れる。